半藤さんが最近お出しになった好著「歴史と戦争」には、山県有朋のことをこう評しているところがある。「日本帝国の創設者は伊藤博文と山県有朋だった。しかし、後世に与えた感化力から言えば、伊藤は山県に遠く及ばない。山県の作ったものは、国家を動かし猛威を振るった・・・。その意味で、『大日本帝国は山県が亡ぼした』と言っても過言ではない」。
大物とはいえ一個人がそのような影響力を持つとは信じがたく、一体どのようにしてそうなったのか、それを知りたくて本書を手に取った。そして本書はその点明確に答えてくれた。また、半藤さん自身は「書いていて筆が進まなかった」とおっしゃっているが、その手練れの文章もあって、読者には大変面白い本だった。以下では、山県が「怪物」に成りあがるうえでポイントになったと思しき点を本書から拾ったうえで、その破滅的影響力について日本の歴史全体の中に位置づけつつ、考察してみたい。
1.長州に生まれたという幸運
山県が生を受けたのは、足軽以下の最下級の武士の家だった。封建社会にあっては、本来出世の見込みのほとんどない末端の武士である。だが、風雲急を告げる時代、萩という土地に生まれたことが幸いだった。周知のごとく、そこは長州藩の本拠地であり、ほどなく吉田松陰が先覚者となって幕末の日本を変えていくことになる。山県は、まさにその松陰先生の知遇を得、松下村塾に入ることができた。言うまでもなく、このことが彼のその後の人生に決定的な意味を持つことになる。
2.維新前後の血みどろの戦いを生き残った、という幸運
そして山県の第二の幸運は、幕末から維新にかけ長州藩士の一員として幾多の戦いに身をさらしつつも、命を落とさずに済んだ、という点だ。久坂や高杉など松下村塾の仲間たちは、師の松陰を追うかの如く次々と命を散らしていった。彼らと同様戦いの第一線に臨みつつ、無事に生きのびて維新を迎えることができたのは、まさに幸運のなせるわざだったと言えるだろう。
3.汚職で兵部省を去るも、より強力に復権できたという幸運
だがその後、山県に人生最大のピンチが訪れる。山城屋事件だ。かつて奇兵隊で苦楽を共にした男(野村三千三【みちぞう】)が民間に転じ、手を出した相場で大金を失ったため、昔のよしみで山県が国のお金を融通してやった、という事件である(これは現代だと特別背任か)。山県は、非難のーーーとくに薩摩藩出身者からのーーー嵐の中、兵部省の幹部を辞するほかなかった。
しかし、しばらくして、思わぬ助け舟があった。西郷隆盛が山県の才を惜しみ、かつ長州出身者と薩摩出身者の反目を緩和する意味もあって、ほどなく山県を陸軍卿(陸軍大臣)に推薦、就任させたのである。この、「西郷隆盛が口添えした」、というのがポイントだ。当時の政府で山県に一番批判的だったのは、上述のごとく、桐野利秋ら薩摩出身の男たちだったのであり、他ならぬ薩摩の巨頭・西郷が山県の能力を買ってその後ろ盾になる、ということは、「山県を一番批判していた連中が沈黙する」ということだった。山県は、能力もさることながら、よき理解者に恵まれた、と言えよう。
4.西郷の下野によって、長州閥の発言権が相対的に拡大
これによって命拾いした彼は、その後、長州閥の代表格として、隠然たる勢力を陸軍の内部に伸ばしていく。本来であれば薩摩閥がバランサーとなって長州の影響力を限定しただろう。だが、陸軍の一番の大物であった西郷が征韓論で下野し、彼の下にあった陸軍の薩摩出身者も一緒に鹿児島に帰ったので、陸軍内の薩摩閥の影響力が顕著に低減し、代わって長州出身者が圧倒的な支配力を持つようになっていく。
その長州出身者の中でも最高の権力者だったのが山県だ。松陰門下の古強者であり、西郷もその能力を認めていた、というのだから、山県が大きな力を持つに至ったのは自然な流れだったであろう。山県はその後、総理大臣、枢密院議長なども務め、長州藩出身者の中でも他に例を見ない権力者となって、陸軍はもとより、政界・官界にも人脈を広げ、隠然たる勢力を誇るようになる。
