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『医療人類学』

Foster, George M. & Anderson, Barbara G. 1978 Medical Anthoropology, John Wiley & Sons, Inc
=19870120 中川米造監訳,『医療人類学』,リブロポート,388p.


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■Foster, George M. & Anderson, Barbara G. 1978 Medical Anthoropology, John Wiley & Sons, Inc
=19870120 中川米造監訳,『医療人類学』,リブロポート,388p. ISBN-10: 4845702479 ISBN-13: 97848-45702473 3800 [amazon][kinokuniya]

■出版社/著者からの内容紹介
内容(「BOOK」データベースより)
古病理学の成果から疾病と文化の関係を考察し、民族誌的研究から伝統社会の病いに対する考え方、土着治療者の行為と役割、その世界観に従った医療システムを明らかにする。また西洋世界の医療従事者間の役割行動、象徴的相互作用、小社会としての病院、専門職の問題にも論及し、医療システムを通文化的視座から捉え直す。

■目次
序文 6

第1部 起源と領域 
 第1章 医療人類学の新しい分野 12
 第2章 医療人類学と生態学 23
 第3章 医療システム 49

第2部 非西洋世界
 第4章 民族医学(Ethnomedicine) 70
 第5章 民族精神医学(Ethnopsychiatry) 103
 第6章 シャーマン、呪術医(witch doctor)と他の治療者 126
 第7章 非西洋的医療システム――その強みと弱点 152

第3部 西洋世界
 第8章 病い行動 174
 第9章 病院:行動科学の見方 195
 第10章 医療における専門職:医師 209
 第11章 医療における専門職:看護(Nursing) 222

第4部  医療人類学者の役割
 第12章 人類学者と医療関係者 240
 第13章 変貌する世界における人類学と医学�T――歴史の教訓 259
 第14章 変貌する世界における人類学と医学�U――その趨勢とジレンマ 281
 第15章 人類学と栄養 303
 第16章 生命倫理:誕生、老年、死 321

