凸茂木館 「邑楽郡町村誌材料」によれば、元徳2年(1330)新田義貞の旗下であった茂木刑部介貞良(貞長とも)が館を構え、三代良忠のときに赤井氏に帰属して、姓を垣上と改め駿河守正信と称したが、長録3年(1459)その子の式部小輔正照のときに廃城となったという。しかし「太平記」などに茂木貞長の名は見られないとのことである。(「邑楽町誌上巻」より) なお同記述は、「邑楽郡誌」の中野村第11節名勝古蹟の古城跡にもみられ、その現況について「現状は山林田地にして、およそ一町五段歩あり、北は矢場川に接し、南部中央より東は里道にのぞみて孤形をなし、西は山形をなして構堀あり」と記されている。 一方、「中世の邑楽町」では、「茂木氏遺書系図」「多々良沼浮島弁財天略記」「恩林寺由緒沿革書」を基に、鎌倉幕府得宗家に関わる人々が隠棲し土着して後年茂木氏を名乗った旨を記している。また別名を茂木館ともいう。
古城の面影を今に伝える鶉古城とは異なり、遺構は集落内の旧家の宅地境という状況です。加えて屋敷林と藪とが相俟って、延長約90mほどの堀跡(堀幅約3m弱)と土塁(一部)を覆い隠しておりました。とはいっても既に1970年代以前頃より、遺構が現存していたのは僅かに旧家宅地の西側側部分のみであった模様であるものと推定されます。 然し現状でも長年空地となっていたという西側隣地の景観の変容は間近とも感じられることから、もはや時間の問題なのかも知れないようにも思われました。また、かつての堀跡と推定される外郭部は道路改修などにより、すっかり整地されて平坦な地形となっておりました。
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