5.活動家や政党政治家に対し、広範かつ周到な諸制度を作って対抗
ただ山県の名誉のために言っておくと、彼もおのれの権力拡大のみを考えて生きていたわけではない。彼が幕末以来、ずっと心に抱えていたのは師の松陰と同様の「日本を列強の餌食にしてはならない」という思いだった。
彼の経歴を見ると、若き日に長州の仲間とともに下関で四か国連合艦隊の攻撃に立ち向かったことがある。のみならず、陸軍の幹部となってからも、我が国が日清戦争後に三国干渉で遼東半島の放棄を強いられるところを目の当たりにしている。列強の軍事的圧力というものを、彼は他の誰よりも切実、かつ鋭敏に感じ取ってきたであろう。そんな彼の危機感からすると、無謀な対外強硬姿勢をとり、あるいは逆に必要不可欠である(と山県が思う)軍備の予算を削ろうとする政治家は、いずれも国家の独立・安全に害をなす存在に他ならなかった。彼は、祖国の独立・安全を十全たらしめる上で、軍の編成・運営については軍人が取り仕切るべきもので、文官、ないし政党政治家の手が及ばないものにすべきだと考えた。
そしてその目的のため、かねてより政界や官界に張り巡らせていた人脈を駆使して、統帥権の独立(広義では、軍の編成と運営の独立を意味する)、帷幄上奏権、そして軍部大臣現役武官制を導入した。のみならず、国家社会を不安定化し、列強に付け込む隙を与えかねない自由主義的・共産主義的活動を抑え込む目的で治安警察法(山県の死後、治安維持法に改悪される)を制定した。更に、そういった諸制度・法体系を支える盤石な官僚機構を構築した。
6.昭和の軍部は統帥権の独立を最大限に利用
山県自身は大正11年にこの世を去っている。しかし、山県の導入した諸制度、なかんずく「統帥権の独立」が猛威を振るうのは、むしろ彼が鬼籍に入った後の昭和の時代のことである。例えば、ロンドン海軍軍縮条約を締結した浜口雄幸総理に対し、軍部は、「軍艦をいくつ建造するかは統帥事項である。したがってそれに関し、天皇(=軍の統帥部)の意向に反して首相が勝手に減らすことは統帥権干犯だ」と攻撃した。つまり「統帥権の独立」によって、総理でさえ軍の編成に口出しできない、ということである。
「統帥権の独立」は、同様に、日本軍のあらゆる重要局面でその威力を発揮することになる。満州事変の処理も、インドシナ方面進出も、真珠湾攻撃も、全て軍の運営に関わる統帥事項であったから・・・。こうして我が国は、軍の戦線拡大にほとんど歯止めをかけることなく、いつしか英米中を同時に敵に回しての戦争に突入していたのであった・・・。
結局、昭和の軍部は、暴走する組織の常として、「自らがいかに無謀で危険な行為に出ているか無自覚で、その結果、必然的に悪い結果を招いても上層部は誰一人責任を取らず、なおかつその真実を国民の目から隠そうとした」(現代でも、東京電力の最高幹部には同じことがあてはまる)。そして山県の導入した制度はその格好の道具として軍部の権益拡大に寄与した、ということだろう。
山県はこれを見て、草葉の陰で何と言っていることだろう?「昭和の敗戦は俺の責任じゃない!俺の作った制度を悪用した奴らが悪いんだ」と言っているかもしれない。確かに山県の意図としては、上述のごとく「素人政治家が無謀な対外戦争を強行したりしないようにする」という戦争抑止的な目的もあった。しかし「政治家に口出しさせないよう、軍のことは軍で決める」、という制度にすれば、その意図とは全く逆に、軍が政治家のコントロールを振り切って国を無謀な戦争に引きずり込む危険があるのは明らかである。その点への配慮があまりにも欠けていた以上、山県の責任はやはり重い。
7.悪かったのは山県と軍部だけか?