あとがき 346
参考文献 382
索引 388

■紹介・引用
<序文>(以下、引用。p6-8)
 この『医療人類学』で、我々は多くのテーマについて論じるが、これらは、ここ三〇年ほどの間に関心の的を健康と病気に向け始めた生物学的人類学者及び、社会人類学者の興味を引きつけているものでもある。我々のここでの目的は、今日までの全ての業績を総花的に取り扱うことではない。というのは、そのような作業が可能だとしても(我々は可能だと思えないが)、できあがった著作は退屈なものになるに違いないからである。それにかえて、研究や関連する活動や教育から直接知ることのできる題材と、学生達が興味を持てると思われる題材とに問題を集中させ、医療人類学の分野について我々が取っていると同じ概観を示すことで、我々は満足したいと思う。
 読者は多分気がつかれると思うが、我々は決して医療人類学の、より純粋な生物学的側面の重要性を、無視したり低く評価したりするわけではない。しかしながら、ここで展開されるほとんどの章の社会的文化的な志向は、我々の立場が、親密な分野である医療社会学に大きく依拠していることを明らかにするであろう。医療人類学と医療社会学との間には、対象事柄や概念的枠組、そして調査方法などにおいてはっきりとした違いが存在し、またそれぞれ個々の独立した分野としての有効性についても疑問の余地はない(Foster 1974, Olesen 1974参照)。しかし、両者の間には、重要な類似性と共通基盤もまた存在する。健康と病気の社会的及び文化的次元に興味を持つ人類学者は、生物学的人類学からのデータやモデルを無視できないのと同様に、社会学からのデータやモデルも無視できない。
 本文では、二つの基本的な人類学的視点が提示される。まず最初に、西洋諸国でも第三世界諸国でも、また過去も現在も、保健に関連した行動は「適応」の傾向があると、我々は考える。意識的にも、無意識的にも、それらの行動はそれぞれの社会の構成員の生存と増加を推進するように意図されている。我々は保健行動もまた、病いの原因と見なされたものに対する(世界観、つまり全ての集団の構成員の認知的方針によって与えられた)合理的反応と見なしている。第二に、人類学の比較研究法は保健行動の構造とダイナミズムの分析に深い洞察力を与えるものと我々は考える。したがって、それぞれ文化の文脈に関係なく、医療システムの全ての局面の根底に存在する共通の要素を強調して、通文化的視座に重点をおく。この意味において、西洋文化に独自の医療制度と、世界の他の文化の医療制度との間には、はっきりした差異が存在しており、このことは西洋社会を中心に扱う章においても暗黙の前提としている。
 各章の構成にあたり、折衷的ではあるが、これらの視点を強調する。
 第1部では、初めに、医療人類学の新しい分野としての特徴について考察する。次に、特に古病理学の成果を引用しながら、人類進化に影響を与えたであろう疾病と文化の関係について考察する。疾病と文化と人間行動との関係に続いて、人類学者たちが関心を持っている生態学の重要なテーマについて論ずる。その後、医療システムについて言及し、医療システムは疾病がもたらす生物学的脅威に対する適応的反応であると指摘する。この医療システムの概念は、また後半の章に適切な理論的背景を与えることになる。なぜなら、医療人類学者の研究のほとんど全てが、どのみち最終的には特定の医療システムと関わるものであるからである。
 第2部では、おもに、完全ではないが、民族誌的研究から伝統社会の題材を扱う。これらの題材は、病いの本質と原因に対する考え方、非西洋社会の精神病(特にピブロクトクpibloktoqのようないわゆる文化特有の疾病、土着の治療者の行為と役割、そして伝統的医療システムの長所と短所などである。
 第3部では関心を西洋に切り替えて、医療社会学者と医文序療人類学者が興味を持っている重要な題材について考察する。患者、医師、看護婦、その他の医療従事者間の相互関係の中に示される役割行動と象徴的相互作用、小社会としての病院、専門職の問題、などである。ここでは、記述的、理論的に焦点をしぼる。
 第4部では医療人類学の応用的側面に力点をおく。これは、我が国と開発途上の世界との両方において、保健需要への解決策を見出すのに人類学者が援助する(したかもしれない)際の役割である。ここの各章には、それぞれ少しずつ違った意味ではあるが、変化という概念が根底にある。始めの四章で展開される我々の方法は、合衆国の応用人類学の伝統によっており(つまり、技術―変化―の―社会的―局面モデル)、これの論証として、ソーンダースの『文化的差異と医療ケア』(一九五四)や、ポール『健康、文化、集団』(一九五五)などの古典的作品や、「ヒューマン・オーガナイゼーション」や「サイエンス」やその他の雑誌に掲載された広範囲の論文を取りあげる。最後の章では、合衆国医療の建設的批判者としての医療人類学者の役割が提起される。それは、我が国の医師支配型の医療提供システムや、科学と技術が我々につきつけている倫理的ジレンマを問題にする役割である。我々は、そう複雑でない他の社会での慣習を観察することで、誕生、老い、死などについて学ぶべき教訓があるのではないか熟考してみる。
 ここで専門的な批判に対しては、前もって断っておかねばならないことがある。我々は一般論を論じているのであり、つまり太い筆で描いているということである。紙数が限られた中で広範囲にわたって書くには、他の方法ではやりようがないのである。「ボンゴ・ボンゴ族が我々の包括的記述法で完全に説明できるとは思っていないし、またかれらの特色を全て認識できるとも思っていない。にもかかわらず、木を見て森を見ずという人類学共通のあの病気よりは、外見上は過大な単純化と見なされるほうを我々は選ぶ。通文化的に観察された保健行動の中に、他の全ての種類の行動におけるのと同様に、それぞれの独自性を越えた共通のパターンと傾向と規則性を見出す。小さな差異に、一つ一つの脚注を加えて確かめていく方法よりは、共通のパターンを探し出す方法のほうが学び取るものが多いと我々は信じている。我々が行き過ぎだと思う読者は、疑問と思うことを、余白にでも書き入れていただきたい。例えば「もちろん、ボンゴ・ボンゴ族においては、例外なのだが……」のように。こうすることは、決して我々の方法の意義を不当に低く評価することにはならないだろうし、我々にとっては、そのほうがよりうれしい。

