ちょっと野暮なツッコミしとくかな
ちょっとだけ。
内樹先生⇒そんなことを訊かれても (内田樹の研究室)
資本主義に対するもっともラディカルな批判はマルクスによるものだが、マルクスの主張は一言に尽くせば「万国のプロレタリア、団結せよ」という『共産党宣言』の言葉に要約される。
資本主義に対する根底的批判の言葉が「資本主義打倒」ではなく「貧しいもの弱いものは団結しなければならない」という遂行的なテーゼであったことを見落としてはならない。
「プロレタリア」というのは、生産手段を持たない労働者を指す。で、重要なのは、生産手段を持たないという点。これは、「貧しいもの」とはイコールではない。これがはっきりするのが、農民は生産手段を持つから社会主義革命の敵になること(農奴の問題はとりあえず捨象)。だから、スターリンは社会主義のために農民の大虐殺を行った。基本的にマルクスの考えでは、社会主義への移行は、生産手段を持つ農民が生産手段を持たない労働者にさせられるという段階を経て行われるもの。
だから、資本主義に対する抑制的行動は「人類学的」水準において、つまり「弱者の連帯」というかたちでのみ効果的に果たされる。
その段階では、その「弱者の連帯」なるものが社会主義への抑制にもなってしまう。マルクスは社会主義革命を市民主義革命の後に位置づけて、つまり必然的な内包としているのだけど、その市民主義革命では、国家が社会から個人を市民として守るところにある。社会なり共同体のなかに埋没させられた個人の所有権・生存権を社会・共同体を越えた国家が市民として救出する点にある。
コミューンとは人間と人間のあいだの距離が「わりと近い」共同体なので、「論の政治的正しさ」や整合性ではなく、「ガキのころから知っとるけど、あれはなかなか肚のすわったやっちゃ」とか「あれは口だけのヘタレや」という判断が合意形成に際して優先的に配慮される場所というふうに私は理解している。
パリ・コミューンとマルクスの問題は難しいのだけど、大筋でいうなら、社会主義というのは資本主義、ここでは市場の上に成立するものだから、市場のもつコミュニケーション機能を止揚した形で行われる。マルクスでは、市民のassociationが構想されていたはず。
まあ、ここがエンゲリスムとマルクス思想がごっちゃになってしまってややこしいところではあるのだけど、基本的に資本論の枠組みでは市場が完全に機能すればそれ自体が経済における十分なコミュニケーション機能を持つという点で、古典派の枠組みとそれほど違いはない。まあ、ここは異論は多いかな。
いずれにせよ、マルクスは市民社会・市場社会というものの止揚として社会主義を構想していたというのが基本。
よせやぃ。: 吉本 隆明 |
結局最後は何かといったら、これはマルクスのわりに初期のものですが、農業問題を論じたものの中に「後進国で革命をやると必ずナショナリズム革命になる」と書いてあるんですよ。僕はいっぺんに目からうろこが落ちたというか、マルクスだけですね、はっきりそう書いていたのは。あとの奴はいい加減なことを言うだけです。侵略されたとか、いい加減なことばかあり言っているわけです。
僕はそれを見て罪の意識がいっぺんに取れてしまって、「そうか、そういう意味合いか。後進国革命と考えれば、右翼とか左翼かというのはスターリンの作った概念で、そんなことは問題にならないんだ」と。後進国革命と資本主義が成熟してしまった革命というのは違うので、やっぱりナショナリズムの要素が入ってしまう。中国もそうです。
中国は反日愛国なんていうデモをやっていて、どうせ北京が煽ったに違いないんですけど、僕はそこは目からうろこが落ちているから筑紫哲也みたいに怒らないですね。「それはそれぞれの事情だよ。中国は日本から半世紀遅れて、つまり先進・後進の問題で、そういうことをいまでも言っているんだよ」と思っています。