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orangestarの雑記

小島アジコの漫画や日記や仕事情報など

今度はごま(18歳、オス猫)の具合も悪い

26日、火曜日の深夜、それまで元気にしていたゴマの調子が急に悪くなる。
身動きが取れないような感じで、少し歩いてはうずくまる。少しづつ動いて、涼しいところへ移動しようとする。頭をあげることができない。目は、自分に何が起こっているのか分からない感じ。その状態が、オシオとマメちゃんが亡くなるときの様子に似ていて、覚悟をした。もうお年寄りでいつその時がきてもおかしくないと思っていたので。息子を起こして、一緒にゴマの様子を見守る。
2時間くらい経った後、急に元気になって、最後だから、と出した牛乳を一気に飲み干す。元気といってもちょっと調子は悪いみたいだけど、それでも、さっきまでとは全然違う。
妻は、様子をみて、朝まで起きていて、自分たちも一応布団に入ったけれども、まんじりともできずに朝。

翌日は、かかりつけの動物病院が休みで、そして、ゴマがある程度元気なので、遠くにある普段いかない動物病院に行くよりは、家で様子を見た方がいいと判断して、その翌々日に行くことに。

そして、今日、動物病院で聞いた話によると、間違いなく心臓発作ということ。

2時間くらいして治ったのは、自力で回復したということらしい。
気圧や気温の変化の激しい日はそういうことが起こりやすいということで、そういえばあの日は爆弾低気圧だった。
(気圧図の急に下がってるところが発作のあった時間)

人間でも、お年寄りがトイレとかお風呂でヒートショックでなくなることが多いですが、それと同じことらしい。
また、発作が起こるかもしれないし起こらないかもしれない。それに関しては何にもわからないということ。

(写真は2017年頃のシニア入りたてのゴマにゃん)


心臓発作が起こったときにできることは何もないということ。そっとしておいてあげるのがいい、ということでした。その時病院に行っても基本どうしようもない。薬はあるけれども、できるだけ出したくない、ということでした。その薬が止めになってしまうことも多い、ということだったので。

体重は2.0kgで、8月に測ったときから500グラムくらい減ってました。肝臓の数値がよくなかったので、薬をそれまでもらってたのですが、それもまあ、もう、いいでしょうということになって、好きなもの食べさせてあげて下さい、ということに。

もう、お年寄りゆえの色々だしね~ということ。
家では元気だし、ずっと起きてて足元について来たりするので(人間が食べ物を持ってるときだけ)気にしてもどうしようもないし、このまま暮らしていく感じ。
(写真は2021年頃、ドラム式洗濯乾燥機の上で暖をとるごまにゃん。)

ごまは、今年の5月くらいにすごく調子が悪くなった時があった。足に力が入らないで、歩いているときにもよろけて、うまくジャンプができない感じ。病院に連れて行ってみてもらっても特に何かが原因というわけではなく(血液検査をしても、特に悪い数値は出なかった)(この時体重は2.4くらい)もう、お年寄りで、これは仕方のない事だと言われて、そして(多分、お医者さんも長くはないと思ったようで)もう好きなものを食べさせてあげて下さい、と言われた。

それまではずっと健康に気を使っておやつとかも節制していたのだけれども、ささみとか食べたいものをあげることに。そうしたらぐんぐん調子がよくなって、2か月後には体重も2.8キロくらいまで回復した。動きも活動的になって、この歳の猫はずっと寝てばかりなのに、昼夜家の中をうろついたり、人間が物を食べてるとにゃーにゃーいって食べ物をねだってきたりして、体重はともかく、すごく元気になった。
そんな感じで、それから少しずつ体重も減ってはいったけれども、元気よくくらしてて、先生に、その状態のことを話して、そして、ささみは腎臓に悪いのですこし控えた方がいいですね、とかそういう話もしてた。

