「核実験の日、ピョンヤンにて」―朝鮮はなぜ核実験をしたのか
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今日(25日)午前、朝鮮民主主義人民共和国は「自衛的核抑止力を強化するための措置の一環として、25日に地下核実験を成功裏に実施した」と発表した。
http://www.asahi.com/international/update/0525/TKY200905250143.html
これでまた、うんざりするような憶測報道と朝鮮バッシングが続くのだろう。
しかし、朝鮮戦争でアメリカは朝鮮に核攻撃をするといって脅迫し*1、先制攻撃ドクトリンはいまなお放棄されていないこと*2、冷戦時代のようなソ連の後ろ盾を朝鮮が失ったことを思えば、朝鮮が独自の「核の傘」を構築し、それを背景にアメリカに対して対等な立場で核軍縮交渉と平和条約締結を進めようとするのは、あまりにもわかりやすい合理的な行動といえる。
これがわからないとすれば、日本人が「アメリカの核に守られた平和憲法体制」という矛盾した状況に長く浸り、国際政治を見る現実的な目を曇らせ、合理的な思考を腐らせてしまったことと、いまだに朝鮮を対等な国家として認められず、「朝鮮のやることはすべて理解できず、許せない」という差別的・植民地主義的思考から抜け出せないせいだと思われる*3。
このような日本側の身勝手な思考に乗っかったまま、いくら口で「核実験反対」を唱えたところで、現実を変えることはできない。朝鮮側に核を必要とさせている、この不均衡で不正義な世界と日本のあり方を根本的に変えることこそが求められているのだ。
ところで筆者は、2006年10月の朝鮮初の核実験の日、ちょうどピョンヤン(平壌)に滞在していた。そのときに雑誌に発表した手記を、この機会に再掲しておきたい。核実験当日の日常の風景から、朝鮮がなぜ核実験をしたのか、その一端を理解していただけたらと思う。
核実験の日、ピョンヤンにて
朝鮮民主主義人民共和国の核実験が行われた(2006年)10月9日、私はたまたま平壌(ピョンヤン)でそのニュースを聞くことになった。新たな核保有国の出現という歴史的な瞬間を現地で体験した数少ない日本人のひとりとして、見たまま聞いたままを記録しておきたいと思う。
10月7日午後、朝鮮の子どもたちに粉ミルクを送るボランティア団体「ハンクネット・ジャパン(朝鮮人道支援ネットワーク・ジャパン)」の一員として、私は中国・瀋陽経由で平壌に到着した。
空港で私たちを出迎えてくれたのは、朝鮮対外文化連絡協会の担当者R氏だ。「お久しぶりです」。にこやかな顔が、心持ち日焼けしている。聞いてみると、毎週金曜日は職場総出で近郊の農村に援農に出かけるのだそうだ。
平壌市内へと向かうバスのなかから、風景に目をこらす。道路の両側に広がる水田は、7分ほど刈り入れが終わり、あちこちに稲藁が積み上げてある。都心に近づくにつれ、人と車が増えてくる。車は年々増えている印象だ。私たちを乗せたバスは日本製の中古だった。運転手にガソリンの値段を聞いてみる。
「15kgで15〜16ドルといったところですね」
つまり1リットル約120円前後、当地の物価水準からすればかなり高い。
8日は板門店を訪問した。検問を通って、非武装地帯に入る。軍事分界線の近くにも田畑が広がり、農民たちが稲の刈り入れをしたり、牛で畑を耕している。道ばたで車座になって弁当を広げる人々の姿も見られた。車窓から見下ろすと、大振りの弁当箱に米の飯がぎっしり詰まっていた。
共同警備区域(JSA)に足を踏み入れると、軍事停戦委員会会議場のバラックが立ち並ぶ、おなじみの光景が広がる。だが、南側地域には韓国兵や米兵の姿は見られず、拍子抜けした。案内の将校によれば、最近、北側から民間人が来たときはカメラで監視するようになったのだという。会議場の内部に入る。25年前、韓国側からこの部屋を訪れたとき、窓の外から朝鮮人民軍の若い兵士が好奇の目で我々観光客をのぞき込んでいた記憶が甦った。
将校にややきわどい質問をぶつけてみた。
「数年前、南で作られた『JSA』という映画を見ました。南北の兵士が偶然に仲良くなったものの、結局はふとしたきっかけで殺し合うという悲劇的なストーリーなのですが、どう思いますか?」
すると将校はあきれたような口調でこう答えた。
「ああ、『共同警備区域』のことだね。あらすじだけは聞いて知っています。でも、あんな荒唐無稽なことは起こりえないよ。それにね、あの映画には朝鮮戦争の当事者である米軍が出てこないでしょ。分断を南北の対立のせいにして、米国の責任を覆い隠そうとしているんじゃないか」
映画を見ていないというわりには内容を熟知していたので、私はちょっと驚いた。
9日は、平壌近郊の鶴山共同農場を訪れた。1946年の土地改革で創設されたこの農場には、現在740世帯、3600人が暮らしているという。管理委員長が言った。
「90年代後半の“苦難の行軍”の時期には、この村でも子どもや老人が飢餓で犠牲になりました」
だが、黄金色の田や、カラフルに塗装された新築の共同住宅を見ていると、遠い過去の出来事のようだ。実際、この村に限らず、農村部には真新しい住宅が数多く見られた。なかには平屋の一戸建てが立ち並ぶ地域もあり、玄関には表札が掲げられ、庭には青々と野菜が茂っていた。
