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グーグルの存在する世界にて

2010-03-05 vendredi

木曜日、学士会館で目覚めて、ぼんやり窓の外を見ながら朝ごはん。
「学士会館朝ごはん、なう。」と Tweet すると、見知らぬ読者から「いま白山通りを歩いています」という reply が入る。
不思議なガジェットだなあ。
mixiとも携帯メールとも、機能がどこか根本的に違うような気がする。
「ダイレクトメッセージ」ではなく、「宛名のないつぶやき」に反応する人がいるということが「広大な共生感」(@大江健三郎)をもたらすのであろうか。
よくわかんないけど、とりあえずは「精神衛生上よい」機能を果たしていることは間違いない。
だから、Twitter では「反論」とか「事実誤認の指摘」とかは遠慮してほしいですね。
「グーグル問題」について、いろいろ意見を訊かれる。
私の基本的態度は「テクノロジーの進化は止められない」というものである。
とくにグーグルのビジネスモデルは「利用者はサービスに課金されない」というものだから、より実用的な情報環境を求める利用者の不可避的増加を止めることは誰にもできない。
「グーグル以前」の世界標準でデジタル・コンテンツについて考えてももうほとんど意味がない。
どうすればいいのかと凄まれても困るが、「すでにグーグルが存在する世界」に生きている以上、「グーグルを勘定に入れて」暮らすしかない。
私は10年前から「ネット上に公開した情報は公共物」という方針を貫いている。
コピーフリー、盗用フリーである。
繰り返し言うように、私がネット上に公開したテクストはどなたがどのような仕方で使われてもご自由である。
私の書いたことをそのまま「自分の書いたもの」だと主張して、単行本にされても構わない。
私は「私のような考え方をする人」を一人でも増やしたくて、ネットを利用しているわけであるから、私の意見を「まるで自分の意見のようである」と思ってくれる人がいることは歓迎しこそすれ、非難するいわれはない。
私が書いていないことを「ウチダタツル」という名前で勝手に発表されるのは困るが、私が書いていることを別人の名前で発表することについては「どうぞご自由に」である。
ほんとに。
別に私は博愛主義者でもないし、禁欲主義者でもない。
デジタル・コンテンツについては「お好きにどうぞ」としておいた方が長期的には profitable だと思うから、そう申し上げているのである。
コピーライトという「既得権」に固執する人は、「コピーライトがあるがゆえに生じる逸失利益」というものが存在することにたぶん気づいていない。
例えば。
私のテクストは多くの学校で入学試験に採用されている。
理由はいくつかあるが、意外に知られていないのが、「ウチダのテクストはいくら切り貼りしても著作権者から文句が出ない」ということが広く受験関係者に周知されているという理由である。
入試問題は、そのあと過去問集に採録されたり、予備校の教科書に採録されたりするが、それについて「著作権者の許諾を得ないで勝手に使うな」ということを言い出した方がいて、そのおかげもあって、現在では、小さな学習塾まで許諾申請の書類を送ってきて、1050円とか2100円とか(消費税込みね)を振り込んでくださる。
懐手をしていてもちゃかちゃか小銭が口座に入金されることのありがさについては日本文藝家協会をはじめとする関係各位のご努力をまことに多とせねばならない。
しかし、このたいへん手間暇のかかる作業をしているうちに、ある種の「雰囲気」が著作物の複製利用をする方々のあいだに広まっていることにオーサーたちは気づいていないようである。
ご想像いただきたい。
「コピーライトを既得権と考えて、厳密な使用条件を課す物書き」のみなさんと、私のように「入試やら模試にお取り上げいただけるということは、いわば無料で私の本の『宣伝』をしてくださっているということであり、むしろこちらから『使用料』をお払いすべき筋であるにもかかわらずまことに恐懼謹言」的物書きの二種類のオーサーのテクストを前にしたとき、学習塾や予備校の講師たち(さらには入試作問者や国語や小論文の副読本を自作している先生たち)ははたしてどちらを選好するであろうか。