そういう感じの時に急に起こったことだったので、すごく、驚いてしまった。何が起こったのかと思った。さっきまで元気だったのに、と。

それから、2つ日間、嫁も自分もずっと緊張状態で寝れてなくて、そして、今日、心臓発作ですね、といわれて、なんというか、『安心してしまった。』もう、気にしてもしょうがない、お年寄りだからねっていう感じで。できることは何もないし、もう美味しいもの食べたいものを食べさせて、機嫌よく暮らしていく以外にないっていう。とりあえず、家の中で温度差を作らないようにするように気を付けるけれども、それ以外にできることはないっていう。

とにかく、残りの時間を、人間も、猫も、機嫌よく暮らしていこうと思いました。




追記:先日の日記のイリは、ステロイドを3日間打ってもう元気になりました。まっすぐ歩けるし、めまいも無くなった感じ。首傾げが残るとも言われたけれども、そういうのもなく、普通に暮らしています。モリモリとゴマとおやつを分け合って食べてる。持ってみた感じ、少し目方も増えたような気がする。打ったステロイドが聞いたのか、眼球の肥大もマシになったみたいで、まあ、元気に暮らしています。

猫(イリ/17歳)の具合が悪い


猫が緑内障で片目失明。お年寄りだし、仕方ないところはあるんだけど、やっぱりちょっと心がザワザワする。

老猫の緑内障には、眼圧を下げる薬はあまり効かないらしく、取り敢えず炎症を抑える点眼をしている。一月前に左右の瞳孔の大きさが少し違うというのに気付いて病院に行って、緑内障だということだった。今は、右目の瞳孔は開いたままで、眼球が大きくなって目が閉じにくいのか、目を瞑っていても、少し薄目が開いたみたいになってる。後できることは、眼球が膨らんで痛みを伴わないように祈るしかない。
最初からできることはなかったのだけれども、やはり、少し、何かできることはなかったのかと、心がザワザワする。

一昨日、病院に行って、失明が明らかになって、ちょっとしょんぼりしてたら、なんかその日からすごい具合が悪くなって、まともに歩けなくなった。ジャンプもちゃんとできないし、何もないところで急にコテンって転ぶ。

先住猫2匹が亡くなる前、こんな感じだったので、すごく不安になる。
ただ、なんか食欲はあって、缶詰を開けたらガツガツ食べていた。

昨日の夜は、すごく不安だったので、ずっと寝れずにいた。
事態が急変したらすぐに動物病院に救急で行かないと、と思っていたので。結局朝まで、まあ、その悪い状態のまま、だったので、よかった。

朝一で病院に連れて行く。

診断は突発性前庭障害、人間でいうとメニエール症のようなもので、平衡感覚がおかしくなって、ずっとグルグルと眩暈がしている状態らしい。

緑内障とは全く別で発症。まあ歳なので…ということ。
急な気温低下とかで血流が悪くなって、それが原因でしょうっていうこと。

治療法はないがステロイドで良くなることがあるので、ステロイドの注射。首傾げが残るがだいたい治るらしい。治るまで二、三日から三、四週間と幅が広い。食欲なくなって弱ったりしてしまうので気をつけて、と。

一安心と、そして、これから、多分、こういう風な感じで、あちこちガタがきて、だんだん、その時が近づいていくんだろうなと思う。そこらへんで、ちょっと、ずっと、ザワザワしている。

小さい頃から飼っていて自分にすごくなついていた猫なので、(作業をしていると必ず邪魔をしてくる)なんだか、そう、すごいザワザワするよ。

あと、もう一匹の猫、ゴマ(18歳オス)は、身体はガリガリになったけど、本当に元気で、この年頃の猫は一日寝てることが多いのに(イリも寝ている)結構活発に動いて、人間が台所でごはんをしていると「なにかないかなにかないか」とねだりに来る。前はそうでもなかったのに、お爺さんになって、そういうことをいうようになった。少しボケ始めているのかもしれない。

