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わたしたちは人形じゃない 新田絹子さんの手記

新田絹子 朝日ジャーナル 1972.11.17



 わたしは くやしくてならない・・・・・・美濃部都知事が こんなにも不誠実だとは・・・この裏切られた期待は 余りにも大きい・・・・・・。
 九月十八日、わたしたちは 第一本庁前にテントをたて 座り込んだ。なぜこうまでせざるをえなかったのか。わたしたちは なにもすきこのんでこのような行動をとったわけじゃない。都 国の 福祉行政 障害者対策が 当事者の身障者の意見を抜きにしたところで行われていて 余りにも 欺瞞的であったからだ。
 そのひとつが いま わたしたちが闘っている「移転反対」に 明らかになっている。わたしたちは 昨年の六月ごろ わたしたちがいまはいっている府中療育センターから 他の施設へ移されるということを耳にしたので 都へ資料など調べに行ったが 「そんなはなしはありません」といわれた。しかし 日がたつにつれ 移転の話は濃くなってきた。そして その年の九月 その施設が建てられるという場所をみつけ出し すぐ現場へ出かけた。都心から 約三時間 やっとの思いでその場所にたどりついた。

税金で生きているくせに

 そこへ行くには坂道で すごいでこぼこ道。雨上がりなので 泥沼のよう。そこを車の振動激しくぬって行くと うっそうとした林ばかり・・・・・・なおそこを走っていくと 山の上に出てしまった。そこは ひとつの山を切りくずし そこに建設中の建物があった。まだコンクリートで 外わくだけであったが 構造はわかる。現場の人にたずねてみた。
「そうですね。完成するのは来年(四七年)三月いっぱいですね。まあ センターの人たちが入所するのは 少し遅れるかもしれませんが」といっていた。部屋の構造設備などの図面も見せてもらった。かえり道 わたしは腹立たしかった。なぜ 都はうそをつかねばならないのか。知らせて何が悪いのか。はいるのは わたしたち障害者なのに・・・・・・。
 すぐさま そのことを 仲間や親たちに知らせたが 全然信用しない。それからも わたしたちは 躍起となって 資料集めや 都と交渉を持ち始めた。見学に行ったあくる日 都へ話を聞きに行った。「センターから あのような山の中へ移すという話があるが ほんとうなのか。なぜ あのようなところへ建て 移すのか」と問いただしても 依然 都は 「そんな計画はありません」の一点張りだった。
 一〇 一一 一二月とたったがセンターからは なんの知らせもない。なぜそんなに隠しているのか 不審でならなかった。
 今年の一月から 今日に至るまで 都へ「移転のことを明らかにせよ。わたしたちを無視した移転には 絶対反対」と要求してきた。この間 二十数回交渉を持っている。しかし 都は なんら姿勢ひとつ変えようとせず 移転を強行しようとしている。いったい なんのための だれのための福祉行政なのか。
 移転反対という意志表示を はっきりと打出しているのは わたしをいれ五名(名古屋足躬 西村留利 岩楯恵美子 志野雅子。これを有志グループという)その五名に対し センター側から 日常的に 卑劣な攻撃をかけてくる。「あなたたちは わたしたちの税金で生きているんだから どこへ移されようと 文句はいえないはず」「人に世話になりながら あっちがいやだこっちがいやだとよくいえる。なに様のつもりでいるの」と頭からおさえつけ 反対していることを理解しようとしない。なおも弾圧を加えてくる。
 トイレのなかでの個人攻撃。なかにはいっても 何十分も待たせたり やってくれなかったり 乱暴に扱ったり 入浴時に洗ってくれなかったり 数知れず 昼も夜もなくやられてきた。わたしたちにとって 介護を拒否されるということは 生死にかかわってくる問題になる。なぜ わたしたちが自分の意思をはっきり出してはいけないのか。障害者は おとなしく 人のいうことを聞いていればいいのか。わたしたち仲間は そういう弾圧に対し 何回もくじけそうになった。しかし 逆に やり方が余りにひどいので かえって闘志となっていくのだった。ちくしょう こんなことに負けてたまるか・・・・・・と。

