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群馬県内市町村別城館跡の目次へ
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年11月22日のブログ 鶉古城
所在地
 群馬県邑楽郡邑楽町鶉字東耕地
歴史、人物、伝承

茂木館
 「邑楽郡町村誌材料」によれば、元徳2年(1330)新田義貞の旗下であった茂木刑部介貞良(貞長とも)が館を構え、三代良忠のときに赤井氏に帰属して、姓を垣上と改め駿河守正信と称したが、長録3年(1459)その子の式部小輔正照のときに廃城となったという。しかし「太平記」などに茂木貞長の名は見られないとのことである。(「邑楽町誌上巻」より)
 なお同記述は、「邑楽郡誌」の中野村第11節名勝古蹟の古城跡にもみられ、その現況について「現状は山林田地にして、およそ一町五段歩あり、北は矢場川に接し、南部中央より東は里道にのぞみて孤形をなし、西は山形をなして構堀あり」と記されている。
 一方、「中世の邑楽町」では、「茂木氏遺書系図」「多々良沼浮島弁財天略記」「恩林寺由緒沿革書」を基に、鎌倉幕府得宗家に関わる人々が隠棲し土着して後年茂木氏を名乗った旨を記している。また別名を茂木館ともいう。

確認可能な遺構
 空堀、土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年11月22日 12時20分から12時40分
訪城の記録 記念撮影

 古城の面影を今に伝える鶉古城とは異なり、遺構は集落内の旧家の宅地境という状況です。加えて屋敷林と藪とが相俟って、延長約90mほどの堀跡(堀幅約3m弱)と土塁(一部)を覆い隠しておりました。とはいっても既に1970年代以前頃より、遺構が現存していたのは僅かに旧家宅地の西側側部分のみであった模様であるものと推定されます。
 然し現状でも長年空地となっていたという西側隣地の景観の変容は間近とも感じられることから、もはや時間の問題なのかも知れないようにも思われました。また、かつての堀跡と推定される外郭部は道路改修などにより、すっかり整地されて平坦な地形となっておりました。

( 2011/12/4 記述 )
鶉城
鶉城の遠景
( 2011年11月22日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「中世の邑楽町」(1977/細谷 清吉 著/中世の邑楽町刊行会)
「邑楽町誌上巻」(1983/邑楽町)

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「邑楽郡誌」(1917/群馬県邑楽郡教育会)

■その他
邑楽町公式HP

・2011/12/4 HPアップ
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