続けて平壌外国語大学を見学した。日本語科の教室では漢文の授業が行われており、18人の学生がかしこまって黒板を見つめている。70歳前後と思われる老師が、はりのある流暢な日本語で講義を進める。日本からの帰国者なのだという。日本人教員はいないそうだ。
講義の後で学生たちに聞いた。
「このなかで自分から進んで日本語科を選んだ人は?」
女子学生が2人、そろそろと手を挙げる。学校関係者が困り顔で打ち明けた。
「金丸訪朝団が来たときは、日本語も人気があったんですがねえ。最近は日朝関係の影響で希望者が減りました。子どもを他の科に移したいといって学校に乗り込んでくる親もいるんです」
ひとりの女子学生が、私たちにこんな質問をした。
「私たちは日本と仲良くしようとしているのに、日本のマスコミはなぜ反共和国的な報道ばかりするのですか?」
同行したメンバーのひとりが、「それはアメリカに逆らえないからでしょうね」と答えると、教室が爆笑に包まれた。
その日の午後、平壌市育児院を訪れて医薬品などの支援物資を引き渡す。育児院とは、母親のいない子らを養育する施設だ。7年前に支援を始めたころは、泣く気力もなく横たわっていた子どもたちが、やんちゃ坊主に成長していた。しかし、粉ミルクは輸入でしかまかなえず、抗生剤・ビタミン剤などの薬品も入手が難しい。
続けて朝鮮新報(朝鮮総聯機関紙)の平壌支局を訪問した。そこで初めて支局長から「今日、核実験に成功したそうですよ」と聞かされた。昼のラジオと夕方のテレビで、短いニュースが流れたという。
核実験成功の事実以上に私が驚いたのは、その日の平壌の街があまりに平穏だったことだ。支局長とともに夕食をとりに夜の街に出たが、レストランでは店員も客も、何事もなかったような表情だ。ウエートレスのひとりに核実験成功をどう思うか聞いてみたが、少し恥ずかしそうに、「ああ、そうですか。忙しかったのでニュースを見てなくて知りませんでした」と答えただけだった。
その夜、同じホテルに宿泊していた、離散家族の再会運動をしているという在カナダコリアンの婦人と話を交わす機会があった。
「今日の夕方コンサートに行ったら、開演前に司会者がこう言ったんです。『わが国の核実験が成功裡に行われました』って。私はすごくびっくりしたんだけど、会場は静かなものでしたよ。ところどころからパラパラと拍手が聞こえただけ」
翌10日は朝鮮労働党創建61周年の祝日だ。街の様子が気になった私は、早起きしてひとりでホテルの近くを散歩してみた。
歩道には、自宅前を掃き清める人たちや、体操をする夫婦たちがいる。平壌の中央を流れる大同江のほとりへと足を向ける。犬を連れて散歩する女性、ジョギングをする青年たち、釣り糸を垂れる老人、バドミントンに興じる子どもたち……。
バス待ちの行列に混じって並んでみる。大きなリュックを背負った4、5人のおばあさんたちは、何を運んでいるのだろうか。こざっぱりとした身なりの若い女性は試験勉強なのか、本を片手に何やら暗唱している。
小腹が減ったので、パンと飲み物を売る屋台に立ち寄ってみる。コッペパンが3つ入った袋を指していくらか聞くと、1200ウォンだという。日本円か中国元しかないと言うと、外貨はドルしか扱わないということだった。
1時間ほど歩き回ってみた限り、核実験の影は街のどこにも見られなかった。
ホテルに戻り、朝食をとる。コーヒーを運んできた女性従業員に、昨日の核実験のニュースを見たかと尋ねてみた。
「昨日の夕方のニュースで見ました。もちろん戦争は望まないし、核はないほうがいいけど、アメリカが脅威を与え続けるなら、こちらも黙っているわけにはいきません」
口調はあくまで静かだったが、その表情からは強い自尊心がかいま見えた。
朝食を終えてから、市内観光に出かけた。家族連れでにぎわう動物園では、子どもたちがチンパンジーの芸に笑い転げていた。景勝地のモランボン(牡丹峰)公園では、ピクニックに来た人々が三々五々弁当を広げ、アコーディオンの伴奏で歌い踊る姿や、若いカップルが盛装して結婚式の写真を撮る様子が見られた。夕闇が迫るころには市内各所で祝賀の夜会が開かれ、若者たちが広場を埋めた。軽快な音楽に合わせて、あでやかなチマチョゴリが風に舞う花びらのように揺れ動く。
その平和な光景を見ながら、なぜか胸に込み上げるものがあった。日本による植民地支配、朝鮮戦争、飢餓……このささやかな幸せを手に入れるために、どれほど多くの血と汗が流されたことか。
「北朝鮮の核実験に反対する」と口で言うのはたやすいが、日本がアメリカの核の傘の下にある現実を省みれば、その声はうつろに響く。彼らは言うだろう。朝鮮人以外の誰が朝鮮の安全を守ってくれるのか、と。
11日朝、気温がぐっと下がった。大同江の川縁に立つと、川面を渡る風が頬を打つ。祝祭の終わった街、人々が足早に職場へと歩いていく。
「ブッシュの朝鮮政策はひどい。カナダも朝鮮と国交を結んだけど、何も変わらない。でも、核実験をするまで朝鮮を追い詰めた一番の原因を作ったのは、何と言ってもジャパニーズよ」
在カナダコリアンの婦人の言葉が胸に突き刺さった。
―『一冊の本』2006年11月号(朝日新聞社)に掲載―