拒否された団体交渉

 わたしたちが こんなにしてまで なぜ 移転に反対しているか。わたしたちは 決して センターが住みやすいから残りたいといっているのではない。しかし 移転される多摩更生園というところは 人里離れていて 交通の便も悪いし 一人ではとうてい外出は無理。より隔離状態になってしまう。それに わたしたち移転対象者に対し、移転のことをまったく明らかにしなかった。最初 四月に移転する予定だったのが 六月になり 九月に遅れ いまもなお移転の日を明らかにしていない。
 わたしたちの意思を無視した このようなセンター 都の態度に わたしたちは怒りを感じ 七 八月と 美濃部都知事に「移転中止」要求するために 署名集めを行った。真夏の最中 歩行者天国 一〜五時。渋谷で三〜七時。帰ってくると みんなぐたっとなってしまった。
 九月七日 わたしたちは 都と「あくまでも移転中止をしろ」と話合いを持った。しかし 都の回答は �@センターに残すことは考えていない�A多摩更生園(移転先)へ移ってもらう�B多摩がいやなら他の施設へ行ってもらう�Cそれもいやなら家へ返すということであった。もちろん決裂した。そして 都は「これ以上望むのでしたら わたしたちの手には負えません。最高責任者美濃部都知事にいくしかない」と これが何十回と交渉を重ねた都の 最終的な回答であった。なんのために ここまでやってきたのか。わたしたちの問題を 少しでもわかってもらい これからの福祉行政に組入れてもらいたいからだ。なのに 都は「都の方針」「都の中期計画だから変えることはできない」といってきた。なぜ中期計画だからといって わたしたちが間違っていると指摘しているのに 変えることができないのか。
 九月十一日 わたしたちは約三千名を集め それを持ち 美濃部都知事に団体要求を申込んだ。しかし 回答は「私の意向は 衛生 民生両局の意向である。会う必要はない」と拒否してきたのである。わたしたちは いまかかえている問題を 美濃部都知事に直接会って 聞いてもらいたい。わたしたちは やむをえず 都庁前に座り込んだのだった。座り込んだその日には 課長 部長 いままで一度も顔を見せなかった朝日衛生局長 縫田民生局長まで出てきた。「体の弱い人が こんなところにいるのはよくない。早くテントをはらってセンターへもどるように」と説得しにきたのである。テントをたてた意味など全然わかっていない。もう一度考え直してきてほしいといってかえした。
 そして九月二〇日 二一日。両局長が 美濃部にかわって話すというので、一応話合いを持った。そのなかで わたしたちが センターでどんな扱い方をされているか。それに基づいて移転中止しろといっているのだ といっても なにもわかろうとせず ただ体に毒だからセンターへ帰れ 移転中止はできない というだけだった。二六日も話合いが持たれたが 向うから一方的に 話を打ち切ってしまったのである。わたしたちは いままで なんのために話合いを持ってきたのか・・・・・・なんのために・・・・・・九月二十八日 わたしたちは もうがまんできない・・・・・・美濃部団交を要求し 死をかけた抗議のハンストにはいった。

