そのニュースを見た後、本屋に行ったら、こんな田舎でもしっかり『タモリ論』は平置きされていました。
これを読んでからじゃないと書けないと思ったので、買って今一気に読み切りました。
その確信も得てここに書き始めます。
* * *
タモリの口から笑っていいともの終了が発表されたのは、2013年10月22日。
火曜日です。
普通に考えれば区切りがいいのは月曜日か金曜日、盟友・笑福亭鶴瓶の同席を必要とするなら、鶴瓶がレギュラー出演している木曜日に発表をするという選択肢もあったはずです。
しかし結果的にいいともは火曜日に鶴瓶が乱入という形で発表を遂行した。
なぜか?
火曜日には中居正広がいた。
鶴瓶乱入のくだりを見ていると、いつもながらのいいともらしい空気から、中居の「エンディング?」という合図で、一気にゲスト登場(仮)の流れへと番組が動きます。
この時の「エンディング?」というやや高めのトーン、「ゲストいらっしゃる」というすごく落ち着き払った合いの手、鶴瓶登場までの微妙な間を絶妙に埋めつつ、しまいには「いいとも終わるってホンマ?」と鶴瓶が切り出した瞬間のあの何とも言えない表情、
中居正広は、完全に全てを知っていました。
ていうか、あの場で終了を知っていた出演者が、タモリと、鶴瓶と、中居、
その3人だけ。
もう一度書きます。
中居くんは、完全に全てを知った上であの場に立っていた。
* * *
「タモリ論」では、いいともレギュラーである中居正広についても触れている箇所があります。
「この日のレギュラーのひとりは、長年出演しているSMAPの中居正広。
SMAPは「世界に一つだけの花」以降、国民的大ヒットこそないものの、高値安定の傾向にあります。
ぼくは不惑の年齢に到達したオヤジですが、SMAPのことをかなり贔屓にしているほうだと思います。
しかしスタッフは、もっと若いジャニーズに入れ替えたいのが本心ではないかと邪推しています。」
中居正広がいいともレギュラーになったのは1994年4月、SMAPがちょうど「Hey Hey おおきに毎度あり」で初めてのオリコン1位を獲得した頃、しかし「がんばりましょう」はまだ出ていない時期です(その後の94年9月に発売)。
その頃の中居正広は、というかSMAPは完全に人気の若手アイドルという立ち位置で、レギュラーも最初は中居正広と香取慎吾が1セットで出演という形でした。
(その後草彅剛がレギュラー加入で香取とセットになり、まず中居がソロ出演に、そして後年香取と草彅もそれぞれソロ出演になり、今のSMAP週3日レギュラーとなっている)
中居正広がいいともに出演を始めてから、SMAPはさらに人気を獲得し、2年後にはゴールデンタイムで初の冠番組も開始。
それでも勢いは止まるどころか、さらにメンバー個々の活動も活発になっていき、中居は25歳の時点で、NHK紅白歌合戦の白組司会まで担当することとなる。
97年以前の過去10年間の白組司会者を見てみると、加山雄三、武田鉄矢、西田敏行、堺正章というラインナップ。
前年まで古舘伊知郎 *1 が3年連続登板し、少し空気を柔和にしていたとはいえ、25歳のアイドルがたった1人であの番組の司会をやるというのは、今においても前代未聞です。
しかし彼は紅白の単独司会を経験しても、ずっと「いいとも」を辞めなかった。
いや、「辞めなかった」のか、「辞めさせてもらえなかった」のか。
それは私には、全くわかりません。
ただ少なくとも、この19年のいいともにおける中居正広を見ていると、最初の「バラエティ向き兄ちゃん」から近年のポジションに辿り着くまでの間、いいともへの熱意を失いかけているようにテレビに映っていた時期は、確かにあったように思います。
帽子を深くかぶり、言葉どころかほとんど表情を崩さずに1時間終わるような中居正広の出演、そんないいとも、一時期毎週ありましたよね。
でも、中居正広はいいともにいた。
というか久しぶりに見るとびっくりするくらい、近年の中居正広はいいともへ意欲的に参加して、コーナーを回し笑いもとっている。
前置きが超長くなってしまったのですが、ここでとあるインタビューを紹介します。
