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日本尊厳死協会 編『安楽死論集 第3集』
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『安楽死論集 第3集』

日本安楽死協会 編 19790420 人間の科学社,311p.

last update: 20150228

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日本安楽死協会 編  19790420 『安楽死論集 第3集』,人間の科学社,311p. ASIN: B000J8HW9U \1300 [amazon] ※ et

■内容

■目次
安楽死の訳語・思想と文芸…太田 益治 7
医師の欠陥教育がもたらした"安楽死反対医師"…田村 豊幸 32
安楽死論前進のために…植松 正 47
安楽死を考える――私の安楽死論――…香山 仙太郎 61
安楽死法・序説…角田 光永 75
安楽死と家事審判…飛田 人徳 79
死を看とる医師…榊原 亨 102
「植物人間」vs「品位ある死」…横山 正義 109
安楽死と医療…植村 肇 129
医師の任務…野村 敬次 147
安楽死と諦観…岸本 幸夫 153
サナトロジー序論――生物としての死と人間としての死…佐羽 城治 161
「安楽死協会」に入会した理由…住谷 悦治 179
老齢化社会と安楽死問題…原 正成 128
安楽死に関する常識哲学的考察・序説…小川 仙 203
私の死生観…木村 孫八郎 217
女王・卑弥呼の死…横田 整三 224
"死"について思うこと…宮崎 彦松 235
慈悲殺と人間の死ぬ権利…北山 恭治 244
安楽死法制化反対論批判…太田 典礼 252
  阻止する会の声明…272   「安楽死法制化を阻止する会」の声明に対する反駁声明…272   阻止する会への疑問(北山恭治)…276   リビングウィル運動の理解のために――安楽死法制化反対論批判――(佐羽 城治 )…281
  安楽死法制定反対論者にもの申す(飛田 人徳 )…287
  安楽死の法制化と人権――武谷先生の"危機論"を読んで(須川 豊)…289
  阻止する会への反ばく(太田 典礼)…292
法案審議の経過…北山 恭治 299
末期医療の特別法(日本安楽死協会案)…308


■引用
◆安楽死論集3 252-270


安楽死法制化反対論批判
太田典礼
医博・理事長

 安楽死は死の字がきらわれたり、人道に反するなどとタブー視されていたが、時の流れというか、ジャーナリズムの取り上げ方が非常に好意的になってきたせいもあって、もはや毛ぎらいや極端な反対が急速にうすらいで、堂々と市民権をえつつある感じとなった。長生きしたい、死ぬのはいやだといってもいつかは死なねばならないのであり、誰しも安楽に死にたいと願っている。なおる見込みもないのにひどく苦しみもだえたり、意識のない植物人間になっていつまでも生かされたくないからである。ポックリ寺信仰もそのあらわれの一つであるが、束京都老人綜合研究所の井上勝也のインタビューによると、ポックリ往生がかなわぬなら安楽死を、というのが十人中九人もいたという。
 学者や医者、宗教家などの批判はなおかなり執拗であるが、一般の理解の方が一歩先へ進んできたといえる。法制化をめざしている日本安楽死協会としては、ここであらためて反対論の内容を再検討して論争を深め、また話しあえるように努力しながら正しい方向づけに資したいと思う。反対論にもいろんな段階がある。安楽死はていのいい表現にすぎず、実際は殺人である、とする強硬説から、安楽死は理屈としては認めるが、その法制化には反対という一見おだやかな意見まであ<0252<り、後者の方がだんだん多くなりつつあるが、ほんとおはこの方が扱いにくいのである。

