「泣かないで・もうおやすみ。」



三年付き合い、結婚の約束までしていた同い年の彼に前触れなく捨てられたのは二年前。二十七歳の、桜がそろそろ咲きはじめる春だった。


その日もいつものように彼の部屋でゴロゴロしていた私が、桜前線がどうなどというニュース番組を見ながら言った、


「今年も駅前の公園の桜を見に行こう」
という何気ない一言が引き金だった。


いや、彼の中ではそれよりずっと前から私とのことは終わっていたのだ。何せその時にはすでに、短大を卒業したばかりのピチピチした女の子との結婚まで考えていたのだから。後は言い出すタイミングだけだったのだろう。


あれ?


私の言葉に返事をしない彼を怪訝に思い、振り返ると。彼は唇をぎゅっと結びしかめつらをしたまま目を合わそうとしなかった。三年見てきたはずの彼が全く知らない男に見えた。


涙ながらに「ごめん」と謝られ、なぜか私まで「気づいてあげられずごめん」と謝り。
その日の内に荷物をまとめ、半同棲状態で仲良く暮らした部屋をあっという間に後にした。

床のシミも私がコーヒーをこぼして作ったものだったし、ちゃぶ台も二人で選び、カンカン鳴る貧乏くさい鉄の階段の音も聞き慣れすぎていて。
それらの全てに嵐のようにお別れをし、二度と繰り返せないことに、ただただびっくりしていた。

一日一日をくり返していけば自然に来るはずの幸せな未来はあっという間に・消えた。



あの時、『桜を見に行こう』など言いださなければ彼が考え直してくれていたのかもしれないと、自分の都合の良い考えが浮かんでくるたびに、桜を見に行く約束さえ出来ないほど、彼の中での決意は固まっていたのだ。と何度も自分を納得させた。



その後、入籍をしたなどという彼の近況を共通の友人から聞くたびに落ち込む日々が続いた。その年の桜が綺麗だったかどうかなど、もちろん覚えていない。




七つ年下の今の彼に出会ったのは、一年と少し前だ。

もう男は信用しない・一人で生きていくと熱く決意していた私は、今からの時代・資格だ!資格が無いとはじまらないのだ!と、卒業した大学の図書館へ足繁く通い、法律の専門書を読み漁った(結局・資格への情熱は一過性のものだったけれど)。

現役の大学生たちと席を同じくし、その学生達と共にコピー機に並ぶ。空調で乾燥するコンタクトは着けず・ぶさいくなメガネ姿で調べ物をグリグリノートに書きこんでいる私は、必死な留年生に見えたであろう。



一月の図書館は試験時期とも重なって混雑していた。


「あの、すいません、民法判例集の債権各論ってどこにあるかわかりますか?」
その声に顔を上げると、一回生か二回生か三回生か四回生かよくわからない男の子が立っていた。


学生の男の子の年齢はよくわからない。二十八歳だった私からすれば最低六歳は下のはずだ。


私に聞くな!と思いながらも、一応出来る範囲の笑顔で、
「悪いんですけど・・・私・図書館司書じゃないんで」
と、返した。学生に見えて欲しいとは思わないけれど、こうもあからさまに司書に間違えられるとなーと緩いショックを受けていた。


「そうなんですか、すみません」
背は高くなく、顔だって十人前だったけれど、低くよく通る声と照れくさそうに笑った笑顔だけは印象的だった。



きっかけはそんなものだ。
後々聞くと、話しかける話題作りにわざと司書と間違えたフリをしたとか。
彼は三回生で、二十一歳だった。


「付き合ってください」
私くらいの微妙な年齢になると、なんとなく接近してきては、なんとなく離れていく男が多い中、あまりにも真面目に・直球まっすぐに告白してきた彼の言葉への最初の感想は正直、(おー・これが若さか!)だった。


うんと若い男の子は、年上に憧れる時期がある。ハシカのようなものだ。

こんなに勢いのある彼もいつかは年下の女の子に目がいくようになる。私だって一人でつまらないことは確かなのだから、軽い気持ちでお付き合いすればいいのだ。彼にとっての私が通過点ならば、私も彼を通過点にすればいい。