「20代でいろいろやらせてもらって、やっぱり自分はMCをやりたいなと強く明確に思った。次の10年はそれを磨いていく10年だと思ったので、そういう仕事をたくさん、できる限りやりたいという話をしたのは覚えています。」
(中居正広 / ザ・テレビジョン 2013年9月13日号)
若手アイドルというポジションでいいともに出だしたのが21歳、それからスマスマでゴールデンに進出したのが23歳、
紅白の単独司会を経験したのは25歳。
20代で色んな経験をして、そこでハッキリと司会という目標を見定めた時に、中居正広は誰よりもリアルな形で、いつも毎週見ているあの存在に気づいたんじゃないでしょうか。
『四半世紀、お昼の生放送の司会を務めて気が狂わない人間』
その後彼は29歳から「ザ!世界仰天ニュース」や「中居正広の金曜日のスマたちへ」の司会も始めるんですが、あれだけゴールデンで司会者としてポジションを確立してもなお、中居正広はずっといいともから降りなかった。
41歳の今日まで、レギュラーのポジションを後輩に譲るなんて事をしなかった。
そして約20年間、毎週タモリの司会を見てきた中居は、一出演者として、タモリが笑っていいとも終了を告げる瞬間に同席する。
あの場でタモリと鶴瓶と自分だけが、全てを知っていた状態で。
* * *
「タモリ論」は最後、BIG3が揃った2012年の27時間テレビに触れ、そしてtwitterで流れてきたこんなつぶやきを紹介しています。
「タモリ&さんま司会「テレビ夢列島」の初回は1987年で、今から25年前。さらに25年前はというと1962年で、なんと、「てなもんや三度笠」はこの年に始まっている。そこからの25年と比べて、この25年の地続きな感じはいったいなんなのか。いかに今が、テレビの歴史始まって以来の事態か。」
午前2:37 · 2012年7月23日(佐藤晋/ドジブックス:@roug02 https://twitter.com/roug02/status/227095152123052032)
この事実を目の当たりにし、「タモリ論」の中で筆者の樋口さんは一時代の終幕を表現しているんですが
(この辺あえて引用しません、これは本文の方でぜひ読んでみてください)
上記のツイートにもう1つつけくわえるとすれば、「第一回テレビ夢列島の翌年、1988年に誕生したSMAPが、25年後に笑っていいともの終焉を見届ける。」
以前「テレビを背負うSMAPの覚悟」という記事で「SMAPは最後の『テレビが産んだ国民的スター』になるかもしれない」と書いたことがあるのですが、
今日、一つの時代が終わりを告げる瞬間に、テレビはSMAPがいる事を選んだ。
* * *
「タモリ論」では”一時代の終焉”の後、『「ポストタモリ」「ポストいいとも!」は誰にも思い浮かばない。』と続いています。
ここまで書いていると、私は「ポストタモリ=中居正広」信者のようなイメージになってしまっていると思うんですが、これほんと強調しておきたいんですけど、全くそういうのは思っていません。
というかタモリの領域なんてもう誰も届かないだろう。
ただ、じゃあテレビはこのまま「BIG3の光と残像」と共に人々の前から消え失せていくのか、と言われると、そこまで悲観的に思ってる節もなくて、
80年代生まれの自分は、「SMAPがあそこにいた事」にものすごく光が残っているんじゃないかと思っています。
思えば、2012年のFNS27時間テレビでBIG3が集結した時も、中居正広はあの場所に居合わせていた。
そして、あの時やはり同席していた鶴瓶と共に、中居は途中、一度自らカメラの外に出ているんです。
『みんなBIG3が見たいでしょう』
BIG3の一番近くで、アイドルという諦念のサングラスをかけて
ビートたけしという芸人の生き様を、明石家さんまという神の話術を、
そしてタモリという偉大な狂気のサマを、
つぶさに吸収しているテレビの申し子があそこにまだ1人いる。
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*1:当時はまだ報道ステーション出演前のフリーアナウンサー