 一、法制化反対
 その第一は、死をえらぶのは個人の自由なのだから、法律によって規制するのは自由の侵害である、とする。しかし法制化といっても決して強制を意味してはいない、むしろその反対で、イギリス法案をはじめどこでもボランタリーという字句が前についている。これを一般には“任意”と訳しているが、“自発的”とした方が適当だとする見解が強くなりつつあり、協会の目ざしているのも自発的安楽死なのである。しかもこれは主として問題になり易い積極的安楽死についてであって、アメリカ諸州で成立しくいる消極的安楽死泣は、さらにやわらかく、自然死法とか、死ぬ権利法などとなっている。
 第二の強硬な反対は悪用の危険であるが、アメリカの安楽死法についてもその歯止めは充分に考えられている。そもそも法律というものは概して悪用の危険をはらんでいるものなので、立案に当っても、またその運用についてもそれを防ぐ努力が大切なのであって、徒らに反対するだけが能ではない。
 第三は法制化の必要はない、とするもので安楽死そのものの否定ではなく、肯定はするが法制化には反対とするのであり、穏健にみえくもこれほど矛盾した議論はない、法的裏づけがなければ、安楽<0253<死は実行されないからである。これにもいろんな種類があるが、最も有力なのが判例積み重ね論である。これで事足りることなので、わざわざ新しい法律をつくるに及ばないとするもの、結局は安楽死を法的に認めようとする前向きの態度なのだが、これが実は一番のくせものなのである。というのは、判例の積み重ねは極めて困難だからである。この論者は法律家に多く、そのむずかしさを知らないわけがないのに、あえて主張するのは、結局それができないことを見越してのことか、そうだとすれば、これこそていのいい法制化反対論ではないか。ここで判例積み重ねの困難性についてのべておく必要がある。
 これについては先に(ジュリスト五月号、判例積み重ね論への疑問)で一応論じておいたが、積極的安楽死と消極的安楽死によってかなり違いがあるが、ともにそれを認めた判例はない。積極的については、昭和三十七年の名古屋高裁の有名な六要件が一応の基準になるので、ここから出発するのが通例である。よく知られているものだが、議論上の便宜のためにまずこれを掲げておく。一
 (1)病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に追っていること。
 (2)病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
 (3)もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
 (4)病者の意識がなお明瞭であって、意思を表明できる場合には、本人の真撃な嘱託又は承諾のあ<0254<ること。
 (5)医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえない首肯するに足る特別な事情があること。
 (6)その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。
 判例の積み重ねには、少しでも前進した新しい判例が出なければならない、同じような判例がいくらたくさん出ても、積み重ねとはいえない。名古屋裁判が軽いながら有罪になったのは、(5)と(6)の二つが欠けているからということであった。
 従って新判例の出る可能性のあるのは(5)と(6)に当る場合であるが、(5)の医師が行うのはほとんどが明らかにされないので裁判になりにくい。多くの医師はたのまれても嘱託殺人に問われるおそれがあるから断る。
 実際は医師の手によってかなり行われているという意見も多いが、よほど親しい間柄の医師か、理解ある医師ならやってくれることもあるけれども、暗黙のうちに処置して別の手段をあげておく、従って取り調べはしても検挙しにくい。検察側は無罪になる可能性のあるようなものは起訴しないであろうから、判例は出にくい。
 さらにこの中にある「医師の手によりえない場合はそれに首肯し得る理由がなければならないしとする条項であるが、これこそ非常にむずかしい。医師にたのんだが断わられたから、というくらいで<0255<は理由にならない。医師が遠くてたのめなかったというのも果して認められるかどうか。首肯し得る理由はまず見込みなしとしなければなるまい。
 次は(6)の倫理的に妥当なものはその基準が大変むずかしい。昨年大阪府枚方市で、死期の近い老妻を夫が刺身庖丁で殺した事件について一橋大名誉教授植松正は、
「この判決が第一審で確定してしまったことは、判例による法理論を確認するためには遺憾なことであったとも言えるが、見かたを変えれば、上告審まで行って変に判例理論が確定してしまうよりは、かえってよかったのかもしれない。その方が将来の理論の発展を期待する余地を残しているからである。しかし、私などのように強い安楽死肯定論者にとっては、もっと前進した法理の展開を示してもらいたかったと思う。無論、司法は保守的な性格な有するし、そう率先して活動しないところにその長所もあるのであるが、さればとて、時代の進運に対して盲目であってよいのではない。通例の姿として、やや後方から基準を示して行くことが望ましいものであるなかでも、行為の適法か違法かが問題になっているときには、それがどんなに目新しい課題であろうとも、司法が決着を付けていかなくては、世は帰趨に苦しむことになる。そこには、新鮮な感覚を盛った合理的な思考が示されなければならない」
とし、手段については刺身庖丁を用いたことをなぜ残虐と見なすのかといい、
「化学的物質を用いることが安楽で、絞首や刺殺のような物理的手段によることが『倫理的』でない<0256<などという先入観念を決めてかかるわけにはいかない。ことに瀕死の病人に対して施こされる手段となれば、なおさら、それらも比較的大きな苦痛を与えるこよなく所期の目的な達しうるものと推測される。
 現実に起こる事件はつねにその理想の要件を欠かざるをえない。それを欠くものに対処して、なお違法性阻却による犯罪不成立を肯定すべき場合がありはしないか。不能の要件を示すよりも,合理的に要件を緩和することにより、実効ある法の連用を求めることこそ今後早急になされるべき課題であろう」
 少数意見ながら、安楽死は必ずも医師の手によらなくてもよいとする論者もあり、理論的には理解できるし、薬を用いることはなるほど医師でなくてもできる。睡眠薬などは医師の処方箋がないと簡単には買えなくなっているが、医師からもらったのをためておいて一気に多量にのむか、あるいは家族がのませたら死ぬ可能性もある。これならたしかに一歩前進の新判例になるかも知れないが、これだけでは安楽死として無罪になりにくい。
 重要条件としての不治、死期切迫の判定は医師の証明を必要とするが、これは医師としても絶対的とはいい切れるものではないので、自分で行なう場合はそう判断して決心するにしても、素人が行なうときに不治、末期の証明を求められても、証明書は書かないのが常識である。書くだけの勇気があれぱ自ら行った方が安全であると考える。従って右の方法を用いくも安楽死として認められにく<0257<いことになる。ロではもうとても助かる見込みがないとか、多分数日の命でしょうなどといっても、それでは裁判の証拠にほならない。医師は予想を述べたまでだと逃げることができる。


