「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉の裏に潜む真意を問う
下に引用するような意見をたびたび見かけるのですが、私は以前からずっと違和感を抱いてきました。
「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」と言っているオタク、自分は自分の性欲や理性すらコントロール出来ない猿であると自己紹介している
— Pleiades (@pleiades_101010) 2016, 1月 9
このツイートを見ていると、「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉が極めて皮相的に読み取られているように感じられてなりません。
「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉が、どのような苦悩や葛藤、社会通念から出てきたものなのか、一度真剣に掘り下げる必要があるでしょう。
まず最初に、上に引用したツイートに対して私が感じた印象を述べておきます。
「……この方は、自分が性犯罪加害者になる可能性を考えたことがあるのだろうか」
言うまでもなく、性犯罪者は断固として処罰されるべきです。ですが一方で、「自分だって歯車が一つ狂うだけで性犯罪者になっていたかもしれない」という可能性は誰であっても否定できないでしょう。性犯罪について本気で考えていくと、「自分にも性犯罪を犯す可能性がゼロではない」という厳然たる事実に直面するはずです。
「小児性愛者は自分の内に潜む加害可能性に対して罪悪感を抱くべき」という主張、まったく同じ論理で全ての男性も罪悪感を抱くべきだし、なんなら女性でもその論理からは逃れられない。実際、僕はその罪悪感に耐えられる気がしなくて二次専に流れていった部分がある(ロリコンではないけれど)。
— 皆藤禎夫 (@sadao_hok_kaido) 2016, 1月 7
(女性であっても性加害者になる可能性がある、という点に違和感を抱く方もいらっしゃるかもしれません。ですが実際に、海外では女性がセクハラ加害者となっている事件が多々起きています。)
とはいえ、自身の性加害可能性に追いつめられる人というのは、おそらく男性が大半でしょう。その理由は、男性の性欲や性行動に対する無根拠な思い込み=「神話」が蔓延しているからです。
具体的には、「男性の性欲は本能的・衝動的なものであり、制御が難しい」というような思い込みです(坂爪真吾『男子の貞操――僕らの性は、僕らが語る』p.58)。そして坂爪氏も指摘するように、このような「神話」は現在でも人々の頭の中に根強く残っています。
なぜこのような「神話」がなくならないのか。理由は多々考えられますが、一つには「自分の思考や行動は自分にも完全には理解し切れないし、突き詰めていくと自分自身ですら信用し切れない」という根源的な難問が挙げられるでしょう。
私は決して、現代人は自分の言動や思考を信用できなくなるほどに自信喪失している、ということを言いたいわけではありません。そうではなく、「主体性」というものを論理的に追求すればするほど、「主体性」が幻想としか考えられなくなる、というある種の哲学的難問のことを指摘したいのです。
人間は、自分自身について掘り下げるにつれて、「自分」というものこそブラックボックスなのだということを意識せざるを得ないのです。
自分の性のあり方がどのようなものなのか、究極的には確信することができないのです(もっとも、これは性に限った話ではありませんが)。
とはいえ、仮に "男性の性欲は衝動的でケダモノのようなものだ" という「神話」がなくなったとしても、「自分も歯車が一つ狂えば性犯罪者になる、という可能性」を完全に否定することはできません。加害可能性について真剣に考えれば考えるほど、自分自身への恐怖や怒りは止めどなく湧いてきます。
そのときの不安や絶望から逃れられる数少ない場所が、二次元なのです。
あと「性犯罪者は断固として処罰されるべきだが、自分だって一つ歯車が狂うだけで性犯罪者になるという可能性が否定できない。どうすればいいんだ」という苦悩を煮詰めた結果として「実在女性に欲情しちゃダメだ」に辿り着く男子中学生(当時の僕です)もいるんですが、それはどう扱われるんですかね…
— 皆藤禎夫 (@sadao_hok_kaido) 2015, 11月 21
ある面において、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉は、自分の加害可能性に対する恐怖や絶望から命からがら逃れてきた人間の叫びだと言うことができるでしょう(もちろん、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」と言う人がすべての人がこのような思考をしているとは言いませんが)。
というわけで、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉を皮相的に捉えて揶揄する方々こそ、むしろ三次元性愛の加害性に対して無頓着すぎる気がします。
私としては、三次元性愛=セックス実践文化が持つ暴力性や排他性をこそ問題にするべきだと考えています。
下に引用する記事でも何度か述べてきましたが、二次元に対する批判と言うのは、はっきり言って大半が三次元性愛側の責任転嫁なのです。
オタクが性犯罪を犯したとき、決まって「二次元が悪い」という罵声が上がります。
(中略)
このときの論点は、「二次元も三次元も好きな人間が、三次元に手を出した」というところにあります。なので本来なら、後者の三次元性愛にこそ非難の矛先が向けられるべきなのです(たとえば、「実在する人間に欲情するクソブタが!」という具合に)。にもかかわらず、実際には「二次元が悪い」という非論理的な暴言が出てきます。
性行為と生身の身体が密接不可分に結びついてしまっているからこそ、性行為が身体を傷つけ、そして身体を経由して精神を傷つけるのです。そのような状況があるからこそ、「女体は性的に使用するものだ」という言説がプロパガンダとしての機能を持ちうるのです。
セックスが身体を交わして他者と「する」ものだとみなされている、そのような社会・文化でしか、二次元表現は問題化しないのです。
二次元への批判や規制論は、単純な「表現の自由」の問題ではありません。
三次元性愛という文化が、自身の問題を棚上げにしてスケープゴートを叩いている、という多数派の傲慢・暴虐こそが問題なのです。
最後に、ある方のツイートを引用して結びとさせていただきます。
萌え絵だとか二次元の性的なフィクションを性差別だとか性的消費とか言ってる人は、現実の恋愛・性行為文化(性の対象=現実の人間イデオロギー)がどれだけ性差別的な規範や慣習を生み出し、セクハラや重度の性暴力の温床になっているかを考えるべきだと思う。
— まつもむし (@matsmomushi) 2016, 1月 8
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