『物語の構造分析』
Barthes, Roland Introduction a l'analyse structurale des recits
=19791115 ロラン・バルト著 花輪 光訳,みすず書房,219p
last update: 20180223
■Barthes, Roland 1966
Introduction a l'analyse structurale des recits=19791115 ロラン・バルト,花輪 光 訳 『物語の構造分析』,みすず書房,219p ISBN-10:462200481X ISBN-13:978-462200481 2600+
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[kinokuniya] ※ n08
■内容
以下みすず書房ホームページ
http://www.msz.co.jp/book/detail/00481.htmlの紹介より
「物語はまさに人類の歴史とともに始まるのだ。物語をもたない民族はどこにも存在せず、また決して存在しなかった。あらゆる社会階級、あらゆる人間集団がそれぞれの物語をもち、しかもそれらの物語はたいていの場合、異質の文化、いやさらに相反する文化の人々によってさえ等しく賞味されてきた。物語は、良い文学も悪い文学も差別しない。物語は人生と同じように、民族を越え、歴史を越え、文化を越えて存在する」
フランスにおける〈物語の構造分析〉は事実上、「コミュニカシヨン」誌、八号の物語の構造分析特集に始まると云ってよかろう。その巻頭を飾った、バルトの「物語の構造分析序説」は今や〈古典〉として名高い。この論文は現在においても、依然としてその重要性を失っていない。本書は、この記念碑的な労作をはじめ、批評家バルトの基調を示す「作者の死」「作品からテクストへ」、さらに、バルト的神話学ないし記号学の新しい方向を示す「対象そのものを変えること」等、八篇を収める。つねに変貌してゆくバルトの、60年代から70年代にかけての軌跡を明らかにする評論集。
■目次
以下[]内はルビ
物語の構造分析序説
Introduction à l'analyse structurale des récits,
Communications, 8, novembre 1966.
I 物語の言語[ラング]
1 文を超えて
2 意味のレベル
II 機能
1 単位の限定
2 単位クラス
3 機能の統辞法
III 行為[アクション]
1 登場人物の構造的ステイタスに向かって
2 主体の問題
IV 物語行為[ナラシヨン]
1 物語のコミュニケーション
2 物語の状況
V 物語の体系
1 ゆがみと拡大
2 ミメーシスと意味
天使との格闘――「創世記」三二章二三‐三三節のテクスト分析
La lutte avec L'ange: Analyse texuelle de Genèse 32. 23-33, in R.Barthes, F. Bovon, F.-J.Leenhardt, R. Martin-Achard, J.Starobinski:
Analyse structurale et exégèse biblique, Neuchâtel, Delachaux et Niestlé(coll. 《Bibliothèque thélogique》), 1971.
I シークェンス分析
II 構造分析
作者の死
La mort de l'auteur,
Manteia, V, fin 1968.
作品からテクストへ
De l'oeuvre au texte,
Revue d'esthetique, 3, juillet-septembre 1971.
現代における食品摂取の社会心理学のために
Pour une psycho-sociologie de l'alimentation contemporaine,
Annales, 5, septembre-octobre 1961.
エクリチュールの教え
Leçon d'écriture,
Tel Quel, 34, été 1968.
逸脱――ロラン・バルトとの対談
Digressions(Entretien),
Promesse, 29, printemps 1971.
1 フォルマリスム
2 空虚
3 読みうるもの
4 言語[ラング]
5 性欲
6 記号表現
7 武器
対象そのものを変えること
Changer l'objet lui-même,
Esprit, avril 1971.
