生きることは義務ではない。
死にたければ、死んだっていい。
自殺を禁じる宗教はあるが、
少なくとも日本では法的には禁じられていない。
考えれば当たり前の話だが、
法で禁じたところで違反者は既に死んでいるのだから
罰したくても罰しようがない。
そもそも人は遅かれ早かれ、必ず死ぬ。
それを禁じることがナンセンスなのだ。
その時期を自分で決めてはいけない理由などない。
つまり、死んだっていいのだ。
人はもっと死ぬことに対して、
自由になっていいのではないか。
「生きなければならない」と言うと、
決意や覚悟を胸に秘めた立派な姿が思い浮かぶが、
同時にそれが義務であるかのように響くと、
生きることは途端に息苦しく、
窮屈なものに感じられてしまう。
そもそも生きる義務なんてものは、
倫理観が捏造した妄想に過ぎない。
と言うよりも義務という観念そのものが、妄想だ。
ただ、それがあった方が社会を形成するのに便利だから
みんな使っているというだけのこと。
人間も生物だから、当然のことながら
本能的に死を忌避する。
生きたい、若しくは死にたくないと願う。
本能だから当然のことだ。
だがこれは自発的な欲求であり、義務ではない。
死にたくないという欲求を、
様々な理由を後付けして義務に変換しているのだ。
誰かが死ねば、大抵の場合において、
そこには迷惑を被る人がいる。
電車に飛び込めばダイヤは大幅に乱れるし、
その処理する人が必要になる。
飛び散った肉片を回収したり血を洗い流したりするのは、
あまりやりたいと思える作業ではなかろう。
迷惑千万、余所でやってくれと思っている人は多い。
それを避けて人知れず首を吊ったとしても、
その死体を処理する人は必ず存在する。
身元確認にはマンパワーも導入される。
発見が遅れれば状況は悲惨なものになるし、
現場には色々と嫌な噂もたつことだろう。
自己物件に人は住みたがらない。
警察も不動産屋も、迷惑な話だ。
有能でワンマンな会社の経営者が
後継者を育てたり選んだりせずに死ねば、
その会社は確実にピンチに陥るだろうし、
一家の稼ぎ頭が死ねば残された家族は
路頭に迷うかも知れない。
やることやってから死ねよと言いたくなるだろう。
挙げればキリがないが、
誰かが死ねばその周囲では、
やりたいことが出来なくなる人や、
したくないことをしなければならない人が生まれる。
そう言った具体的な不利益を被る人にとって、
自殺は迷惑極まりない話だ。
しかし、そんな社会的な話よりも
圧倒的に重要視されるのが、
残された人の感情的な問題だろう。
誰かが死ねば、その近親者は必ず悲しむ。
例えそれが事故や病気、老衰などの
不可抗力的な要因が大きいものだとしても、
その悲しみは耐え難い程大きい。
これが自殺であれば尚更である。
先にも書いたが人は死にたくないと思うものだから、
自殺するには相応の理由がある。
そしてそれは、あってはならない理由だ。
当然、その理由を作った者は責められるだろうし、
そうじゃない人も、なぜ救えなかったのかと、
自分を責めることもあるだろう。
そんな悲しい思いをしない、させないために、
人は人に生きていて欲しいと期待する。
自殺することはこの期待を裏切ることになる。
人を悲しませたくない、期待を裏切りたくない
という思いが自殺を踏みとどまらせることも、
多々あると思われる。
寧ろこれが圧倒的に多数なのではないか。
社会的な責任というヤツは、
相当な信念や使命感を持っていない限り、
生きるか死ぬかの瀬戸際では
案外と脆く崩れる気がするが、
この家族や友人への想いは、
恐らく最後の最後まで気にかかると予想される。
そこまで追い詰められたギリギリのところで、
人への優しさが自分を支えるというのは、
愛おしくも切ない話である。
ただ、もしも、その優しさのために思い留まり、
生き長らえることによって、
彼の苦しみが長引くだけの結果になったとしたら?
その長引かされた分の人生には、
彼にとってどんな意味があるのだろうか。
そんなことを考えると、もし本当に死にたければ、
遠慮せずに死んでいいと思ってしまうのである。
それは権利として認められるべきだろうとも。
生きることを義務すれば、人は死ぬ権利を剥奪される。
いつやめてもいいという感覚がない場所は、
窮屈で息苦しい。
義務には、それが義務であることを正当化する理由が必要だ。
生きることが正義であるという価値観が生まれ、
人はその正義に縛られて生きることになる。
そんな中で自分の人生を
生きたいように生きられるとは思えない。
自分が死んで誰かが迷惑を被ろうとも、
大抵の場合は社会には代わりが居るし、
暫くは混乱することはあっても
何だかんだ言って何とかなることが多い。
また自分が死んで誰かが悲しもうと、
時間が経てば悲しみは(例え消えなくても)
受け入れられ、耐えられる日は来る。
人は誰でも必ず死ぬのだから、
逆にそうなっていないと立ち行かないし、
明日悲しむか数年後に悲しむかの差だとも言える。
つまり、よりよく生きるためには、
自由に死ねることが
前提条件として必要だと思う。
非常に逆説的な言い方になるが、
死ぬ自由のないところでは、
不自由な生き方しか出来ないということ。
誤解されないように書くと、
自殺を推奨している訳ではない。
死ねば誰かが迷惑を被ったり、悲しんだりする。
しないに越したことはない。
しかし死にたければいつ死んでもいいという
力の抜き方が、その気楽さを持つことが、
人生を必要以上に重くせず、
軽やかにより生きたいように生きるために、
有効なのではないかと思うのである。