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ましてや俺においてをや

羽入は、未熟な学生であり、これからたとえばヴェーバーの歴史・社会科学を地道に学ぶことをとおして、「魔術」的カテゴリーの呪縛や彼我混濁癖から一歩一歩解放されていかなければならない身である。そういう羽入を諭し、たしなめるべき教員が、そうはせずに、「徹底的に実証的に論じた」と称して持ち上げるとは、なんたることか。ところが、「審査要旨」の文面では、そういう不可解なことが事実なされ、未熟な学生に博士の学位が認定されているのである。(折原浩『大衆化する大学院──一個別事例にみる研究指導と学位認定』、未來社、2006年)

この本で著者のもっとも激昂した口調を感じさせた一節。
羽入=折原論争なるものの存在とその内実を、遅ればせながら初めて知った。
簡単にいえば、折原は、羽入辰郎マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002年)およびそのもとになった博士論文『『プロテスタンティズムの倫理』論文におけるヴェーバーの資料の取り扱い方について』(原文ドイツ語、東京大学大学院人文科学研究科倫理学専攻、1995年)に対して、そのヴェーバー批判があらゆる点でまったくの見当違いであることを論難し、さらには、こんな「疑似論文」に博士号を認定した大学(審査委員会)側の過失(職権濫用)を問い糾す。著者は決して個人攻撃が目的ではなく、こうした杜撰な研究指導・学位授与は構造上、今日のどこの大学にも起こりうるのだから、きちんと問題のありかを見極め、われわれ全員が少しでも前進するための糧にしなくてはならない、という。折原の他の著作、学的スタンス、そしてこの論争の詳細なコンテキストは知らないが、本書を読む限り、「知的誠実さ」(まさに羽入がヴェーバーに欠けているとし、それに折原が抗ったもの)は彼の側にあると思った。
一般に博士論文の場合、「内容要旨」と「審査要旨」がウェブ上で公開されている(あるいは図書館で誰でも読める)のだから、それらをすべてチェックして杜撰な審査・学位授与の実態を暴き出し、それを大学評価の一環とする(しかも個人がブログ上とかでやる)ことも今後ありえない話ではない。
学生気分がまだ抜けきらない私も、気がつけば、学会誌の査読や学位論文の審査といった仕事が年々増えてきており、自分が評価されたときの経験を延長して何となく事に当たってきたのだが、この辺で一度、評価することとは何かをじっくり考えてみてもよかろう。そういう意味では他の諸々をさしおいてこの時期に読んだ価値があった(一旦、現実逃避モードに入るとノルマ以外の本がどんどん読めてしまい困ります)。
評価することはすなわち評価されることである、ということくらいは常日頃認識しているつもりだったが、自分がそこに置かれている現代日本の学的状況のなかで、学的厳格さを教育効果のような(曖昧な)ものとどこまで両立させるか、自分なりの「知的誠実さ」をリアルポリティックスである評価の場面でどこまで貫徹するか(かといって「自分」にもそう確固とした自信があるわけではないし)、きちんと考えないとこの先やっていけないな、今までのようにアドホックな対応じゃ危ないな、と痛感した。自分の知識や能力は最初から信用していないが、知的エートスの正当性と一貫性は幾分過信してたかなと、少し反省。
あと図らずも、形式においてはウェーバー社会学的議論の手続き・対象分析方法の、内容においてはヴェーバー思想の、形而下的には大学闘争時代をくぐり抜けた知識人の生き様の勉強に、大変なりました、ハイ。タイトルには「大衆化」とありますが、ここ一、二年で量産されている類書とは違い、この本にはいわゆる大衆(問題)は出てきません。羽入氏も断じて大衆(の一類型)ではありません。というか、疑似問題をでっち上げてヴェーバーの「魔術」からの解放を説くような、そんな「大衆」はイヤです。日本の大学が大衆化して教育・研究のあり方が変質するなか、腐っても東大の伝統ある研究室においてそんな有様なら「ましてや他においてをや」というのが、この本のタイトルに込められた意味です。