告白にOKを出すと、彼は子供のように全身で大喜びした。



付き合いはじめても、私はいつもお姉さん然と振る舞っていた。彼はいちいち背伸びしたがっていたけれど、それらもウンウンと包み込む大人の余裕が自分でも素晴らしい!と思っていた。


ただ。一緒にどこを歩いても、彼が無邪気に手をつないでくるのが複雑だった。

周りからどう思われているのだろうか。あの若い男の子、あんなおばさん(!)と手を繋いで歩いてる!などと思われはしないだろうかなどと考えてしまうのだ。

だから、私から手を繋ぐことはただの一度もなかった。




四回生になった彼は、『一緒に暮らして欲しいから頑張る!』と、ずんぐりした体に似合わないリクルートスーツで就職活動に奔走した。

七五三でバタバタ走り回っているように映ったけれど、いつかこの子もかっちりスーツを着こなす大人の男になるのだろうか、との考えに及んだ時、胸がズキリと派手な音を立て痛んだ。

その時・彼のそばにいる私がどうしても想像できなかったのだ。


彼にとって未来とは、一日一日を過ごしてゆけば確実に訪れるもので、今も未来も一本道で繋がったキラキラしたアーチなのだ。
私にとっての未来は、遠くの空の茜色だ。眺めるには綺麗だけれど、自分がそこへたどりつく術は知らない。うっとりと憧れるだけだ。




付き合いだしてから一年が過ぎた。

この春、彼は大学を卒業し、もうすぐで会社研修がはじまる。


「あと少しで桜咲きそうだね」
大きな緑地公園の脇にひっそりある和食レストランで、私と彼はテーブルに向かい合って箸を進めていた。
そこいら中に植えてある桜の木からは、もうすぐ・もうすぐという命の息吹が伝わってくるほどだった。


「うん」
私はうなずいた。

薄曇りの空からはうっすらと霞み陽が漏れて、公園や道路・すべてを乳白色に優しく包んでいた。春。


トンカツ
カレー

などと書かれた駐車場のノボリが、ヒラヒラわかめのように三月の風に揺らめいていた。和食レストランなのにカレーか。と、どうでも良いこと意識を集中しようとした。


「今週末にはもう桜咲いてるかな?見に来ようね」
彼のその言葉に、私は曖昧な返事しか返せなかった。
桜の季節が巡って来ると、思い出す。心を許してはいけない、私は一人で生きていくのだ。




その夜、彼の部屋で私はうたた寝をしていた。
彼はもうすぐ始まる新入社員研修時に提出するレポート作成に夢中で。
私はテーブルに向かう彼の横で床にゴロリ転がって眠っていた。
彼の吸うタバコの煙を避ける為に少しだけ開けた窓からは、かすかに緑の香りを含んだ春の匂いが、スルスル部屋に忍んで来ては鼻腔をくすぐった。



夢を・見た。
何でもない夢だ。
私は夢の中で、何かの行列にずっと並んでいる。
たくさんの人が欲しがる、いやきっと誰もが欲しがるもの。それを得る為に私も列に加わっては最前列あたりの様子を伺っている。
じりじり何時間も待って待って。ようやく私の番が来たと思って高鳴る胸を押さえきれずにいると。
「ここで終了です」
と、係員にいきなり線引かれた。
私はあまりにびっくりしたと同時に足の力が抜け・その場にへたりこんだ。
ずっと・ずっと並んだのに。私も欲しかったのに。その『何か』。



そこで、パチリと目が醒めた。
最初に目に入ったのは、マットの上であぐらをかいた彼の足。テーブルが作る影の中の素足。

読みながら眠っていた雑誌を私は強く掴んでいた。


「目、覚めた?」
声がして、首をずらし見上げると、彼が目尻をぎゅうっと下げ私を覗きこんでいた。
ずっと走らせていただろうペンを握る右手を止めて。


私はその笑顔を見たと同時に、なんとも表現しがたい感情がこみ上げ、ずりずりっと彼ににじり寄り・その太ももに顔をうずめた。


「悲しい夢、見た」
フガフガ彼のジャージに埋もれながら言うと、


「ん?どんな?」
穏やかな・ミルクティーのようなあたたかさを持った声が返ってきた。


「ずっと並んでたのに、ずっとずっと並んでたのに、私の番になったらいきなり『もう終わりです』って言われた」
彼にとっては訳が分からないであろうことを話しながら、ぽろぽろ涙がこぼれてきた。
彼の前で泣くのはもちろんはじめてだったし、泣くこと自体ずっと忘れていた。


