村上春樹氏エルサレム賞受賞スピーチ:和訳
村上春樹さんのエルサレム賞受賞スピーチを訳してみました。
できるだけ原文のニュアンスを拾うように心がけたため、日本語としては少しぎこちないところがありますが、ご容赦ください。
原文(英語)はこちらです:
Always on the side of the egg - Haaretz - Israel News
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
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今日私は小説家として、つまりプロの嘘の紡ぎ手として、エルサレムにやってきました。
もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。ご存知の通り政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は彼らなりの嘘を時々つきますし、中古車のセールスマンも、肉屋も、建設業者も嘘をつきます。ただ小説家の嘘が他の職種の人々と違う点は、嘘をついたからと言って道義に反していると非難されたりしないことです。実際、より大きく上手い嘘をつけばつくほど、そしてその嘘が巧妙であればあるほど、世間や評論家に賞賛されやすくなります。一体何故そういうことになるのでしょうか。
私はこう考えます。すなわち、熟練した嘘をつくことによって ― つまり、まるで本当に思えるようなフィクションを作り上げることによって ― 小説家は真実を全く違う新しい場所に持ち出して、新たな光を当てることができるからです。多くの場合、真実をそのままの形で把握し、描写することはほぼ不可能です。だから我々は隠れている真実をおびきだしてその尻尾を捕まえ、フィクションの世界へ持ち込んで、架空の形を与えるのです。しかしこれを成し遂げるためには、小説家はまず始めに自分の中のどこに真実があるのかをはっきりさせなければなりません。上手い嘘を作り上げるには、この能力が非常に重要になります。
ですが今日、私は嘘をつくつもりはありません。できるだけ誠実にお話したいと思います。1年のうち私が嘘をつくという仕事をしない日はごくわずかしかありませんが、今日はたまたまそのうちの1日なのです。
というわけで真実をお話しましょう。私はかなり多くの人々に、エルサレム賞を受けるべきではないと忠告されました。何人かはもしイスラエルに行ったら私の本の不買運動を起こすと警告しさえしました。
その理由はもちろん、ガザで起こった熾烈な争いです。国連は、千人以上の人々、多くは民間人の子供や老人が、封鎖されたガザで命を落としたとレポートしています。
受賞の知らせを受けた後何度も、私はこの状況下でイスラエルへ行き文学賞を受けるべきなのかどうか自問自答しました。そのことでこの紛争の一方の肩を持ったような、そして、圧倒的な軍事力を駆使することを選んだ国の政策を支持したような印象を世間に与えるのではないかと、自分に問いかけたのです。もちろんそのような印象を与えることは望むところではありません。私はどんな戦争も許すことは出来ませんし、どの国も支持しません。同時に、もちろん、自分の本がボイコットされるのを見たくもありません。
しかし最終的に、慎重に検討した結果、ここに来る決心をしました。その理由の一つは、あまりに多くの人に行くなと言われたからです。恐らく私は、他の多くの小説家達と同じく、言われたことと逆のことをしたがるのかもしれません。人に何か言われた場合 ― 特に警告された場合、例えば「あそこに行くな」とか「これをするな」とか言われたら、私は行きたくなったりそれをしたくなったりするたちなのです。これは小説家である私の気質と言えるかもしれません。小説家というのは特殊な人種で、自分の目でみたり自分の手で触れたりしたもの以外、心から信用することができないのです。
だから私はここにいます。私は欠席するのではなくここに来ることを選びました。自分のこの目で見ることを、沈黙ではなく皆さんにお話しすることを、選んだのです。
でもそれは、政治的なメッセージを伝えるために来たという意味ではありません。もちろん小説家にとって、何が正しくて何が間違っているかを判断することは、重要な責務ではありますが…。
しかし小説家が自分の判断をどんな形で人々に伝えるかは、各自に任されています。私は物語に ― 寓話めいた話にするのが好きです。私がここで、具体的で政治的なメッセージを述べるつもりがないのは、そういうわけです。
