コラム:日本政治「安定」の謎=河野龍太郎氏

コラム:日本政治「安定」の謎=河野龍太郎氏
 10月27日、BNPパリバ証券の河野龍太郎・経済調査本部長は、日本の冴えない経済パフォーマンスと高い政治的な安定性のアンバランスは海外の人にとって大きな謎になっていると指摘。提供写真(2016年 ロイター)
河野龍太郎 BNPパリバ証券 経済調査本部長
[東京 27日] - アベノミクス開始以降、日本の平均成長率は年率0.8%にとどまる。2015年以降はわずか0.2%だ。一方、物価動向を見ると、エネルギーを除くコア消費者物価指数(CPI)は15年12月に一時、前年比1.3%まで上昇したものの、今年8月には0.4%まで低下している。安倍政権は2%成長、2%インフレを大々的に掲げていたが、いずれも目標に届いていない。
しかし、安倍首相の支持率は高く、今や先進国では稀と言っていいほどの政治的な安定性を確保している。経済の冴えないマクロパフォーマンスと高い政治的な安定性のアンバランスは、海外の人にとって大きな謎である。筆者は先日、ニューヨークを訪問したが、それが投資家からの最も多い質問だった。
今回は、改めて日本経済の潮流を振り返る。そうすることで、安倍首相の高い支持率の背景や日銀が2%インフレの達成を急がなくなった理由が見えてくるからだ。
<完全雇用でも賃金上昇が緩慢な理由>
まず最も重要な点は、低い成長率の下でも、日本では労働需給の改善が続いているということである。その理由はかねて述べている通り、日本の潜在成長率そのものが今やゼロ近傍まで低下していることだ。この結果、わずかなプラスの成長であっても、需給ギャップが改善し、労働需給は逼迫(ひっぱく)する。
現在、失業率は3%程度まで低下しているが、筆者の推計では、日本の構造失業率は3%台半ばであり、14年年初には完全雇用に入っていたと考えられる。今の日本では、働く意思と能力があり、仕事内容を選ばなければ、ほとんどの人が職を見つけることが可能だ。安倍首相の支持率が高いのは当然だろう。
安倍首相も7月の参議院選挙で強調していた通り、現在の有効求人倍率は1990年代初頭のバブル期並みの水準まで上昇している。企業経営者にとって今や最大の問題は、需要不足ではなく、人手不足だ。成長率に触れさえしなければ、アベノミクスのおかげで、需給ギャップ改善が続き、実体経済は好調だと主張できる。
しかし、完全雇用に達しているにもかかわらず、なぜ賃金上昇が緩慢なままなのか。それがニューヨーク滞在中、次に多い質問だった。
これに関しては、いくつか理由がある。1つは、人手不足で正社員の採用が困難になっているため、高齢者や主婦など非正規の採用が増えていることだ。日本の公式な賃金統計はいずれも月給ベースであるが、月間の労働時間が短い労働者が増えているため、集計される月給ベースの平均賃金の伸びに下方圧力がかかりやすい。業界統計で時間給を確認すると、労働需給の逼迫を反映し、13年後半からパート・アルバイトの賃金は上昇率が加速している。
このように指摘すると、労働需給が逼迫すれば、良い人材を集めるため、企業側は好条件を労働者に提示せざるを得ず、その結果、非正規労働の比率は低下するのではないかとの疑問を持つ人は少なくないだろう。数年前までは、筆者もそう思っていた。だが実際には、少子高齢化で人手不足が強まると、短時間しか働くことができない人まで駆り出されることになり、マクロ経済全体で見ると、非正規雇用の比率は増えている。
現実に起こったことは以下のようなことである。12―14年に団塊世代が65歳の引退時期に達した。同時に14年初頭には、日本経済は完全雇用に入った。人手不足によって補充の正社員を見つけることが難しいため、企業は団塊世代に職場に残ることを要請した。すでに60歳になった段階で、嘱託に切り替わっていた人が少なくないが、65歳になった段階では本人の希望もあり労働時間は短縮された。
そのことで発生する労働力不足については、主婦などやはり労働時間の短い雇用によって補われた。この結果、近年、労働者数は増えているものの、総労働投入時間はほとんど増えていない。これは、実質国内総生産(GDP)がほとんど増えていないこととも整合的である。
<金融グローバリゼーションの弊害>