別にクラスの授業で使う分には著作者の許諾なんか要らないよね・・・と思っていても、そのうち私のこの授業のめざましい成果が人の知るところとなり、教科教育のモデルとなり、講演に招かれ、やがて活字化され、ベストセラーになったときに、「私の文章を許諾なしに使われては困る。テクストから削除するか、規定の著作権料を支払いなさい」というような事態になったら、ちょっとめんどくさいなあ・・・という想念が一瞬脳裏をかすめることは避けがたい。
いや、謙遜しなくてもよろしい。
自分が書いたものがいずれ広く人口に膾炙し・・・という夢を持たずにものを書く人間はいない。
「万が一そういうことになったら、わりと面倒」系オーサーと、「万が一そういうことになっても全然ノープロブレム」系オーサーのどちらの書き物を教材に使用しようか迷っている国語教師の最後の決断の背中を押すのはわりと「そういうこと」なのである。
その結果、あたりを見回して「そういうこと」についてまるっとノンシャランな書き手というと、やはりウチダタツルとかは「東がもう四枚場に切れているときのラス牌の西くらいの安全牌」ではないか、と推論するのはきわめて合理的なご判断なのである。
そのような「危険牌」か「安全牌」かのわずかな「匂いの差」の積み重ねが、いつのまにかしばしば「ポジティヴィ・フィードバック」を惹き起すことは技術史においてひろく知られた事実である。
「グーグルがすでに存在する世界」においては「デジタル・コンテンツに課金する」ビジネスモデルは「デジタル・コンテンツそのものには課金せず、無料コンテンツが簡単な操作で簡単にダウンロードできるシステムがデファクト・スタンダードになった結果たまたま生じるバイプロダクツで小銭を稼ぐ」ビジネスモデルに必ずや駆逐される。
ことの「よしあし」ではなく、そういうものなのである。
繰り返し申し上げるか、それはコンテンツの質の優劣とは関係がない。
そうではなくて、そのコンテンツを取り扱うときに心に生じる「これ、うっかり扱うと面倒かな・・・」という思いが、そのコンテンツからゆっくり、しかし確実に人々を遠ざけてゆくのである。
JASRACのようなビジネスモデルは遠からず死滅することになると私は思う。
別にJASRACが「悪い」と言っているわけではなく(ちょっとは思っているけど)、それよりは「音楽について言及したり引用したりするとすぐにJASRACが飛んでくるから。とりあえず音楽について言及したり、歌詞を引用したりするのは自制しよう」というオーディエンスのわずかな「ためらい」の蓄積が「音楽で金を稼ぐ」というビジネスモデルそのものを壊滅させることもあるということである。
話を戻すけれど、私の若い読者たちの実に多くが「最初にウチダの本を読んだのは、模試の問題においてであった」とカミングアウトしてくれている。
模試の問題だと、そのあと先生が「正解」について解説してくれる。
作問した先生はもちろん私の読者であって、いろいろ底意があってわざと私のテクストを選んでご利用になっているわけであるから、答案を返す段になると、「前回の模試のこの問1ですけど、出来悪かったですね。今日はそういうわけで、ウチダタツルの修辞法や変てこなロジックの構成について、ちょっと集中的に勉強してみましょうか。来年あたりセンター試験に出るかもしれないしね」というようなお話がつい口を衝くのである。
「予備校の教室など言及されても一文にもならぬ」と考えるのはシロートで、大教室の予備校生たちの中に一人くらい「なんか面白そうだな。この人の本、帰りに本屋で探してみようかな」というような展開になるというのはあながち荒誕な夢想とは言い切れぬのである。
ビジネスというのは本質的に「ものがぐるぐる回ること」である。
「もの」の流通を加速する要素には「磁力」のごときものがあり、それを中心にビジネスは展開する。
逆に、流れを阻止する要素があれば、ビジネスはそこから離れてゆく。
「退蔵」とか「私物化」とか「抱え込み」というふるまいは、それが短期的にはどれほど有利に見えても、長期的スパンをとればビジネスとして絶対に失敗する。
ビジネスの要諦は「気分よくパスが通るように環境を整備すること」それだけである。
著作権はそれがあると「著作物の『ぐるぐる回り』がよくなる」という条件でのみ存在価値があり、それがあるせいで「著作物の通りが悪くなる」ときに歴史的意義を失う。
あれ、何の話をしていたんだっけ。
学士会館の窓の外を見ていたのね。
そのあと「いろいろな面白いこと」がありました。
「ボーイズラブは少女たちの抑圧された反米感情の噴出である」という新書大賞の授賞式スピーチの話はまた明日。
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