現役が終わってずいぶん語り口が柔らかくなったと思う。
そのおかげもあって、厳しい話も聞かせてもらった。
2008年12月6日、J1リーグ最終節で福西崇史の所属する東京Vはホームに川崎Fを迎えた。
試合前の状況では、東京Vは16位。このままの順位ならばJ2との入れ替え戦進出となる。
そしてもし17位に落ちれば自動降格だ。
そんな大切な試合の26分、川崎FのCKとなった。
ボールがこぼれて福西の前に転がる。
クリアしようとする福西に寺田周平がチャージした。
福西の右足はボールをペナルティエリアから蹴り出す。
だが同時に伸ばした左手が寺田の腹を打っていた。
岡田正義主審は目の前でプレーを見ていた。
そしてためらわず笛を吹き
ペナルティスポットを指さした。
それとともに福西には赤いカードが掲げられた。
これが福西の現役最後のプレーとなってしまった。
だが、はたして本当にそれでよかったのか。
疑いなく、福西は現役時代、激しいプレーヤーだった。
だからといって、このプレーが福西を象徴する場面になるのは寂しすぎる。
激高して退場したこともある。
そして、いざとなれば手段を選ばないで相手を止める覚悟も持っていた。
だからこそ心配になる部分があった。
味方を救うためにプレーしても味方は理解してくれただろうか。
話を聞かせてもらいわかったのは、
福西はすべてを受け入れながらプレーしていたということ。
そして強気に見える表情の奥に、
プレーするため、もがき続けた姿があったことだった。
話の途中で茶目っ気もずいぶん見せてくれた。
解説の仕事をしたことでコミュニケーション能力が上がったという。
現役時代のことを聞くと「あのとき話を聞きに来ましたよね」と記憶力もいい。
元よりしっかりとした考えは持っている。
コーチングライセンスも取得した。
きっとすぐピッチに戻ってきてくれることだろう。
クールで熱い指導を見せてくれるのは間違いない。
願わくば監督になっても「やんちゃ」でいてほしいものだ。
最初はジュビロの練習についていけなかった
僕の現役時代に一番メンタルで苦しかったのはケガのときですね。一番最初に大きなケガ。プレーできないことなったのが一番辛かった。自分の心の持って行き方というか。1997年、プロになって3年目ですね。ちょこちょこと試合には出てるんですけど。途中出場とかばっかりでした。
最初に足首やっちゃったんです。右の足首。それの復帰間際に、今度は内側靱帯やっちゃって。クリアしようと思ったところをブロックしに行って伸ばしたんです。長い間ボールが蹴られないという苦しさがありました。
内側靱帯はそんなにひどくなかったんですけど、オペしたから3カ月ぐらいかかりました。オペしたことでちょっと長くなったのもあるし。そこが苦しかった……かな。
あとは磐田に入った最初じゃないですか。磐田に入ったとき、入った瞬間、入る前から。練習についていけないんです。ボール回しでも、自分が入れば止まるし、ミスするし。流れってあるじゃないですか。それが自分のところで止まる。
技術がないというのはやっぱりありましたし、それにあの黄金時代の磐田ですからね。サテライトでも出られなかったし。そこが自分の一番最初の経験だった。それを乗り越えられない限りプロで残れないというのがありましたから、苦しかったですね。そして自分は練習についていけなかったというのが、それから先の僕の考え方のベースになりました。だったらどうするかって。
現役最後の試合で退場……そうなるとは思っていなかった
自分が激しいプレーをしてきたから、審判から目を付けられてとか、そういう目で見られるというのはわかってました。でも、それはそういうプレーをしてきた自分が悪いので。そしてそういう印象が積み重なったものだというのが自分で考えはしました。
チームのためにプレーしても、激しいプレーって「好感度」落ちますよね。現役時代最後の試合も退場になりましたけど、起きてしまったことだし、それまでの自分の積み重なった、自分のサッカー人生がこうだったというか。そういう風にも思えました。
東京VがJ2に落ちたということが申し訳なかったですね。契約延長がないのは決まっていたんですけど、今考えても退場よりも、ヴェルディをJ2に落としてしまったという責任のほうが大きく重かったですね……。
あのときは引退することを決めてなかったから、自分の最後の試合になるとは思ってなかったんです。結果としてはあれが現役最後の試合になった。今になったら笑い話にされてますよ。退場して引退したのは、僕とジネディーヌ・ジダンだって。
ただ、自分のプレーが激し過ぎるって試合前から言われたときは、へこんでいましたね。クラブ関係者が試合前に言ってきたことがあるんです。「抑えていけよ」、みたいな。
