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♪ひとり 〜ショートバージョン
須釜俊一のウェブページ

       
      
旅行記 ・幸島を訪ねて − 宮崎県串間市  2012.10
幸島
石波海岸とその100〜200m沖に浮かぶ幸島
幸島(こうじま) 天然記念物“幸島サル”の生息地として知られる幸島(こうじま)は、宮崎市から車で南へ 90〜100分。宮崎県南端部に位置する串間市市木(いちき)地区にあります。石波海岸と幅 100〜200mほどの狭い海峡を挟んで日向灘に面する、周囲3.5km、面積32ha、標高113mほどの小さな無人島です。 地図で場所を確認する
石波海岸に建てられた『百匹目の猿現象発祥の地』の石碑
この島は、日本の霊長類学研究の黎明期をリードした島で、今西錦司京都大学教授が主宰する同大学の京都大学霊長類研究グループが、1952年(昭和27年)に世界で初めて野生猿の餌付けを行い、翌1953年に子ザルが芋を海水で洗って食べる『芋洗い行動』が発見されます。
常時渡し船が待機していますが、予約を入れておく方が良いです。
渡し船 幸島へは渡し舟を使って渡ります。天気が良い日でも波が高いと渡し船は運航されないことがありますから、前日の夕方に予約を入れる方が良いでしょう(登尾幸島渡船へ電話で予約)。所要時間は片道5分。料金は往復1,000円(大人)ですが、2名以下の場合は割勘で(1名の場合はひとりで)3,000円を負担します。
幸島のオオドマリ湾に向けて出発。5分で着きます。
洗う文化 1953年に一匹のメスの子ザル(このサルは”イモ”と命名されました)が芋洗いを始めると、芋洗い行動は群れに広がって文化として根付いて行き、『人類以外の動物も文化を持つ』と発表されると、世界に衝撃を与え、幸島は一躍世界的に有名になりました。
オオドマリ湾の岩場に到着した渡し船
芋洗いが始まってから3年ほどたった1965年には、最初に芋洗いを始めたイモが、今度は、砂の上にまかれた麦を砂と一緒につかんで、流れのことろに持っていって投げ込み、水の中から麦だけ拾い上げて食べるという”砂金採取法”を始めました。この便利な方法も若いサル仲間たちの間に広まっていきました。
このサルの背後の岩を伝って砂浜まで行きます。
スイカの皮やさつま芋をもらったサルたちが、ひとかじりしては海水につけ、またかじっては海水につける、”味付け行為が見られるようになりました。サルたちは、芋を洗って食べているうちに、海水で洗うと塩味がついて美味しいということに気づきたのです。
岩の上に寝転ぶサル。悪さはしません。
また、”二足歩行”も見られました。欲張りにも三個のさつま芋をもらい、それぞれ両手と口にひとつづ持って去ろうとしますが四つんばいになれません。そこで、二本足で立ったまま小走りに海辺まで歩いていったのです。三戸サツヱ・著『幸島のサル』(鉱脈社、1996年10月発行)の中で写真を見ることができます。
振り返ると・・・、渡し船が引き返していきます。
受難の時代を経て 国の調査が入って、サルの住む幸島をサルとともに天然記念物に指定し、国で保護することになったのは1934年(昭和9年)のことでしたが、それは、小中学校の教職の傍ら半世紀にわたって幸島のサルの調査、研究、保護に尽力してきた三戸サツヱさんの父(冠地藤一氏)と幸島のサルとの出会いから始まりました。
毛づくろい。一匹のサルの視線がカメラを捕らえています。
1931年(昭和6年)の暮、事業に失敗した三戸さんの父は、家も土地もなくして、広島から宮崎市にやってき、さらに南へ下って幸島のある市木にたどり着きました。60歳の年でした。ある日、幸島に貝を取りに行った三戸さんの父は、サルの群れが楽しそうに遊んでいるのに出会います。
オオドマルの浜に集うサルたち
死んだ赤ちゃんを抱いたお母さんザルや、やせこけた子ザルもいて、『これはかわいそうだ、なんとかしてやらなければ』と思って、役場にかけ合いに行きますが、相手にしてもらえませんでした。そこで、文部省にサルの様子を詳しく書いた手紙を送りました。それがきっかけになって幸島に国の調査が入ったのでした。
外人女性が調査に来ていました。
太平洋戦争が終った戦後の混乱期に、三戸サツヱさんが満州(現中国東北部)の大連から日本に引揚げて、市木の父の家に身を寄せてきました。そこに、京都大学霊長類研究グループの今西錦司教授が二人の学生を連れてやってきました。1948年(昭和23年)の12月のことでした。
オオドマルの浜に集うサルたち