「それは悲しいなー。よしよし」
子供をあやす様に彼は私の脇に手を差し入れひょいと起こし上げ。ぽんぽんと背中を叩きながら抱き寄せた。


「うん・・・うん・・・悲しかった」
しばらくの間、ぐずぐず私は泣き続けた。頭の隅ではそんな風に彼に甘える自分がひどく恥ずかしかったけれど、どうしても止まらなかった。


「あ!いいものがある!あげようと思ってた」
彼は言うと、手近に放ってあったジャケットのポッケから財布を取り出し、札入れのところをゴソゴソ探り出した。



私は濡れた目とまだ回らない頭でボウッとその様子を眺めていた。

「ホラ!!これあげる」
彼は一枚のくしゃくしゃたたまれた紙を私に手渡した。
なんだろうと開いて見ると、それはコンビニのレシートだった。


「レシート?」
「意味わかんない?よく見て」
彼はニコニコ笑いながら、お釣りの額が記された印字を指差し。
「ラッキーセブン。ぞろ目」
得意げに言った。

よく見ると、お釣りの額が777円なのだ。
私なら見過ごすことだ。もし目に付いたとしても何も考えず捨ててしまうだろう。
それはきっと彼の若さだからではない。私が閉じているのだ。すべてに。


「ありがとう」
ぎゅうっとそのレシートを掴んだ。7の刻印が私の指にくっきりとついてしまいそうなほどに。



彼を見つめる。
フッと笑ったその右頬に、小さなホクロがある。
きっと彼と会わなくなれば、いつかそのホクロの位置も忘れてしまうのだろう。
忘れたことにも気づかないのだろう。




777
彼からもらった幸せ、ラッキー7。


私が私の幸せをハナからあきらめてはいけないということ。
だって、私はずっと並んで並び続けてでも「幸せ」が欲しいのだ。
私が夢の中で欲しいと望んだものは、きっと「幸せ」だ。
私が渇望するもの。誰もが渇望するもの。
そして、予想以上に私が傷ついていたこと。元彼がうんと年下の女の子を選んだこと。


けれど私に想いがあるように、彼にだって想いがある。年下だからと遠ざけるのは私の傲慢だ。
皮膚の下の血や体を構成する細胞や、目には見えない魂は彼をこんなにも求めているのだから。


あいしてる


再び熱い涙がこぼれはじめて、彼の胸に顔をうずめた。彼はグッと私の頭を抱きしめ、顎先をつむじ辺りに押しつけ呟くように言った。

「もう大丈夫だから。安心して。おやすみ」


そう。未来はまだ先で・過去はもう過ぎたのだ。
まだ来ぬ未来におびえて立ち尽くすよりも、経験してしまった過去に嗚咽してうずくまるよりも、私と彼はかけがえのない「今」を生きている。


だから、もうおやすみ。

泣かないで・もう、おやすみ。


「うん、うん・・・桜、見に行こう。行こうね」
彼の耳元、ちいさくちいさく囁いた。その声は鼻水に邪魔されほとんど聞き取れなかっただろうか。
彼の小指に私の小指を絡め、指切りをした。


薄い薄い紅色の花弁が幾百幾千舞い散る中を、一緒に歩くのだ。
堂々と・私から手を繋いで歩くのだ。
眠りの波は、私の心をゆっくり溶かすように押し寄せてきて。震わせ・凪いだ。


           終


前回の「鼻歌ハッピーエンディング」 が思いがけず評判良かったんで、短編第二弾。今回は「年の差」で悩む相談が最近多いんで、その人たちに向けて書いたものです。頑張れ!女の子!

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