オレ、短気ではありますけど、冷静でもあるんです。客観的には見られるというか、この場面ではどうプレーしなきゃいけないかとかも考えてます。確かにやられた瞬間はカッとなってるから、報復行為で退場することもありましたけど。でも試合前に言われたときは「あぁ、そう思ってるんだ」って。
汚れ役って僕は必要だと思います。味方が助かるときもありますし。もちろん退場したら味方は困るので、そこはいつも謝ってました。それでも、退場になるリスクを冒してでも止めに行かなければいけない時もあるんですよ。
僕は中村俊輔みたいに、ゲームをコントロールするタイプじゃないから、違うところに自分の役割があると思ってたんで。危ないところを止めるのは自分のやるべきことの一つだったと思って。
でも、そう思ってプレーしても周りから理解されないときはありました。そしてそういうときの自分のプレーがチームのためになっていたかというと、そうじゃなかった。だから、そういうときはプレースタイルを変えていかなければいけなかったし。
そして僕は代表ではそんな厳しいプレーをやってないんです。そのときの状況で、役割っていうのは変わって、周りの選手でも変わる。代表ではやる必要がなかった。そこは自分でも合わせていかなきゃいけないなと思ってすぐスタイルを変えました。そういうところは客観的に見られていたと思いますね。
「自分の持ち味は何か」を考え生きる道を探した
2002年日韓ワールドカップでは第2戦のロシア戦に出て、2006年ドイツワールドカップにも出ることができました。ジーコ監督だったから使ってくれたんでしょう。僕のどこをジーコ監督が評価してくれたか、本当のところは監督本人に聞かなきゃわかんないですけど、僕はドゥンガに育てられたし、ブラジル人の気質の下で育ったんで、それが気に入ってくれたのかもしれないですね。それから役割としてジーコ監督のサッカーにハマったのか、そこのあたりでしょう。テクニックからしたらみんなのほうがうまいし。
僕は相手を抜くタイプの選手じゃないので、だったら相手からボールを奪う技を磨かなきゃいけない。スペースを埋めたり、バランスを取ったりするのが代表では必要な役割だと思ってやってました。磐田ではそういうプレーをしてなかったんです。磐田ではスペースを埋めるようなやり方が必要じゃなかったというか、他の選手のほうがうまかった。
僕は監督が言うことと、自分のプレーを踏まえて、いつもどういうプレーをするか考えていました。大きくは変えられないですけどね。微調整というか。でもFWとして磐田に入団して、そこからボランチになったんで、そりゃ考えましたよ。
だから僕は磐田に入った一番最初が一番辛いというか大変というか。でも、それがあったんで、自分でいろいろ考えられるようになって、人がどう言おうが気にしなくてすんだ。……気にしないことはないか。監督から言われたことはちゃんとやらなきゃいけないし。ヤンツーさん(柳下正明:1996年、1999年~2002年はコーチ、2003年監督)からは、「行くのはいいけど戻れ」って必ず言われて、必ず怒られてました。
ヤンツーさんの他にも鈴木政一監督(2000年10月~2002年、2004年9月~11月)や、もちろん山本昌邦監督(2004年11月~2006年6月)もそうだし。いろいろな監督から言われる、求められているものをやりつつ、「自分の持ち味は何か」って考えながら、やっていたんで。
どちらかというと、そういう生きる道を探したという感じです。だってエリートじゃないですからね。自分で言うのも何ですけど、努力したからこそ伸びた部分もあるでしょう。プロに入ってサッカーを知って、そこからテクニックはうまくならないし、今でもリフティングは小学生に負けるし。
それは恥ずかしいけれども、負けを認めるしかない。だから、技術はもちろん伸ばしますし努力はしますけど、それ以上にみんなにないものを、生きるために必要なものを考えていました。そして、それを突き詰めたから代表に入れたんだと思います。今、そういう道を行ってる人が少ないと思いますけど。
ヒデとの言い合いは「普通のこと」
あとは指導者だって、「こうやれ」って言ってきますからね。それは、もちろんやらなきゃいけない。僕もフィリップ・トルシエ監督から「走れ」って言われたから、そりゃ走りましたよね。走り回ったせいで体力がなくなって、何もうまくできなかったけど。
それでも、トルシエ監督の考えにはベースに「走れ」っていうのがあったので走りました。そういうときは自分の持ち味を消してまでも走らなきゃいけないんです。そして走りながらでも、何か自分の持ち味を出せることがないかって考えました。
僕がサッカーを知ったのはプロに入ってからだったので、クセもなかっただろうし。それに環境というか、指導者もそうだし、ドゥンガ、名波浩さん、服部年宏さん、中山雅史さんとか、そういう周りが自分にとって素晴らしかったんですよね。