原注
訳注
訳者解題
■引用
以下[]内はルビ
物語の構造分析序説
ディスクールの秩序においては、表記されているものは、定義上、注目に値いするものである。たとえある細部が、どうしようもないほど無意味で、どんな機<0012<能にも向かないように見えたとしても、最後にはそれが、まさに不条理や無用性という意味をおびることに変わりはなかろう。あらゆるがものが意味をもつか、さもなければ、何ものも意味をなさない、のである。言いかえれば、芸術は(情報理論における意味での)雑音をしらない、と言えよう。それは純粋な体系であって、無駄な単位はない。物語内容のレベルの一つに単位を結びつける糸がどれほど長く、どれほどゆるく、どれほど細くても、無駄な単位は決してないのである。(pp.12-13)
天使との格闘――「創世記」三二章二三‐三三節のテクスト分析
しかしわたしは勝手ながら、ときおり(そしておそらくは、たえずひそかに)わたしの探求を、自分にとってもっとなじみのある分析、つまり「テクスト分析」のほうへ向けていくであろう(ここで《テクスト》と言うのは、現在のテクスト理論に関係している。それは表意作用[シニフイヤンス]の生産として理解されるべきであって、いささかも「字義」を保持する文献学的対象としてではない)。こうしたテクスト分析は、テクストをその差異において《見る》ようにつとめる――ということは、テクストのいわく言いがたい個性において見るということではない。というのも、この差異は、既知のコードによって《織りなされて》いるからである。テクスト分析にとっては、テクストは、ある開かれた網目にとらえられている。その網目とは、構造化され閉止を知らない言語活動そのものの無限の広がりにほかならない。テクスト分析はもはや、テクストがどこからやって来るか(歴史的批評)、またどのように構成されているか(構造分析)を言うのではなく、テクストがどのように解体され、爆発し、散布されるか、つまり、テクストがコード化されたどのような道を通って立ち去るか、を言おうとつとめるのである。(p.57)
作者の死
それを知ることは永久に不可能であろう。というのも、まさにエクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊するからである。エクリチュールとは、われわれの主体が逃げ去ってしまう、<0079<あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる。黒くて白いものなのである。(pp.79-80)
おそらく常にそうだったのだ。ある事実が、もはや現実に直接働きかけるためにではなく、自動的な目的のために物語られるやいなや、つまり要するに、象徴の行使そのものを除き、すべての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。(p.80)
作者は今でも文学史概論、作家の伝記、雑誌のインタヴューを支配し、おのれの人格と作品を日記によって<0080<結びつけようとする文学者の意識そのものを支配している。現代の文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人格、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している。批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている。つまり、作品の説明が、常に、作品を生み出した者の側に求められるのだ。あたかも虚構の、多かれ少なかれ見え透いた寓意を通して、要するに常に同じ唯一の人間、作者の声が、《打ち明け話》をしているとでもいうかのように。(pp.80-81)
誰も(つまり、いかなる《人格》も)それを語っているわけではない。この文の源、この文の声は、エクリチュールの本当の場ではない。本当の場は、読書である。もう一つの、きわめて明確な例が、このことを理解させてくれる。最近の探求は、ギリシア悲劇の本質的構成要素をなす両義的性質を明らかにした。ギリシア悲劇のテクストは、二重の意味をもった語で織りなされていて、各登場人物はそれを一面的に理解する(このたえざる誤解が、まさしく《悲劇》なのである)。ところが、それぞれの語の二重性を見抜き、そのうえ、もしこう言ってよければ、目の前で語っている登場人物たちの耳の悪ささえ見抜いている誰かがいる。この誰かこそ、まさしく読者(ここでは聴衆)なのである。こうしてエクリチュールの全貌が明らかになる。一編のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議を唱えあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者で<0088<はなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間に他ならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない。(pp.88-89)
作品からテクストへ
つまり、「テクスト」は、その差異(ということは、その個性という意味ではない)においてしか、「テクスト」でありえない。「テクスト」の読書は、一回性の行為である(このことが、テクストに関するいかなる帰納的=演繹的科学をも幻想に変えてしまう。テクストの《文法》は存在しないのである)。とはいえ、「テクスト」の読書は、全面的に、引用と参照と反響とで織りなされている。つまり、それ以前または同時代の種々の文化的言語活動(文化的でない言語活動があろうか?)が、広大な立体音響のなかで「テクスト」を端から端まで貫いているのだ。テクストはそれ自体が他のテクストの中間テクストであるから、あらゆるテクストはテクスト相互関連にとらえられるが、この関連をテクストの何らかの起源と混同することは許されない。ある作品の《源泉》や《影響》を探し求めることは、系譜の神話を満足させることだ。(p.98)
訳注
物語内容/物語言説――イストワールhistoire/ディスクールdiscoursは、もともと言表行為の二つのレベルを示すバンヴェニストの用語(『一般言語学の諸問題』第十八章参照)。トドロフはこれを転用して、ロシアのフォルマリストたちの対立概念(ファブラ/シュジェート)に対応させ、イストワール(ファーブル)は「実際に起こった出来事」(事件の秩序)、ディスクール(シュジェ)<0188<は「読者がそれをどのようにして知ったか、その知り方」(言説の秩序)であるとした。(pp.188-189)
■言及
Lamarque, Peter, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy,"
British Journal of Aesthetics, 40:4(1990), pp.319-31.
*作成:
篠木 涼