なぜわかってくれない。

 しかし 都は三日たっても 六日たっても なにも対応してこない。なぜ こうまでしても 都はわかってくれないのか わたしたちに死ねということなのか。美濃部の福祉行政とは 障害者殺しの行政なのか。わたしたちは そう思わざるをえない。毎日 美濃部団交を要求し 衛生 民生 知事室へ出かけたが「知事は忙しいから 時間がとれない。知事の意向は 衛生民生に伝えてあるから知事じきじきに会う必要はない」と ドアを守衛でかため 追いはらうのである。
 八日目 一〇目になっても なにも・・・・・・なにも回答してこない。命をかけた要求を無視する 美濃部福祉行政の姿勢 わたしたちを 人間としてみていないのだろう。一個の人間としてみているならば こんな状態にならないうちに わたしたちの声をきいているはず・・・・・・「福祉の美濃部。対話の美濃部。スマイル美濃部」わたしたちは これが なにもかも なにもかもにせものだと 身をもって痛いほどよくわかった。
 ハンスト一一日目 朝日衛生局長が 医師をつれて 心配なので診察させてほしいといってきた。「わたしたちが なぜこうまでして要求しているのに わからないのか」と追求していくと 朝日局長は逃げ去ろうとした。なぜ逃げるのか とみんなでまわりをかこみ 声を限り叫んだ。それでもなお逃げようとする。わたしは ほんとうに情けなくなってしまった。なぜ・・・・・・なぜ去って行こうとする・・・・・・わたしは 思わず朝日局長の背広のポケットやえりなどつかみ 大声で泣いてしまった。恥や外聞などない。人間の命がかかっているのだ。あまりにひどい・・・・・・「美濃部に会わせろ」というと「わかった すぐ電話して聞いてみる」といって 都庁の中へはいっていく。いっしょについていった。しかし また 美濃部知事に会うなら テントを撤去しろなど 条件を出してきた。また むしかえしてくる。それが一〇月七日午後四時から始り 一昼夜交渉が続き あくる日八日の七時に ようやく「美濃部都知事に会うことを約束する」という確約書をとるまでに至った。しかし その確約書をとっただけでは なにも意味がない。わたしたちは 決してごまかされやしない・・・・・・。

差別意識の根源

 わたしたちが なぜ移転に反対しているか。ただ センターから多摩更生園へ移されるから反対しているのではない。わたしたち障害者は いままで 自分の意思をまったく殺されてきた。なにかひとつでもいうと 「わがままだ。人の世話になっているんだから 文句いうな」と すぐおさえつけられ いやなことをいやだという意思さえ 出せなくさせてしまう。わたしたちが目の前にいるとわずらわしいと 施設をどんどんつくり わたしたちをほうりこんでいく。何年かたち 新しい施設を建てたからといってはまた移し 本人の意思などこれっぽっちもうかがわず 施設から施設へのたらいまわしされ そのなかでしいたげられ 邪魔にされ 生きることの喜びも知らずに 廃人同様にされ 一生を終らされるのだ わたしたちは それにはもうがまんできないのだ。
 障害者だからといって なぜ施設におしこまれなければならないのか。世の中の人は「障害者は施設にはいるべきだ 施設でしあわせに暮した方がいい」という。世の中の人は 施設の中を全く知らない。施設の中とは 人間を人間としてみないところである。わたしたちは人形じゃない・・・・・・わたしたちは 人間なのだ。わたしたちも 社会の中で生き 人との触れ合いの中で生活していきたいのだ。
 しかし・・・・・今日の 都や国の政策では わたしたちをどんどん社会のすみへ追いやろうと コロニーや民間施設などが計画されている ますます差別意識の根源をつくり出してしまう。
 わたしたちは このようなことを 断じて許しておくわけにはいかない。
 わたしたちは闘う・・・・・。
 わたしたち障害者が 人間らしく生きていくために・・・・・。
 そのひとつとして この「移転反対」を闘っている。

(この手記は、身体の不自由な新田さんが、電動カナタイプで打ったもので、原文は全文カナ書きですが、紙幅の都合上、編集部で漢字まじり文に書きなおしました)


■言及

◆立岩 真也 2018/08/01 「七〇年体制へ・下――連載・148」,『現代思想』46-(2018-08):-

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


*作成:安藤道人(一橋大学大学院社会学研究科)
UP:20060418 REV:20180709
府中療育センター  ◇ワンステップかたつむり  ◇三井(新田)絹子  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(の運動)史のための年表  ◇全文掲載
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