幸島から南へ約20kmのところにある都井岬(といのみさき)の野生馬の調査がひととおり終わって、市木まで足をのばしたのでした。こうして、幸島のサルの研究が始まりました。ところが1949年(昭和24年)の暮、思いもしなかった不幸が幸島のサルたちに降りかかってきました。その頃、宮崎には進駐軍が進駐していました。
片手が不自由なサルがいました(右端のサル)
進駐軍の司令官にサルをプレゼントしておべっかいを使おうという人たちが現れ、幸島のサル狩りが始まったのでした。サル狩りは翌年の正月まで20日間余りも続き、1950年5月、今西教授が再び幸島にやってきときには、この島にサルが生き残っているのだろうかと疑うほどサルの姿を見ることができない状態でした。
湧き水の浅い流れで水を飲むサル
サルたちは、サル狩りの猟師に追われて人間を避けるようになっていたのでした。しかし、研究者たちの辛抱強い努力が実って、1951年8月には山にまいた餌をサルたちが食べ始めているのが確認され、1952年6月には浜に姿を見せるようになり、餌付けが完成しました。
幸島のサル
幸島のサル
幸島のサル
幸島のサル
相撲を取って遊ぶ子ザル
現在の幸島 現在、幸島には100数匹の猿が暮らしています。人間が餌を与えると、猿の頭数が増えて生態系のバランスが崩れてしまうので、現在では客寄せのための餌付けはもちろん、研究者が週に3回サルたちの生息状況調査のためムギをまいて呼び寄せている以外に餌付けは行われていません。
オオドマリ湾。10時を過ぎてサルたちは山へ姿を消して行きました。
霊長類学研究者の関心も今はアフリカや南米に向き、幸島を訪れるのは観光客がほとんどという状況になっています。幸島のサルたちは、文字通り”幸せの島”(Happy Island)という恵まれた自然の実りのなかで、自活による自然な暮らしを満喫しています。観光客も餌を与えることは禁止されています。
京都大学野生動物研究センター幸島観察所(『幸島入口』バス停近くあります)
ですから、餌をねだろうと人間に悪さをしたり、ちょっかいを出したりすることもなく幸島のサルは穏やかです。不用意に近づいたり触ったりしない(そして、サルと目を合わさない)限り、サルとのトラブルをほとんどなく、静かな浜辺でゆっくりとサルと過ごすことができます。
季刊誌『こうしま』(1992年4月初版、幸島ドライブインで撮影)
  三戸サツヱ(みと・さつえ)
1914年(大正3年)、広島県佐伯郡観音村(現広島市)生まれ。地元の安田高等女学校などを経て、結婚後、日本統治下にあった朝鮮半島に渡って、満州(現中国東北部)大連で小学校教諭として勤務。敗戦によって引き揚げ後、両親の住む宮崎県串間市市木に移り、小中学校の教師を務める傍ら、日本の霊長類学をリードした京大の今西錦司名誉教授(故人)らと一緒にニホンザルの餌付けや観察に取り組んだ。1953年、子ザルが芋を海水で洗って食べる『芋洗い行動』を発見。1匹が始めた行動は群れに広がって文化として根付いて行き、『人類以外の動物も文化を持つ』と発表されると、世界に衝撃を与え、幸島を世界的に有名にした。その後、京大霊長類研究所の研究員、京大非常勤講師として島の対岸にある観察施設(現・京大野生動物研究センター付属幸島観察所)を拠点に半世紀以上、研究を続けた。サンケイ児童文学賞(1972年)、吉川英治文化賞(1974年)、西日本文化賞(同)など受賞。2012年4月7日、老衰のため死去。97歳だった。 

季刊誌『こうしま』
季刊誌『こうしま 幸島HAPPY ISLAND』は、幸島のサルたちを多くの人に知ってもらおうと、三戸サツヱさん(当時77歳)によって発刊された季刊誌。初刊は1992年4月。売り上げは自然保護活動の資金とされた。左の写真は季刊誌『こうしま』を手にした三戸サツヱさん。
77歳当時の三戸サツエさん
(季刊誌『こうしま』を接写)
 
   
国道448号線も串間市市木地区では狭くなります。
石波海岸 見事な孤を描いて全長約2キロにも及ぶ石波海岸は『日本の渚百選』にも選ばれている美しい砂浜です。その海岸に沿って鬱蒼と広がる亜熱帯樹林は、イソヤマアオキ、ハカマカズラ、タチバナなど、250種を超える亜熱帯性植物群によって構成されているといわれます。
全長約2キロにも及ぶ石波海岸。左に浮かぶ島が幸島
【参考図書】
本ページの説明文は、三戸サツヱ・著『幸島のサル』(鉱脈社、1996年発行)を参考にして書きました。
 レポート ・百匹目の猿現象
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