まあ、二匹ともよく生きてる。すごい長生き。

『弱者に対して激しい憎悪を燃やす人』たち

世の中には『弱者に対して激しい憎悪を燃やす人』がいて。そういう人は大抵声が大きい。

その感情の発生には多分いろいろな理由があって

  • 自分も弱者で、近親憎悪で許せない
  • 自分は成功者で、弱者がさぼってるみたいで許せない
  • 弱者に対して(社会保障などで)自分の利益が奪われているので許せない
  • 暴力衝動がまずあり、それを振るえ、相手にダメージを与えられ、反撃されないので
  • 強い人間(勝ち馬)に乗りたくて、それには強者側に寄り添った結果
  • 自分より弱い相手なので搾取できる。搾取するための正当性を得るために、相手をエビルにする

幾つかあり、そして『弱者に対して激しい憎悪を燃やす人』同士、連帯したりしてる。

『弱者に対して激しい憎悪を燃やす人』は少ない…と思う。思いたいけれども、自分が正義であると思ってる人の声は大きいし、暴力を振るうのは楽しいし、やっぱりある程度生き物と人間の本性によるところも多いと思うので、そこらへんはどうにもならない気がする。

でも、人間は理性でそれを越えられるって思ってるので、ちゃんと、なんか、それ以外の人間が頑張っていかないといけないな、と思う。

物語のパターンは既に出尽くしてる問題に絡めてだけど、近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感、20世紀後半にいい薬がたくさん発明されたおかげで「心療内科にいってお薬を飲めばいいのに」で解決してしまって、物語としての強度を保てなくなってる件について




これの、これの、これ。

ちゃんと返信を書くと長くなるので、Twitterではなくてこちらで。

まず、こちらから話さないといけません。



さて、物語の類型の話。

ja.wikipedia.org


ja.wikipedia.org


ja.wikipedia.org

物語には、ある程度の『型』があります。
そして、『類型』の分け方にも、考え方によっていくつかの分け方があります。

上記に上げた、分け方は、物語がもつ、『モチーフ』『出来事の構造』で分けていますが、そのほかに、物語自身の構造、大きく分ければハッピーエンド、バットエンドの2種、そして、状況が好転していく話と悪化していく話で2種、ほか、複数登場人物、などの、構造による分け方、もあります。

また、ジャンル、という分け方もあります。推理小説、冒険小説、恋愛小説。その作品が何を『面白さの核』とするかによって、また『類型』が変わってくるわけです。
ひとつのお話が、ジャンル分けの種類によって、『同じような話』『全く違う話』と解釈される。
例えば、『源氏物語』と『枕草子』は『平安時代の文学』として同ジャンルですが、『小説』と『随筆』というジャンル分けをすると別ジャンルの話になるわけです。
このようなジャンル分けは、非常に多岐にわたり、その順列組み合わせの数はほぼ無限、天文学的な数字になり、

『全く同じ話は二つとない』

となっていくわけです。時代が下るほどに未出のパターンは確実に減っていきますけど、扱う時代や道具立てや知識は増えていきますので、まあ、無限がいくら減っても無限なので、物語の枯渇は無いでしょう。ざっくり言うと似た話、というのは確かに多いですけれども、でも、物語認識は人それぞれで、ハッピーエンドとバッドエンドの2種類しかない人もいますし、同じ『錬金術』をテーマにした作品を、全て前出の作品のパクリ、とみなす乱暴な読書家の人もいますので、まあ、そこらへんは……。

というわけですが、その時代以後に『発見』された『概念』や『感覚』以外については、全てそのジャンルの『パターン』として出尽くしているのも確かです。その中で、作品の面白さが高いものが『名作』として時代を越えていく。時代を超えたものはさすがにとても面白いので、それを相手に、同じ道具で勝負するのはとても難しいです。なんたってそれは面白いので。

さて、ここまでが、まず、『パターンが出尽くしている』話。

そして、次に、時代の変化によって、『感覚』や『概念』がアップデートされ、その物語が書かれた時代の人と感覚が合わなくなって、作品の機微が分からなくなっていく問題。物語の面白さはそういう『テクスチャ』の部分だけでなく、全体の構造やおとぎ話的ワンダーの部分でも担保されるので、そういう機微が分かんなくなっても面白い作品は面白いからついつい忘れられてしまいますが、多分、いま、昔の作品を読むとき、そういう細かい機微の部分は絶対に取りこぼしていると思います。『個人』という概念が発明発見される前の恋物語というのは、多分、当時の人の読み味と今の時代の人の読み味は絶対違う。