ただ、こうした状況を勘案しても、完全雇用の割には賃金上昇率はやはり緩慢だが、それはグローバルな現象だと言える。日本と同様、米国も完全雇用にあるが、やはり賃金上昇率は鈍い。それゆえ、インフレ率の上昇も遅れており、利上げは進んでいない。資本市場のプレッシャーによって、業績が改善しても、企業経営者が賃上げを渋っており、金融グローバリゼーションの弊害とも言える。
日本の時間当たり実質賃金を分析すると、2000年代以降、交易条件の悪化と労働分配率の低下が実質賃金の上昇を大きく抑えている。前者は原油価格の高騰によってもたらされたが、後者は金融グローバリゼーションによって、資本市場からの強いプレッシャーが日本企業の経営者にも働くようになり、業績が改善しても、以前のようには賃上げが容易ではなくなっているということだろう。多くの人が感じている通り、世知辛い世の中になっているのかもしれない。
ちなみに、ニューヨークを訪問する直前に、ワシントンで国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会に参加したが、そこで最も興味深かったのは、かつて新自由主義政策の総本山と見なされていたIMFが新自由主義的政策を強く批判するようになっていたことだ。もちろん、自由貿易の堅持は変わらないが、資本の自由化などの新自由主義的な政策は、所得格差を拡大し、社会を不安定化させ、潜在成長率を低下させると批判していた。
また、近年のIMFの対日審査では、儲かった企業に対し賃上げを要請する安倍政権の所得政策について、極めてポジティブな評価を下している。つまり、賃金やインフレが上昇しないのは、構造的な要因が大きく影響しており、金融政策のみで対応しようとすると、金融仲介機能を損なったり、資産バブルをもたらしたり、弊害が大きいということであるが、それが世界的な共通の理解となってきたのである。
<正社員の賃金上昇は限定的>
日本にはもう1つ、完全雇用に達しても賃金上昇を緩慢にさせる労働市場の特性がある。それは、正規・非正規の二重労働構造だ。残念ながら過去四半世紀の間に、日本の労働市場の新たな特質としてすっかり定着してしまった。終身雇用の待遇を受ける正社員は、労働需給が逼迫しても、職の安定性を求めて高い賃上げを必ずしも要求しない。
17年春闘では、円高による業績悪化や原油安によるインフレ低下を受け、ベアは0.1―0.2%にとどまるとみられる。このため、労働需給の逼迫を反映して上昇するのはもっぱら、非正規雇用の賃金や終身雇用制の色彩が薄い中小企業の従業員の賃金ばかりになると予想される。
労働需給が逼迫しているのなら、正社員が共謀し、高い賃上げ率を要求するのが合理的ではないかと海外の人は思うようだ。しかし、終身雇用の待遇を受けるのは、企業特殊的な人的資本を蓄積している人であり、そのノウハウは他の会社では必ずしも通用しない。このため、彼らは職の安定を求め、会社の存続確率が低下するような選択や、業績悪化で株主や銀行など外部のステークホルダーからの雇用リストラのプレッシャーが高まるような選択を望まない。
16年のベアが15年の0.6%から低下して0.3%になったのは、企業側がベアを渋る以前に、原油安によるインフレ率の低下を背景に実質賃金が改善するため、組合が先に遠慮したためだった。こうした様々な構造的要因が存在するため、完全雇用が続いても、日本の賃金上昇率は緩慢なのである。
また、アグレッシブな金融政策をもってしてもその壁を破ることが難しいと判断したからこそ、9月21日に日銀は政策の枠組みを大きく転換した。2%インフレの達成にはまだまだ距離があり、一方で政策ツールも無限に存在するわけではなく、副作用も目立ってきたため、無理をしてまで2%インフレ達成を急ぐ必要はないと総括したのではないか。
この点について、もう少し掘り下げよう。もともと、需給ギャップの改善だけで2%インフレを早期に達成するのは不可能であることは日銀には分かっていたはずである。そこで、黒田日銀総裁が考えたのは、金融市場の期待に働きかけ、円安に誘導し、インフレ期待を高めることだった。為替市場では比較的簡単にバブルが醸成されやすいことが知られていたため、円安バブルの醸成を狙ったのである。そして、当初はうまくいっていたように見えた。