その代わりに、ある非常に個人的なメッセージを伝えさせて下さい。これは私がフィクションを書く時、常に心がけていることです。紙に書いて壁に貼ったりしたことはありませんが、私の心に深く刻み込まれているものです。それはこんな話です。
「高く頑丈な壁と、それにぶつかって壊れる卵とがあったら、私は常に卵の側に立ちます。
どれほど壁が正しく、どんなに卵が間違っているとしても、私は卵の味方になります。善悪の判断は私以外の誰かが下すことになるでしょう ― もしかしたら時や歴史が決めることかもしれません。もし小説家が― それがどんな理由であれ ― 壁の側に立って作品を書いたら、そんなものに一体どれほどの価値があるでしょうか。
このメタファーの意味は何でしょうか。時にはそれは非常に単純で明快です。高く頑丈な壁とは、爆撃機や戦車、ロケット砲、白リン弾といった物です。卵はこれらの兵器に押し潰され、焼き尽くされ、撃たれた非武装の市民達です。ただしこれはこのメタファーのいくつもある意味のうちの一つでしかありません。
このメタファーはもっと深い意味を秘めています。こんな風に考えてみて下さい。我々一人ひとりは、多かれ少なかれ、一個の卵なのです。我々はそれぞれ、壊れやすい殻に包まれた、唯一でかけがえのない魂なのです。これは私の真実であり、皆さん一人ひとりの真実です。そして我々は皆、程度の差こそあれ、高くて頑丈な壁に直面しています。壁には名前があります。それは「システム」です。「システム」は本来我々を守るためのものですが、時にはそれが一人歩きして、我々を殺したり、我々に他の人々を殺させたりし始めるのです。残酷に、効率よく、そしてシステマティックに。
私が小説を書く理由はたった一つ。それは個人の魂の尊厳を見えるところへ連れ出し、それに光を当てることなのです。物語の狙いとは、「システム」が我々の魂をその蜘蛛の巣に絡めとり屈辱を与えることを阻止するために、警鐘を鳴らしシステムに光を当て続けることなのです。私は、小説家の仕事とは、物語を書くことによって ― 生と死の物語や愛の物語、そして人々を涙させたり恐怖におののかせたりお腹を抱えて笑わせる、そんな物語を書くことによって ― それぞれの魂が唯一無二であることを明確にするべく努力を続けることだと心から信じています。だからこそ我々小説家は日々とても真面目に架空の話をでっち上げ続けているのです。
昨年私の父が90歳で亡くなりました。彼は元教師で在宅の仏僧でした。彼は大学院にいた時徴兵されて中国へ送られました。戦後生まれの私は、父が毎朝食事の前に仏壇に向かい、長く心のこもった祈りを捧げるのを見てきました。ある時彼になぜそのように祈るのか尋ねたことがあります。彼は戦争で亡くなった方々のために祈っているのだと答えました。
父は敵味方を問わず亡くなった全ての人のために祈っていました。仏壇の前で正座する彼の背中を見ながら、私は彼を取り巻く死の影を見たような気がしました。
そして父は亡くなり、彼の思い出は彼と共に消えてしまいました。私がそれを知ることはかないません。しかし彼を密かに取り巻いていた死というものの存在は、私の記憶の中に残っています。私が彼から受け継いだものは多くはありませんが、この記憶は最も重要なものの一つです。
今日お伝えしたいことはたった一つです。我々は皆人間であり、国や人種や宗教を超えて、1人の人間なのです。「システム」という頑丈な壁に直面する壊れやすい卵です。どうみても勝ち目はないように思えます。壁はあまりに高く頑丈で、冷たすぎます。万が一勝つ希望があるとしたらそれは、我々自身が唯一無二であり、かけがいのない存在であるということを信じること、そして魂を一つにすることで手に入れられる温かさ ― そういったものによってもたらされるのだと思います。
どうか立ち止まって考えてみて下さい。我々はそれぞれ、触れられる、生きている魂を持っているのです。「システム」にはそんなものはありません。「システム」の食い物になってはいけません。「システム」を一人歩きさせてはなりません。「システム」が我々を作ったのではありません。我々が「システム」を作ったのです。
お話したかったことは以上です。
エルサレム賞を頂いたことにお礼を申し上げます。私の作品が世界のあちこちで読まれていることに感謝しています。今日皆さんの前でお話しする機会がもてたことを、私は嬉しく思います。