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写真をメインに、いろいろログ。

(僕は)大学で何を教えるべきか

前回エントリ、そこそこな炎上っぷりである。コメントくれた方々ありがとう。授業で、それまで黙っていた学生が、突然真剣に意見を述べ始めた時のことを思い出した。

ブログを始める以前に、今回の「何が悪い」を書いた際と同種の感情に突き動かされて、匿名ダイアリーでこんなことを書いたことがある。はてブの反応のパターンは今回ととても良く似ていた、と思う。ざっくりしたいいかたをするなら賛否両論。

でまあ、今回も追記を書こうと思って色々と考えていたんだけど、どうしても炎上マーケティングっぽくなってしまうのでやめた。代わりにもう少しポジティブな、建設的なことを書きたい(と思ったら自分語りになった)。

僕の今の勤務校はいわゆる中堅大だけども、仮にこれが東大だったとしても、学生の全てが研究のプロフェッショナルを目指すわけではない。特に僕の専門分野では、そんな酔狂な道に飛び込もうと考える学生なんて本当に一握りである。殆どの学生は、僕の専門科目で学んだこととは直接関係ない仕事に就くことになる。

そして、その一握りの専門の道に進もうとする学生ですら、学部時代に身に付く知識なんてごくわずかなものだ。真面目な話、「知識の習得」なら大学院に入ってからでも全然遅くない。実際、例えばMITの大学院言語学科は世界的に有名だが、学部で別の分野をやっていて言語学を何も知らない学生を採りたがる。違う分野をやっていて大学院から言語学を学び始めた学生が、その後何人も世界的な言語学者になっている。

じゃあ大学の、学部の教育の意義って何だ?という問いが生じる。いや、一般化するのはいけない。問題は、「僕は学部生に何を教えるべきなのか?」ということだ。三年前から大学で教え始めて、そのことを色々考えてきたんだけど、考えなければいけなかったのには次のような理由がある。

  1. モチベーションの維持。授業をつくるというのは相当な労力を必要とする。100人以上の学生の前で90分喋るというのは「折れない心」を必要とする。自分のやってることに何らかの意義があると信じられなければ、こんな苦労を続けられる気がしなかった。
  2. 「大学を守る」ということ。自分が大学でしか生きていけない人間とも思わないけど、僕は大学が一番好きな場所で、この場所を守りたいと思っている。そのためには、大学を卒業していく学生に、「大学に来て良かった、ここで過ごした時間には意義があった」と思ってもらわなければいけないと思うのだ。学生は社会に出て、将来の社会のあり方を決める存在だ。学生に「大学になんて意味がない」と思わせてしまったら、それはいずれ巡り巡って自分の居場所を脅かすことになる。
  3. ミームの伝播。僕の人生は、恩師と呼べる人の存在によって本当に大きく変わった。中学までは僕はこれといって勉強が好きなわけでもなく、勉強ができるわけでもなく、学校が好きでもなかった。だけど高校以降の節目節目で、僕はたまたま運良く素晴らしい先生たちにめぐり合うことができた。そして教師になってみて、僕は自分があの先生たちにもらったものを「返さなければいけない」と思う。あの人達が僕の人生を変えてくれたように、僕も自分の学生の人生に対して、ほんの少しでもポジティブな影響を与えられる教師にならなければいけない、と思っている。

というわけで、どうすればいいのかを考えて試して、紆余曲折試行錯誤朝帰り朝帰り連続の日々を三年過ごして、今の段階でこうなった、ということ。結局僕が学部生に伝えたいのは、広い意味での「知性」なんである。

  • ある問題があった時に、この問題にはまだ我々が思いついていない素晴らしい解決法があるかもしれない、と考えてそれを模索できるか。
  • この世の中には自分には思いもよらなかったことを考えつくような人がいて、そしてそういった考えにはちょっと手を伸ばせば触れることができると知っているか。
  • 事象Xと事象Yの間には、まだ自分が気づいていない繋がりがあるかもしれない、と踏み込むことができるか。
  • あるひとつのコンベンショナルなやり方が、ちょっとした工夫で劇的に改善される可能性があることを意識できるか。
  • 自分が「知らない」ことを認めつつ、その事実に落ち込むことなく、少しでも知ることを増やすことに喜びを見出せるか。

そして決定的に重要なのは、「出来る」ことと「目指す」ことの違いだ。専門科目は言うに及ばず、一年生向け教養の英語で教えることですら、全ての学生が同じことを達成はできない。僕は教室に100人学生がいたら、その100人が90分間目を輝かせて僕の話を聞き続ける授業を目指しているけど、それが達成できたことは少なくとも今のところ無い。「出来ない」のは人間の宿命なのだ、それは罪じゃない。やってはいけないのは「目指す」ことをやめてしまうこと、さらに罪深いのは「目指す」他人を嗤うことだ。それは人を不幸にする。さらに不幸な人間は別の人間を不幸にする。悪循環だ。

こういうことを伝えたいと思ったときに、言語学というのはそんなに悪くないネタなんである。言語学は歴史の深い学問だが、二十一世紀に至って言語学の最大の発見は何かと問われれば、「人間が、自分の使っている言語について、実は何もわかっていなかったことがわかった」ことだと答える。2000年以上にわたって、沢山の特別に頭のよい人間が人生を費やして研究を行って、結局わかったのは「全然わかってない」こと。素晴らしいじゃないですか。「オラ何だかすっげぇワクワクしてきたぞ」である。自分の無力さを認識しながら、どこまで高いのかすら分からない山に挑み続けるって、正に人間の偉大さじゃないか?

だけど、こういうことを伝えたい時に、ネタは上等な学問である必要なんてない。やりようによっては小学校の教科書だって、子供向けの絵本だって十分な場合がある。大事なのは、(内田樹の言葉を借りると)、「学ぶ前と学んだ後で、何かが確かに変わること」で、それだけでしかない。ミニマリスト統語論とか超ひも理論が分かるようになることと、アルファベットが書けるようになることの間には、本当の意味での違いなんか無いと思う。