卒業前の切ない思いを歌った「桜ノ雨」は、全国の学校から「卒業式で歌いたい」と申し出が殺到、今春の卒業式シーズンには全国80校以上で合唱される見通しだ。
お知らせ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
『桜ノ雨』は以前にこのエントリーでも触れましたが、ついにここまで来たかという感じです。てか、これを読売が報道したってことにやっぱり驚きました*1。ボカロファンとしては、これは素直に喜びたいところ。
『桜ノ雨』は「オタクの曲」というジレンマ
「オタクの曲なんて歌いたくない」という人が出てきたのです。
PIAPRO(ピアプロ)|掲示板
その気持ちは感染していって、学年のほとんどが「他の曲にしたい」と言い出すようになりました。
(中略)
私はとても悔しいです。
私はオタクであることを隠してはいませんし、誇りにも思っています。
学年全員、そのことは承知しています。
オタクだという理由で虐げられた事は一度もありません。
なのに、どうして「桜ノ雨」を歌うことは嫌なの?
でも、一方で実際の卒業式の現場ではこういう事例もあります。これは中学三年生*2が『桜ノ雨』を卒業合唱で歌おうと提案し、一時は賛同を得られたのに、裏に「初音ミク」の存在があったことがバレて歌えなくなってしまった例。単純に「いい曲」として迎えられるのではなく、「初音ミクが歌っている」という一面に着目されて「オタクの曲」というレッテルを貼られてしまう。そしてオタク=気持ち悪いに簡単に結びつき、歌うことを忌避されるという、ボカロファンとしてはちょっと悲しい現象。
とはいっても、「オタク」=「気持ち悪い」はある意味正しいというか、そういう価値観があることは否定しようがありません。ましてや卒業式なんていう一世一代の晴れ舞台*3で、あえて「オタクの曲」を歌おうとする子どもの方が少ないんじゃないかって気はします。先の80校だって、ひょっとしたらボカロの存在を隠して誰かが広めた結果かもしれない。中学生に「レッテルではなく曲自身を見ろ」というのも無茶な話です。
かといってミクを使わないべきであったかといえば、否。『桜ノ雨』は、ミクに歌わせて、ニコニコ動画*4を経由したからこそ、ここまで広まったという側面があります。原曲の動画は70万再生いってますから。なんというか、この辺りがジレンマなんですよね。ミクが普及に貢献していると同時に、それを阻んでもいるというジレンマ。
「良質」なオタクコンテンツの台頭
でも、そもそも何故『桜ノ雨』がここまで普及できたのかを考えれば、やっぱり曲そのものがある程度評価されたからと言っていいでしょう。
桜ノ雨を聴いたみんなは「いい曲だ」と言って、そのまま合唱曲は桜ノ雨に決まりました。
多数決だったのですが、28人全員が挙手をしてくれました。
先の中学生の件でも、当初ミクの存在を隠した状態ではこれだけの評価を得られた。初音ミクのレッテルをはがし、曲そのものを見れば、それは良質なものとして受け入れられたんです。
ただ、オタクコンテンツが一般層に「良質」なものとして受け入れられるのは、少し特異な例ではないかとも思います。そもそも、オタクコンテンツの「良質」と一般コンテンツの「良質」は質の違うものです。良質なオタクコンテンツは、その界隈の人間からは評価が得られても一般には理解されません。むしろニッチな需要を得ることによってこそ、オタクはオタクでありえたわけです。一般大衆に広く「良質」と評価された時点で、それはオタクコンテンツとしての条件を失っています。
この辺りの事情は近年言われる、いわゆる「ライトオタクの台頭」とかのことも絡んでいるような気はしますが、ともかく、一般的な評価を得られたという意味で、『桜ノ雨』は他のオタクコンテンツとは一線を画しています。
VOCALOIDはオタクコンテンツなのか
というか、そもそも『桜ノ雨』はオタクコンテンツとは厳密には呼べないと思うんです。ミクは所詮、この場合は「ツール」に過ぎません。つまり、作ったのもシングル化して売り出したのもabsorbという*5普通のバンドですし、歌い手として主軸に置かれているのも、合唱曲なので当然ながら人間です。他のボカロオリジナル曲とも若干異なり、ミクが歌っていることは『桜ノ雨』にとって普及のための一手段に過ぎません。例えば、純粋にabsorbが自分たちの楽曲としてリリースしていたら、『桜ノ雨』は「オタク」のレッテルを貼られることはなかったはずです。
もちろん、こんな理屈を並べたところで「初音ミクが歌った」時点でオタクコンテンツと見なされる現状はどうにもなりません。ただ、この曲にとって初音ミクがアイデンティティー足りうるのかどうかは少し疑問の残るところです。
他のボカロオリジナル曲を見ても、単純に「ボーカルとして偶然VOCALOIDを選んだ」「ボーカルがいなかったからミクに歌わせた」という曲はあると思います。つまり、歌い手がVOCALOIDじゃなくても成立する曲です。いわゆる『メルト』以降の曲は、どこかしらその傾向があるといっていいかもしれません。逆に『初音ミクの消失』などは、VOCALOIDが歌い手であることに大きな意味を持ちます。
歌い手がVOCALOIDであることに必然性がない、前者のようなボカロオリジナル曲は、『桜ノ雨』と同様「オタクコンテンツ」とは呼べません。あくまでツールとしてボカロを用いただけ。このような曲にとって、ミクはどこかで足かせになってしまう可能性があると言っていいかもしれません。
『桜ノ雨』は定着するのか
今後第二、第三の『桜ノ雨』が出たときに、ミクとどう付き合うかが問題だと思います。今回は合唱曲ですが、例えば単純なロックであった場合。ボカロオリジナル曲としてそこそこの人気を得た後、一般流通を狙うためにメジャーなロックバンドに歌わせる、という選択肢もありそうな気がします。この時点で、その曲はボカロとは切り離されるわけですが。
『桜ノ雨』も、日が経ってボカロと切り離されることで定着ということもありえそうです。むしろ、今年しか歌われなかったら、それは所詮ミクを活用して作り上げたブームにすぎない。数年後、『桜ノ雨』が定着するのか、見守りたいと思います。