恋愛といえば、男の人と女の人がであって、目が合い、歌を歌い踊り出せばそれだけで恋が始まる、そういう物語が現代のちょっと前までずっと続いていて、それが説得力を持っていた時代があったのですが、現代を舞台に作劇する場合、そういうことをすると『面白』として処理されてしまいますね。でも現代でもそういう恋の始まりは確かにあるのに…。物語としてそれが力を失ってしまったのはなぜか、というのを考えるだけで多分3万字くらいかけると思うのですが、今はその話はしていないので……。

さて『小説』というジャンル、コンテンツ消費の文化が生まれて大体400年くらいです。それ以前は、物語は『語り部』が語る『大きな物語』を味わうしかなかった。作者という個人と紐づけて物語が消費されるようになって、高々400年くらいしかたってません。

さて、やっと、近代文学の話になります。

近代はざっくりと、神様が死んで、『人』が、大きな社会に属する一部品から『個人』となっていく時代です。個人主義。ゲマインシャフト(地縁や血縁などで深く結びついた自然発生的なコミュニティ)からゲゼルシャフト(利益や機能・役割によって結びついた人為的なコミュニティ)に移り変わっていく時代です。ゲゼルシャフトの下では、人は、常に『自分は何者か、何をもって個人として行動し、意思決定をするのか』を問われ続けます。自分の住んでいるコミュニティが自分を既定してくれない。自分で、自分を既定して、属するコミュニティを決めなければならない。自分で自分を定義する、その嘆きとかなんか辛いっていう感情をしたためて、みんなで共感できるコンテンツになったのが近代文学であり『近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感』であるわけです。

悩みの最小単位としての個人、これ以上解体できない中にある、悩みや苦痛(これ以上解体できないので、その悩みや苦痛は解決することなく、ずっと持ち続けないといけない)。そういう葛藤自体がテーマになっていたわけです。で、それの解決として、自分を、個人という単位ではなく、家族や社会の一部として再定義してしまって、個人としての存在が亡くなるということが『悲劇』として書かれていたりするわけです。『こころ』の父親の話の段なんかもそうですし、田山花袋の『布団』のラスト、自由な文をかいていた弟子の女の子が、定型文で手紙を送ってくるところで悲しい気持ちになるところとかがそうです。(ところで、田山花袋を『おじ』と『パパ活』の悲哀として読み直してる人がいて、それはそれで面白いと思いました、それもまた文学です)

で、まあ、その次に、この増田を読んで欲しいのですけれども

anond.hatelabo.jp

これはうまく言語化されている例ですが、発達障害でコンサータやストラテラを飲みだして同じ感覚を得た人は多いと思います。また、酷い鬱を患って、今まで見えていた世界が一変してしまったりした人もいたと思います。世界の横断、今までは属する社会階層や組織から移動して感じる世界の横断が、精神の器質的な変化という形でもたらされている。解体不可能な『個人』はここでは(こうなってしまった世界では)もう存在しえません。(という感じで、まあ、あのTwitterのは言葉足らずだった、でも140字で伝えるのは無理がある)

ただ、こういう感覚を持っている人って、社会の中であんまり多数派ではないような気もするので、相変わらず『鬱屈とした自意識や虚無感』となり続けていますし、当分テーマとしての強度は持ち続けるでしょうし、その先、変化して消失する自我を前提とした『鬱屈とした自意識や虚無感』の物語というのも生まれてくるでしょう。



というのが、(id:p_shirokuma)先生への回答、への、前提の部分です。(ここら辺をちゃんと伝えていないので、多分、ちょっとずれている感じもある)

近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感は、向精神薬でどこまで「治る」でしょうか。向精神薬は、作用します。その作用には統計的な有意差もあるでしょうし、特定の精神疾患の改善に寄与もするでしょう。でも例えば、その向精神薬で個人のアイデンティティの問題にけりがつくものでしょうかね?

