みだれ髪 - midare-gami
髪がボッサボサになりつつも、マフラーにしまわれている様子。基本的には、髪がランダムに出たり入ったりしているしまい方を指すが、決まった型があるわけではなく、分類しづらいような特殊なしまい髪も、みだれ髪に含める、というのが協会の見解である。
みだれにはもちろん理由があり、やだ、寝坊しちゃった。急がなきゃ、最低限のお化粧だけして、朝ごはんは抜きで、えーと、荷物はこれでオーケーでしょ、とりあえず出よう!あー電車来てる!しょうがない、走ろっかな、やだなー、でも走ろー、的なストーリーを感じることが出来て、非常に味わい深いしまい方である。
そして、その急ぎが、焦りが、自然な無防備さというしまい髪の魅力につながっていくのである。そう、このしまい方は、愛でる側一人一人の想像力によって幾通りもの魅力を露わにするのだ。そういった意味で、一部のマニアには熱狂的に愛されているしまい方であり、みだれ髪以外はしまい髪として認めない、という過激派も存在する。
遭遇率も低くなく、見つけやすいしまい髪なので、初心者にもオススメしたい。
貞子スタイル - sadako-style
なにがどうして、こうなってしまったのだろうか。しまい髪業界内においては非常にコンセプチュアルな型であり、保守派からは全く受け入れられていない。
基本的なしまい方としては、前髪や横髪を前に流し、すかさずマフラーにしまう、という手順を踏むが、日常生活に全く適しておらず、まるで芸術作品のような佇まいには、しまい髪愛好者の中でも困惑の声が上がっている。
映画の中に出てくる貞子は、髪で顔が見えない分、想像力が恐怖を増すという特性があるが、このしまい髪には、ふざけているのか、アートなのか、ただ寒いのか、寝ていていたずらされたのか、それとも自然とこうなったのか、自由に、それぞれの物語を想像して楽しむことができる。
しまい髪に作品性を求めるか、自然のさりげなさを求めるかによって、評価が別れるが、作品性の追求があたらしいしまい髪の開拓につながることは、誰にも否定できない。今は、その先鋭的な造形のため、街中で見かけることはまずないだろう。しかし、いつか自然なスタイルとして受け入れられるのかもしれない。およそこの世界に存在する全ての文化は、そうやって大衆化してきたのだから。
スクリュードライバー - screw driver
髪がマフラーにスクリュー状に巻き込まれた様子。マフラーを巻く手に力がこもってしまったのであろう。それくらい寒いか、急いでいたのか、あまり丁寧にマフラーを巻くシチュエーションではなかったと思われる。
マフラーと髪の間のアーチは見られず、アーチ部分にこだわりを持つしまい髪右派からは評価を受けない型であるが、花蕾やコートしまい髪などのストレートにしまわれる髪に感じるものがある愛好者には魅力が分かるであろう。
右巻きと左巻きがあるが、統計では右巻きの方が圧倒的に多い。これは、右利きの人間がマフラーを右巻きにするからと考えられている。よくよく見ると、和服に髪をまとめ上げている女将のようにも見え、その線が好きな者にも、新たな愛で方を提案している事が興味深い。
しまい髪急進左派内での評価は高く、しまい髪の概念を広げる存在として期待が高まっている。急ぎ足の女性が多い街、東京で言うと、新宿、恵比寿、品川などで見られることがある。本人としては一部の隙も見せていないつもりが、無防備さの固まりが後頭部付近に存在しており、このギャップに、しまい髪愛好者は頬が緩んでしまうのだ。
ヘビ女 - hebi-onna
しまわれたはずの毛先がマフラー下部よりはみ出している様子が、まるでヘビのようであることから名付けられた。さらに、このようなはみだし方は、はっきり言って邪道であり、マフラーしまい髪の精神に反するのではないか、という疑問も込めて、このような若干悪意あるネーミングとなった。
しまい髪の精神とは何か。それは言うまでもなく、無防備で自然な愛らしさである。故意にしまってはいけないのだ。作為的なしまい髪は、ただあざといだけで、胸を打つものがない。まるで台本通りの芝居を見せられている気分になる。ああ、くさくさする。