だが、すべてを山県と昭和の軍部のせいにして終わり、ではやはり片手落ちである。半藤さんの「歴史と戦争」にも鋭く指摘されているが、当時の大新聞は「軍の猛威の前に沈黙を余儀なくされたのではなく、部数を稼ぐため戦争をあおるような記事を積極的に書いた」のだ。また、小林秀雄、亀井勝一郎、など、名の通った文人も、我が国が真珠湾攻撃に成功した際は、大いに感激し喝采を送ったという。
加えて、当時の総理・近衛文麿は、「英米は、口では平和を唱えるが、それは自分たちに都合の良い、人種差別的で搾取的な現在の世界秩序を維持したいがためだ」、と論文で堂々と書いている。これもまた、反英米の世論を喚起したであろう。
8.結論
結局、山県が比類のない影響力を持ったのは、①西郷も認めたように本人に高い能力があったからであり、②いくつかの幸運にも恵まれたからであり、③本人自身、執念にも似た強い思い入れでもって周到かつ広範に諸制度を作ったからであり、④そういう山県の作った制度を徹底的に利用した昭和の軍人たちがいたから、である。
彼らと、反英米の雰囲気を煽った大新聞や文人たち、そして政治家があいまって、太平洋戦争のあの破局的結末を招いたのだ。
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山県有朋 (PHP文庫 は 9-5) 文庫 – 1996/8/1
半藤 一利
(著)
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- 本の長さ253ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日1996/8/1
- ISBN-104569569218
- ISBN-13978-4569569215
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登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (1996/8/1)
- 発売日 : 1996/8/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 253ページ
- ISBN-10 : 4569569218
- ISBN-13 : 978-4569569215
- Amazon 売れ筋ランキング: - 35,191位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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1930年、東京・向島生まれ。
東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。松本清張、司馬遼太郎らの担当編集者をつとめる。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役などをへて作家。「歴史探偵」を名乗り、おもに近現代史に関する著作を発表。
著書は『日本の一番長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(正続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『幕末史』など多数。『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。
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- 2019年2月8日に日本でレビュー済みAmazonで購入
- 2019年5月8日に日本でレビュー済みAmazonで購入令和の時代に入り『平成史』といった本が書店に並んでいるが、これは時期尚早であろう。
時代は、20年、30年経ったあとに振り返って初めて評価できるものだからだ。
その意味では今こそ「昭和史」を学ぶべきだが、昭和を勉強すると必ず出てくるのが「山県有朋の遺物」である。
その意味で、山県有朋という人物と彼が残したものを知りたかった。
明治の日本を作ったのは明治生まれの人ではない。江戸時代に生まれ、幕末を生き延びた人が、必死になって明治の日本を築いたのだ。
その先頭を走ったのが山県有朋であるが、彼の残したものは明治にとどまらなかった。太平洋戦争で多くの命が失われることになった原因は、山県の遺物であった。
山県有朋こそが、軍人勅諭を作り、教育勅語を作り、天皇を現人神にした張本人であった。
しかし、これらは明治の強い日本を作るために、山県が自分の理想を実現するために生まれた手段であった。
彼ほど、状況を冷静に分析できる人物はいなかった。
また、彼ほど強烈に理想を描いた人もいなかった。
山県は、確かに敗戦の因を作った人物かもしれない。
しかし、手段は往々にして目的になる。山県有朋が人生をかけて作った手段を目的のように履き違えてしまったところに、太平洋戦争の敗戦はある。
- 2016年8月19日に日本でレビュー済みAmazonで購入山県有朋の実像が手に取るように書かれており、明治時代に活躍した人物についてよくわかり驚いた。