しかし、大幅な円安にもかかわらず輸出数量が全く増えなかったため、国内生産も増えず、円安による輸入物価の上昇を吸収するほど、家計の所得は十分には増えなかった。賃金上昇が緩慢だったため、円安によるインフレ上昇は家計の実質購買力を損ない、多くの人が1ドル120円を超える円安に強い不満を覚えるようになった。
消費増税が行われた14年度だけでなく、15年度も消費が低迷したのは、増税の悪影響が長引いたからではなく、円安による輸入物価の上昇で食品価格などが上昇を続けたためというのが正しい説明だろう。2%インフレを急いでも、良いことはない。
賃上げ主導のインフレ上昇であれば話は別だが、安倍首相ももはや2%インフレの達成にこだわっていない。むしろ、今後も賃金上昇が緩慢であることを前提にするのなら2%インフレ達成は家計の実質購買力を低下させるだけで、支持率の低下につながる恐れがあるため、望んでいないと思われる。このことも日銀が9月にグラジュアリズム(漸進主義)戦略に回帰した政治的な背景だろう。
<財界人はなぜ安倍政権を突き上げないのか>
さて、安倍政権は2%成長と2%インフレを達成することで、社会保障制度改革や公的債務の膨張などの長期的問題を解決すると言っていたはずであり、その戦略が瓦解したのは明らかである。もし財界人が本当に長期的視点で考えるのなら、安倍首相を突き上げても不思議ではない。しかし、そのような気配は全くのところ感じられない。実は財界人にとってもまた、現状は極めて心地良い状況なのである。
日本の大企業経営者は、マクロ経済環境が良い場合でも悪い場合でも、業績の全ての結果に対し責任を問われる。それゆえ、循環的な景気のダウンサイド・リスクに対して極めて敏感で、完全雇用であっても、先行きが心配であれば直ちに補正予算を編成する安倍政権は極めて頼りになる。
英国民投票での欧州連合(EU)離脱選択(ブレグジット)後、震源地の英国を含め、先進国の中で追加財政を決定したのは日本だけである。歴代政権の中でも、これほど景気循環にきめ細かな配慮を示す政権は存在しなかった。それゆえ、財界からも安倍政権への支持は簡単には揺るがないのだ。
ここで重要な点は、かなり早い段階で(恐らく15年度中に)安倍政権は、金融政策の限界に気が付き、財政政策に軸足を移していたことである。そのことが、日銀の政策枠組みの二転三転にもつながった。景気刺激のための政策はあくまで追加財政で、金融政策の役割は大幅な円高が訪れた際の回避と政府が追加財政を行う際のファイナンスと割り切っていたのである。
多くの国では、潜在成長率の低下によって分配可能な所得は大きく縮小し、高齢化によって膨らむコストの分担問題は暗礁に乗り上げ、政権の支持率は大きく低下している。それに代わって勢力を伸ばしているのが、達成不可能な政策を国民に約束するポピュリスト政治家である。
米国でのトランプ旋風やブレグジットだけではない。大陸欧州では、政権奪取までは行っていないケースでも、極右勢力が今やアジェンダ・セッターとなっている。
2%成長や2%インフレといった非現実な政策を掲げ、日本も同じ運命をたどるのかと思われたが、少子高齢化による人手不足と事実上の日銀ファイナンスによる追加財政によって需給ギャップは改善が続き、高い支持率の下で政治も極めて安定している。
しかし、追加財政の効果の本質は、将来の所得の前倒しである。つまり、将来世代の所得を先食いする形で、足元の政治的な安定性が確保されているということだ。一方で、潜在成長率はゼロ近傍まで低下し、将来の税収で公的債務を解消することはますます難しくなっている。各国と手段が違うだけで、同根と言うべきだろうか。すぐにではないにせよ、いずれ限界は訪れる。
*河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフエコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第一生命経済研究所を経て、2000年より現職。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here
(編集:麻生祐司)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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