■書評・言及
◆進藤雄三.19901020.《医療の社会学》世界思想社.
医療人類学と医療社会学との関係についてはFoster, A313および・フォスター=アンダーソン『医療人類学』(中川米造監訳)リブロポート、一九八七、第一章、Wolinsky, A123 2:29-32などを参照。「社会」と「文化」概念の境界領域の曖昧さは、行動科学の成立した五〇年代より指摘されており、社会学と文化人類学の境界設定を理論的・分析的観点から明確にすることには一定の限界がある。しかし、歴史的経緯をたどれば、両者には主要な対象、技法、視座において十分識別可能な相違があるといえる。(p36)
精神病院の改革運動に強いインパクトを与えたといわれるこの書物の中で、ゴフマンは自足的小共同体としての病院―この発想はサリバンからジョーンズにいたる「治療同体」概念の系譜に連なる(→第�U部、第一章、3参照)(10)―の特質を、「全制的施設(total institution)」という概念によって表現する。(p166)
(10)この発想は人類学に特有の視点といいうる。例えば、コーディル(Caudill,B307)・フォスター(Foster,A313)・フォスター=アンダーソン『医療人類学』(中川米造監訳、リブロポート、一九八七)を参照。パーソンズは病院組織のもつこの特質を「収容(custodial)」機能と表現している(Parsons,B338:109-110)。(pp170-171)

◆佐藤純一.19950425.「第1章 医学」.黒田浩一郎編《現代医療の社会学――日本の現状と課題》世界思想社.
これに対して、「ヘルス・ケア・システム」は、治療実践のための社会的組織化の側面に関係している「実践のシステム」と表現でき、その下位カテゴリーに、医師(医療者)養成システム・病院システム・公衆衛生システム・医療保険システムなどの慣例的システムを分析対象として包摂している(G・M・フォスター、B・G・アンダーソン、中川米造監訳『医療人類学』リブロポート、一九八七年)。

◆進藤雄三.19991030.「第3章 医師」.進藤雄三・黒田浩一郎編《医療社会学を学ぶ人のために》世界思想社.
医学生の社会化というトピックに対しては四つの主要テーマを指摘することができる。すなわち、医学校への人材補充、学生文化、「さめた関心」と理想主義の喪失、経歴専攻の四つである(G・M・フォスター/B・G・アンダーソン、中川米造監訳『医療人類学』リブロポート、一九八七年、二一一頁)。医学校への人材補充というテーマでなされてきたのは、主に医学生の社会階層研究であり、洋の東西を問わず、その出身階層は他の職業の場合と比べても高く、また職業世襲率も高いということが指摘されている(日本については、中野秀一郎『現代日本の医師』日経新書、一九七六年、藤崎和彦「医学部新入生の行動科学的分析」『日本保健医療行動科学会年報』第四巻、一九八九年、二三七−二五五頁)。また経歴専攻のテーマとは、どのような個人的特性を持つ医学生が、いつ、どのような動機に基づいて専攻を選択するのか、という事柄に関わる研究系列であり、たとえば、アメリカでの研究でいえば、精神医学の選択と大都市出身という特性が相関していた、あるいは小児科専攻の学生は自然科学系の専門科目の選択割合が他の専攻選択学生と比べて有意に高い、といった研究結果がその代表例となる(フォスター/アンダーソン、前掲書、二一六−二一七頁)。このテーマで近年政策上の問題となっているのは、医療需要と専攻選択とのギャップであり、たとえば精神科医や一般医の供給不足と外科医の供給過剰という問題、あるいはプライマリー・ケアに対する社会的要請と医学生の「専門医」志向とのギャップという問題である。(p51)

