Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

このブログの更新は Twitterアカウント @m_hiyama で通知されます。
Follow @m_hiyama

メールでのご連絡は hiyama{at}chimaira{dot}org まで。

はじめてのメールはスパムと判定されることがあります。最初は、信頼されているドメインから差し障りのない文面を送っていただけると、スパムと判定されにくいと思います。

僕は、オブジェクトもthisもサッパリ理解できなかった

「『常識』というよりは『理解の基盤』と『説明の方法』」に挙げた4つの問いかけのなかで、

  • メソッド内で使える「this って何?」と聞かれたら…。

これはなんか異質でしょう。thisは、僕自身の記憶に残っている例なんだよね。(以下、愚痴口調の文体。)

「犬とポチ」はやめてくれ

僕は、オブジェクト/クラスの概念が全然分からなかったし、今でも分からないよ。「犬クラスは哺乳類クラスのサブクラスで、ポチは犬クラスのインスタンスだ」とか「タイヤは自動車クラスのインスタンスではないが、自動車はタイヤを持つ(HAS-A)のだ」とか。そのテの説明を最初に見てしまったのがいけなかった。

犬とかポチとかは、動物学/分類学博物学、あるいはペットショップで必要な概念なんじゃないの。それがどうした? という気分。今の僕は、このテの説明を全否定はしない。それで納得した気分になる人がいる事実を知っているからね。大人だね>僕。

その後に、「オブジェクトは実世界の存在物に対応する」とか「クラスは、現実を抽象化すれば得られる」とか、わけわからん御託と能書きに接して、ますますイヤになった。心底嫌いになった。今の僕は、実世界/現実との対応を出すことを全否定はしない。そういう観点と能力が実際に必要/重要であることを知っているからね。大人だね>僕。<シツコイ!

だけどね、計算現象、プログラミング言語機構としてのオブジェクト/クラスを理解できたその後で、実世界・現実との対応を考えてもいいのじゃないのかな。「犬とポチ」を出されても計算現象への認識を深める役には立たないよね。

メッセージというのがまた分からない

今の僕は(またかよ)、メッセージ・パッシングというメタファーは便利だし、役に立つと思っている(ほんとだよ)。でも、なんか擬人化されて、class A 内で発生する呼び出しb.hoge() を「aさんがbさんに『hoge』という命令や伝言を送ることです」とか言われると鳥肌が立つ(気持ち悪くて)。まー、これは僕固有の感性で、異常体質なのかもしれない。

それで、一番わからないのが、thisとかselfに対するメッセージ・パッシング。「自分にメッセージを送る」って何よ、それ? 他人を動かすならともかく、自分ならサッサとやりゃいいじゃん。イチイチ「俺、お茶飲め」とか「私、ドア開けましょう」とかメッセージしないといけないわけか。

まー、たしかに「がんばるんだ、俺」とか「明日までには必ず終わらせなきゃね、私」と心のなかで思うことはあるだろうけど、たまに。ところで、ゴルゴ13って知っている? 彼は機械のようにクールな奴なんだが、初期の頃、なんと彼は「落ち着くんだ、ゴルゴ」とか自分に言い聞かせちゃっているんだよ。ゴルゴらしくねーー。恥ずかしいなー、ゴルゴ。やーい、若気の至りか、ゴルゴー

のぞき見で分かったこと

C++の初期の処理系はcfrontというトランスレータで、Cソースを吐くだけだった。で、僕は中間のCソースをのぞき見していた。それでやっと事情が飲み込めたんだよね、僕としては。

Java風の記法に換えて説明すると、obj.someMethod(arg)という呼び出しは、functionFor_someMethod(thisRef, arg)のようにトランスレートされる。つまり、参照引数を1つ余分に持った関数(サブルーチン)になるわけね。隠れた引数thisRefは、ヒープ上にあるメモリブロック(構造体だと思ってよい)を指している。

それで、フィールドアクセスthis.fieldは、thisRef->field(thisRefが指しているメモリブロックの特定位置のデータを取得)になるし、メソッド呼び出しthis.foo()は、最初と同じルールでfunctionFor_foo(thisRef)となる。

オブジェクトが「ヒープ上に割り当てられたメモリブロックと、いくつかのサブルーチン群を紐付けて一緒に考えたもの」だとして、問題のメモリブロックとサブルーチンを“紐付ける”さいに、サブルーチンにこっそりと渡してあげる引数がthisなのよ。

それって、いくらなんで即物的過ぎないか

以上の説明は、(他でも似たようなことやっているにしても)cfrontとCコンパイラの処理系実装方式に依存した説明であり、理念的な理解とはほど遠い。しかし、こと僕自身に関して言えば、「this(あるいはself)は自分を意味する」とか言われても、「自分」という概念が摩訶不思議だし、「自分を意味する」なんて高尚なコトバにイマジネーションが届かない。まったく分かった気分がしない。

僕のようなベタベタな理解・納得はマズイのかな? -- それも分からない。でもね、隠れた参照引数による実現が必ずしもローレベルだけの話ってわけではない。代数的アプローチによりクラス/オブジェクトを説明できる枠組みのひとつに余代数がある(関連する資料の紹介)。余代数によるメソッドの定式化は、隠れた引数を1つ追加する方法なんだ。

結論は特にない

総括的に何が言いたいのかというと、ウーン、べつにないや。「thisの思い出」かしら。

思い出、って言えば、cfront方式はトランスレータコンパイラが走るから遅いんだよ。それで、いきなりネイティブコードを吐くコンパイラが登場するわけだが、僕が最初に触ったのはゾルテック。その綴り字が思い出せないの、誰か憶えてる?