「癒し系」としてのバートン
「ダークナイト」より「バットマン・リターンズ」のほうが好きだ、という気持ちはわからんでもない。ていうか自分のなかにもその気持ちは確実にある。
しかし「リターンズ」が疎外者(フリークス)に注ぐ優しい、共感を込めた視点は、それを拠り所にした現実の疎外者に逃げ場所を与えてしまう、いわば言い訳を用意してしまうという結果を引き起こしかねない。実際、バートンの持つファンタジーは「慰め」が転じた「癒し」としての逃避を多くの人間(俺含む)に与えているのではないだろうか。その極限に待っているのは例の「そのままのきみでいいんだよ」というひと言だ。
映画そのものが現実逃避なのだから、それの何が悪い、と言えばどこも悪くはない。
悪くはない、のだけれど。
しかし、9.11の後、いや、それ以前から視えていたこの残酷な混沌に対し、腹を括って理詰めで「これこれこういうことなので、どこにも逃げ場はありません」と言ってしまったノーランの「ダークナイト」を見てしまったあとで、バートンの癒しを受け入れることに対して、やましい気持ちを持つ自分の存在が、かなり大きなものになっている。癒しを越えた何かをバートンのダークなファンタジーに見いだすことは、今やかなり困難なのではないか。フェリーのシーンでの囚人と市民の選択が、かなり理詰めの嫌みスレスレな描写(つまり「良心」による選択ではない)であって「希望」とは単純に言い難いことは勘のいい人なら気がついているだろう。前振りとしてシーザーの話題が出ていたように、あそこは囚人のボスを王権に見立てた、王権と民主主義のシステムの対比としてある。恐怖に急かされた「セキュリティ」の時代に在って、バートンのジョーカーに恐怖を見いだすことはもはや難しい。
「リターンズ」も、物語の上では疎外されたもの同士が潰しあうというやるせないものだけれども、そこに注がれる視線は優しく、悲しく、それゆえ一種の安全地帯を用意してしまいかねないからだ。
癒されることにやましさを感じさせる空気の現出。「ダークナイト」が呪いじみた映画であるのは、要するにそういうことなのかもしれない。
Body of Lies
の邦題は「ワールド・オブ・ライズ」になった模様。12/20公開か。意外と早いな。