- 2010年1月17日に日本でレビュー済み本書は、山県有朋に視点をおいて、明治・大正期の政治を概観している。記述は平明であり、とくに高校生にお勧めしたい。明治期の政治史は、藩閥、政党、官僚、軍部などがそれぞれの思惑から複雑な動きを見せ、理解にやや困難があるが、本書を読めばそれらについて、明確なイメージを持つことができるだろう。
ただ、本書を読み進めるにあたって注意すべきことがある。筆者は本書のいたるところで山県有朋の心境を忖度するのだが、それが根拠――例えば日記や書簡――に基づくものなのか、筆者による解釈なのかが不明な点である。ある場合は、筆者は史料を引用し、ある場合はしない。史料を引用しない場合、史料がないので引用しない(=出来ない)のか、史料があるが引用しないのか、読者として判然としないのは不満である。とはいえ、さらなる読書へむけた道案内としては十分、その任を果たしている。
- 2016年1月13日に日本でレビュー済みAmazonで購入今年の正月は、山県有朋を読もうと購入し、読んでみました。
半藤氏は、西郷、大村、大久保、伊藤などの明治の基礎を形成した人物と対比しながら
山県の人物としての容量を描き出しています。
確かに幸運に恵まれ、陸軍に上司が居なくなったことにより軍部の舵取りを担い
教育勅語を初め、組織と体制を作り上げた業績はあるものの不人気であったことが解ります。
読み進んで行くに従い、小生の周りにもいる人間の一種であることがダブって来て
非常に不愉快な読後感になりました。
出自はついて回る典型のような男だったと思います。
- 2015年11月3日に日本でレビュー済みAmazonで購入一般に帝国陸軍が道を踏み間違えたのは満州事変からと思われてますが、張作霖爆殺事件や甘粕事件を見るに、帝国陸軍の体質に問題があったとしか思われない。
その原因を探るには、事実上の建設者の山県有朋に触れることは避けられないので、一度読んでおくことをお勧めします。
- 2020年11月5日に日本でレビュー済み初めて、山県有朋を扱かった本を読んだ。入門書として良くまとまっている。
明治維新から1945年8月の敗戦、原爆投下に至る日本滅亡のレールを引いた、具合的には、「統帥権」と「帷幄上奏権」を確立したのが山県有朋である。
山県を評して、新聞記者の阿部真之助が、「あんな薄気味の悪い顔を見たことがない。冷々として無表情で、たまたま笑えば、死人の笑いとなった。この顔はどうみても冷酷な、エゴイストの持ち物だある」(13頁)と。これは、正しく「悪魔」の顔ではないか⁉️
えー‼️こんな男に日本は支配されていた=この男によって、日本の原型が造られたのかと思うと情けないやら恥ずかしいやら❓
国民=民衆を馬鹿にする人間観は何処から生まれて来るのだろうか❓突き詰めて行くと、日本には、キリスト教信仰の神が不在な為、「天賦人権論」が血肉とならず、代わりに、天皇さんを崇める代案を思い付く。しかし、天皇崇拝に普遍性はなく(おそらく、吉田松蔭の未熟さに起因)失敗、国民=民衆一人一人を、鉄砲玉のように消耗品と見る人間観、具体的には官僚組織維持、自己保身の優先になってしまった。
本書をきっかけに思索する事がどんどん出てくる。
- 2021年7月28日に日本でレビュー済み日本の歴史で大きな変革を成したのは「良くも悪くも」、中心は長州(今の山口県)の人間であり、特に吉田松陰の松下村塾におけるほんの1~2年における、そこに集まった本の小地域の「餓鬼ども」であった。俊才と言われた久坂玄瑞、高杉晋作は、特別過激で若くして命を捨て、西郷隆盛、坂本龍馬も過激で、若くして死ぬ。
そして二流の人財が残る。著者は、その後を担った人物として伊藤博文と山県有朋を上げる。私は山口出身だが、山県有朋は、綺羅星のように現れた一人にすぎない人物と思っていたが、この著書によると、彼は、萩の足軽より以下の単なる貧民である。いじめられ、小突き回されて「俺は武士になりたい」という一念で、槍術の没頭する。すなわち、暴力で立ち向かうという事が信念になる。
当時、藩を担っていたのは周布であり、階級に関係なく有能な人材を集める政策であった。そこで採用され、特に武力・軍事で活躍して、階段を上がっていく。そして、伊藤博文と山県有朋がその後の日本の根幹を作っていくが、著者は、その影響力ははるかに山県有朋であったとしている。
具体的には「天皇絶対君主制・神的存在」にし、伊藤が明治憲法を作るが、その中に、天皇大権として「統帥権」「軍編成権」を入れ込み、軍人勅諭、教育勅語、現役陸海軍大臣(大将・中将)武官制を実質的に主導し、政府の首相であっても、軍事に関しては直接天皇に直属するものであり、首相であっても手出しはできないし、情報も渡さない。しかも「帷幄上奏権」なる不可思議なものを作り、参謀本部は直接首相を素通りして、天皇に上奏できるという体制を作った。
これらのことが、結局、だんだん強化され、文句があるなら「刀がものを言うぞ」とばかり、増長し、遂に司馬遼太郎も言う、それがあの無謀な日本は滅の戦争に突入させた素地と見ているように、著者もそのことを打ち出している。すなわち、誰も止められない存在に山県有朋はなったし、ならしてしまったのである。その思想は、石原莞爾、武藤章、東条英機の武断優先で、状況判断さえできない軍国主義者を増長させ、誰も止められない空気と圧力と脅迫がまかり通る、時代を作ったのである。
今また、そういう思想の人が蠢いていて、巧妙に「防衛のための先制敵基地攻撃論」が出てきている。まさに、山県有朋が得意としたやり方が復活してきている。