本やブログを書くのが好きな私ですが、精神科薬物療法の役割をとても重要だと思っていますし、そのためのエビデンスの蓄積は精神医療にとって不可欠と確信しています。でも、自意識や虚無感やアイデンティティの諸問題と折り合うのは、向精神薬以外の何か、たとえば個人史の領域に属しませんか。

『人生の物語化』というのがあります。

誰でも行っていることだし、それをしないと人間は狂う。人生の物語化(自分の人生に因果を求める、または因果の帰結の末に今の自分がいる、と認識する)は誰もがやっていることです。就職氷河期世代、だとか、そういうのもそうですし、非モテなので、彼女ができない、とかも物語化です。けっして、一昔前に流行った携帯小説のような、ドラマチックな出来事として現実を再解釈して、パッケージ化する行為だけが物語化ではありません。

でも。そして。

悲しいことに、人間の想像力というのは無限ではないので、そういう『その人個人の物語』はどこかで見たような物語(例えば小説で読んだ、映画で見た)を借用してくることになります。ちょっと前に小説の下読みの人が、おっさんから送られてくる小説が全部『普通のサラリーマンが親子ほどの年の離れた女の子とセックスする話ばかりでつらい』という(元ツイート発見できなかった)のが流れてきましたけど、『自分自身の物語(理想を含む)』を描くときに、どうしても、そういう類型になってしまうのです。人間って悲しいね。

でも、そういう、身もふたもない『個人史』を語ることによって、『本当は物語なんてどこにもない世界』と戦うのは、まあ、正しい。というか、すべきです。ただ、ここで、ちょっと矛盾なんですけれども、近代の文学が扱ってきたのは、そういう『みんながみんな持ってる、願ってる物語』から疎外された『個人』を描くことだったりもしたわけです。

シロクマ先生がおっしゃってる、個人史での、『そういう虚無とかからの逃避』というのは、あります。でもそれは『普通のサラリーマンが親子ほどの年の離れた女の子とセックスする話』によってなされます。むしろ、文学というのは、『そのような個人史では解決できない【自意識や虚無感】』を扱って来ました。でも、その【自意識や虚無感】自身が、本当は存在しないものだとしたら……?一体、俺たちは何と戦っているんだ…まるで、幽霊じゃないか……。ここに意味なんてあるのか…。もともと、意味なんてないってわかってたけど、本当に意味がないのか……。というのが、『いい薬』が発明されて以後の、個人主義的文学が置かれている状態だと思います。

ここまでの考え方や解釈や分析は、多分、間違ってる。専門家でない床屋談義なので、そういう風に流してください。文学の事は文学の専門家の人が語るのが一番ですが、インターネットからアカデミアは遠くなってしまったので……。






あと、それとは別にゲマインシャフト2・0というのを自分は感じていて、個人で選び取った所属が、実は自分で選び取ったものではない問題というのが、いま発生していると思うのですが、そこらへんは、また長くなるので。インターネットのせいで生じるエコーチャンバー。みんながみんな何かに洗脳された状態で、自分の意志や自我を持たず、しかし本人はそれを『自分の自我』だと信じている状態。でもそこには個々人の『鬱屈とした自意識や虚無感』は存在しない。大きな所属、誰かの物語に巻き込まれる人たちが今、すっげー多いんじゃないかな、って思っていますし、そしてそういう人は小説を読まない!!!!!!!!!!でもこの話もまた長くなるからまた今度!!!!!!!!!!!!!!!!





あと、全然違う話。異世界転生の話ですけれども、なんで異世界転生が流行ってるかって言うと、いま、社会が、『属性』で分断されすぎて、そしてその『縦の旅行』も行われない今、みんなが持ってる『社会的常識』や『社会的因果』や『社会的倫理』が共有できなくなってしまって、じゃあ、最初から異世界にした方がそういうののすり合わせしないで楽だよね。って言うのがあるんだと思います。



なんか、取り留めないけど、こんなでした。