僕はエリートじゃないから素直に吸収できたんでしょう。もともとヘタクソだったし、性格もあると思いますけど。あ、反発はしましたけどね。言わなくてもいいことを言いましたし。それはもう、性格です(笑)。
意見を言うので話題になったのは、2006年ドイツワールドカップの前に、ヒデ(中田英寿)と言い合いになったって報道された件ですか。あれは普通のことだと思いますよ。ヒデは取材受けないから、みんな俺のところに来たじゃないですか。
あれは「ケンカ」か「話し合い」かというと、僕は「話し合い」だと思うんですけどね。そうやることが正解か不正解かわからないですけど、ジーコ監督も巻き込んで話をしたとういう感じです。
チームを作るためとか、勝つためというのがベースにあったし、僕1人で勝たせることができるのであれば、自分だけでずっと黙々とやったかもしれないけど、自分はそういうタイプでもない。やっぱり周りの選手との関係というのは、僕が生きるためにも大事なことなので、そういう話をしました。
見え方としてはヒデが浮いちゃったように見えたかもしれないけど、僕たちは仲が悪いわけじゃないし、アイツの考え方だってわかるし。感情的な対立なんてないんです。
どちらかが正解だったか、なんてないんですよ。選手として結果を出さないと。話し合いをしてよかったかどうかは結果なんで。結果が出なかったというのはプロとして大変なことだと思います。何を言おうが言い訳だし。結果を出せなかった僕たちが悪い。
ただ、それを次に生かしてほしいと思っています。反省点というか、失敗は失敗として次の世代に知ってほしいし、2006年のやり方の反省点を次に生かして続けてほしいと思いますね。
指導者として「プロフェッショナルを育てていきたい」
日本のサッカーを盛り上げるためにも、伝える側としてサッカーに興味が持ってもらえるような伝え方をしなきゃいけないと思ってます。そしてやっぱり、できれば自分らしさを出したいと思って続けてます。
解説の仕事をしてよかったと思ってます。解説は言葉が難しいですね。自分でプレーするサッカーはイメージできるんですけど、それを言葉にしてイメージしてもらえるかというと、そこが難しいですね。
キャラ的には、もうちょっとハードでもいいかと思うのですが(笑)、そこは考えないといけない。だから聞くのは副音声が好きなんです。内輪で言える解説っていいなって。
それにS級コーチライセンスも取ったので、指導のほうで何かしらの自分の経験なり、やってきたことが生かされればいいとも思ってます。プロフェッショナルを育てていきたいですね。失敗するかもしれないし、本当に監督があってるかどうかもまだわからないですけどね。
うどんが好きで香川に行ったときは、2日で5食食べた
僕は食べるのは好きです。おいしいモノは全部好き(笑)。いいところから場末まで、おいしいという評判があれば行きますね。冒険して行ってみて失敗したという経験もあります。
その中でもやっぱり「うどん」ですかね。うどん大好きで、毎日でも食べられますよ。香川に行ったときは、2日で5食食べました。食べ方はぶっかけです。かけうどん。シンプルなのをまず食べる。コシが強いから讃岐の麺が好きですね。
だけど、稲庭もほうとうも食べますし、サッカーの仕事で各地に行かせてもらったんで、いろんなところの名物のうどんを食べさせてもらってますけど、それぞれうまさがあってどれも好きです。
まぁ讃岐が僕の中では一番かな。安くてうまい。香川に行ったら窯の中にうどんが茹でてあって、セルフで丼持ってひと玉100円とか、天ぷら100円なんて入れて食べる店があります。僕は出汁だけで食べますけど、100円でも200円でもうまいところがあるんです。故郷の愛媛でもうどん屋は多かったですし。家の中に冷凍うどんが必ずありました。今でもありますよ。
関東に来た時は、醤油ベースの汁なので最初は食べられなかったんですよ。でも、今は慣れて、これはこれという食べ物だと思っておいしく食べてます。稲庭だと細くて、だからさっぱりとした出汁が合うとか、そういうのもわかりましたし。
うどんのことだったら、時間をもらえれば、もっともっと語りますよ。サッカーよりも長くなるかも。36回連載でやりましょうか(笑)。
福西崇史 プロフィール
新居浜工業高校を卒業後、1995年にジュビロ磐田へ入団。プロの壁にぶち当たるも、ボランチ転向以降、頭角を現しレギュラーポジションを掴む。ジュビロ黄金時代を支えた。
1999年からは日本代表にも招集され、W杯は日韓大会、ドイツ大会の2大会に出場。
2008年に現役を引退。現在はサッカー解説者として活躍している。
1976年生まれ、愛媛県出身。
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。