◆池田光穂.19991030.「第13章 世界医療システム」.進藤雄三・黒田浩一郎編《医療社会学を学ぶ人のために》世界思想社.
 テクノロジーがうける社会決定と、それとは矛盾するテクノロジー独自の創造性に着目しよう。テクノロジーは利用者の目的を遂行するための道具を人びとに提供するが、同時に、テクノロジーの利用形態は、長期的に見れば利用者の目的を新たに創出し、社会を変化させてゆくという弁証法的な展開をとげる。
 事例として注射の受容について考えてみよう。西洋で開発された皮下注射ないしは静脈注射は、近代医療の導入時には多くの低開発地域で人びとから拒絶された。注射をおこなう病院は、人びとにとって死の場所を意味した。また「白人」は注射をおこなうと称して、現地住民から血液を奪っているという流言や信仰が発生したこともある(G・フォスター/B・アンダーソン、中川米造監訳『医療人類学』リブロポート、一九八七年、特に第一三章を参照)。後者は、植民地における搾取主体である白人と、被搾取者の現地住民の関係を注射という行為の中に表象したとしばしば人類学的に解釈されてきた。
 ところが、「外来の白人が使う恐ろしい呪術=テクノロジー」という象徴的意味が消失ないし後退すると、注射は低開発途上国では、もっとも簡便な治療法として定着し、住民に受け入れられた。つまり人びとの間で、注射に対してより積極的な解釈が登場し、それが多数の支持を得ることとなった。たとえば、より痛みを伴えば治療効果が上がるという土着的解釈などは、その一つである。また、民間療法者が注射器を手に入れ、注射の技術を会得し、ディスポーザブルの注射針を使いまわしするという非正規的な受容が世界の各地で見られる。薬物利用者が薬物の薬理作用をより効果的にするために静脈注射をおこなうようになり、それが定着する。さらに薬物利用の非合法化に伴いシューティング・ギャラリーというサブカルチャーが登場したのは、その社会的局面の創造的流用がおこなわれた一事例である(J. B. Page et al.,“Intravenous drug use and HIV infection in Miami,”Medical Anthropology Quarterly [NS], Vol. 4, 1990)。さらにHIV感染の流行とそれに対する予防知識の大衆化に伴ってシューティング・ギャラリーにおける注射針の共有に関する積極的意味づけは後退した。近代医療が期待しないテクノロジーの流用がそこではつねにおこなわれている。近代医療による統制(=取締)は結果的に薬物利用者のサブカルチャーを同時に産出しているのである。(pp250-251)

◆浮ケ谷幸代.20040720.《病気だけど病気ではない――糖尿病とともに生きる生活世界》誠信書房.
(12)医療人類学は一九七〇年代にアメリカで生まれた学問分野であり、その源泉は四つある。一つは文化人類学における宗教や神話研究、象徴論研究を基盤とした民族誌的研究であり、次は精神医学と結びついた文化パーソナリティ研究、そして三つ目は自然人類学や生態人類学における実証的研究、それから四つ目は第二次世界大戦以降盛んになる公衆衛生事業と結びついた海外医療援助活動である(フォスター&アンダーソン、一九八七)。しかし、この四つの源泉に見られるパースペクティブは、バイロン・グッドによれば経験主義的、あるいは合理主義的パラダイムを前提にしていることから、それらに対する批判もまた議論されている。その後、主要なアプローチとして解釈学的人類学アプローチと批判的人類学的アプローチの二つの立場が提示され、現在二つアプローチを架橋する道が模索されている(グッド、二○〇一、四三‐一〇八頁)。(p191)
(1)文化人類学では、生物医学(biomedicine)とは異なる体系として民族医学(ethnomedicie)を設定し、その「病因論」(etiology)について、「パーソナリスティック」(personalistic)と「ナチュラリスティック」(naturalistic)という二つのカテゴリーを用意した。前者は、病気になる原因を「超自然的存在(異教の神あるいは神)、非人間的存在(たとえば幽霊、祖先あるいは悪魔のようなもの)、または人間(妖術師や邪術師)などの生命のある作用体が目的をもって干渉すること」によって引き起こされるものと説明されている。後者については、非人格的なもののカナゴリーで、ギリシャの四体液説や中国の陰陽説、インドのアユルベーダ医学、ラテン・アメリカ地域に見出せる熱-冷の二分法などの平衡モデルで説明されるものとされている(フォスター&アンダーソン、一九八七、七二‐八六頁)。(p195)

◆福島智子.2005.「自覚症状のない患者が治療を求めるとき――2型糖尿病患者を対象としたインタビュー調査から」《保健医療社会学論集》16(1):13-24.
今回取り上げる2型糖尿病患者の場合、ゾラのいう評価、判断の対象となる症状自体が存在せず、彼/彼女らの病気行動をその枠組みによって説明することはできない(注5)。(p14)
(5)この点に関して人類学者のフォスターとアンダーソンは、「西洋の患者は」「疾患の発生はその症状の知覚に先行するという西洋の仮定」に基づいて「外に現れた徴候がなくとも検査室でのテストや医師の検診によって治療が必要であるという病理学的証拠が明らかになる場合もある」と信じる一方、「非西洋の民族は、痛みと現実の不快がなければ病いなどありえないと信じる傾向がある」と論じている(p.187)。(p23)


*作成:植村 要
UP:20070813 REV:20081107
BOOK身体×世界関連書籍 -1970'医療人類学