しかし、ここで難しいのは、わざとかな?知らんとかな?どっちかな?程度のあざとさは、逆にしまい髪の魅力を高めてくれる事例もある、ということだ。これについては、まだまだ研究の余地がある。
とはいえこのヘビ女。マフラー下部に視線を集めるという点において、しまい髪の中でもかなり特殊な愛で方を要求する変種であり、研究対象としては興味深いものがある。決して純粋種ではないが、目が離せないという意味では、他のしまい髪に負けずとも劣らないのである。
はみだしまい - hamidashimai
その名の通り、しまわれた髪がマフラー下部よりダイナミックにはみだしている様子。しまい髪の造形的な良さである、マフラーに向かう髪のアーチや、毛先が見えないことによる想像力の発露は全く発生し得ず、ただそこにあるままを見てくださいと言わんばかりの投げやりなものも感じてしまう。
そのあまりに幼い態度に、しまい髪研究者としての触手が伸びないことについては、どうかご容赦いただきたい。研究者も人間である。好き嫌いによって大きくモチベーションは上下するのだ。
しまった途端にはみだして、なんかもうがっかりしてしまう。何のためにしまったのか、小一時間ほど問い詰めたい。一言で言うとだらしないのだ。親だったら叱責しているだろう。こらこら、そんなはみだしまいはやめて、花蕾、またはコートしまい髪にでもしなさい。やだ!パパったら古いんだから。今はコレが流行ってるの。学校でもみんなはみだしよ。何を言っている、周りに流されちゃいかん。パパはそんなしまい髪認めないぞ。的な想像をしてしまう。そんなしまい髪である。
天使の忘れもの - tenshi-no-wasuremono
髪をマフラーにしまうつもりなんてなかった。だって、髪が静電気でまとまらないし。そんな女の子が、ついうっかり一束の髪をしまっている状態、それが、天使の忘れものである。
無防備さ、無意識感、自然な愛らしさ、精神的にはどれをとっても一級品のしまい方であり、天使の名に相応しいと言える。惜しいのは、造形的にしまい髪の美しさをあまり味わえないことである。だがそれがいい、などと強がる猛者もいるが、かなり渋い好みである。街中ですれ違っても、ほぼ気がつかないであろう。じっと見過ぎて、怪しまれる恐れもあるため、節度をもって観察したい。
しまい髪の中では最右翼に位置する無防備さ故に、意識的にしまい髪を使いこなすしまい髪左派からは疎まれている可能性が高いことも申し添えておこう。
しかしながら、しまい髪を愛でていない人でないと気がつかない、冷凍都市における一握りの奇跡に、神の存在を意識せずにはいられない。これもまた立派なしまい髪であることを、ここに高らかと宣言する。しまい神よ、ありがとう。
コートしまい髪 - coat-shimai-gami
「マフラーがないなら、コートにしまえばいいじゃない。」と誰かが言った。その名の通り、コートの襟部分に髪がしまわれた状態を指す、特殊なしまい髪である。
髪をほどいた瞬間の女子にドキッとするあの感覚を反転させたような、驚きのあるしまい方であり、いい意味での違和感を感じることができる。髪の毛先が見えないことによって想像力が刺激され、物語が生まれる。
余談だが、衣服のカタログなどに登場する「トレンチコートを着て振り返り気味の角度でこちらを見て笑顔の外人女性」の大半が、髪をコートにしまっている。これはトレンチの売りである襟をよく見せる意図であると思われるが、むしろしまい髪に注目してしまう。
マフラーにしまわれていない限りマフラーしまい髪ではない。と主張するしまい髪右派も存在するが、この場合のマフラーとは、しまい髪を存在せしめるための媒介であり、言わば概念上の言葉である。大切なのは髪がしまわれていく過程と無防備さであることをゆめゆめ忘れないでいただきたい。
比較的街中での遭遇率は高く、フードしまい髪、ダウンしまい髪など派生系も多く見られる。各々探してみて欲しい。