 ニ、消極的安楽死
 これは作為の積極的安楽死とはかなり条件がちがう。
 ヨーロッパでは積極的安楽死が主な課題であり、治る見込みのない病気や回復不能な意識不明は原則として医療の対称<原文ママ<にしないのが常識となっている。スイスのへメリ博士事件がその代表といえる。
 チューリッヒ市立病院内科医長のへメリを、警察が安楽死殺人の疑いで逮捕した。不治の病人の鼻腔栄養補給の牛乳を患者の希望に応じて水にかえたためだったが、博士は「本人の意志に従うのは医師としての当然の任務であって犯罪になるわけがない」と主張し、医学委員会がこれを認めたために検察庁も起訴をあきらめ、医長に復帰した。日本の医学委員会で果してこれだけの結論が出されるかどうか。
 アメリカではカルフォルニア州の自然死法をはじめ一昨年から昨年にかけてすでに八つの州で消極的安楽死が成立しており、ほとんどの州で法案が提出されくいる。
 日本では消極的安楽死が問題になり出してから日が浅いせいで、一つの判例もなく愚論がまかり通っている。最もお祖末なのが、積極的と消極的をこんがらがせている論である。植物状態人間は安楽<0258<死に該当しないとする脳神経外科の福間誠之のもので(メヂカルトリビューン一九七五年一月三十日)名古屋高裁の六要件を引き合いに出して、本人の意志を欠き苦痛甚だしいともいえないことを理由にしているのであるが、積極的要件は消極的には通用しないのが当然である。むしろ単なる延命論から脱却し前進して、植物人間の安楽死該当条件なあげるべきである。意識回復不可能六カ月以上とか、本人の意志喪失の場合に最近親者に代理させるなど、科学者としての立場を明らかにすべきてはないか、その後も消極的安楽死の要件として明らかなものが発表されないのはどういう理由からなのか、
学会の決断のにぶさなのか。でも、昨年十一月熊本での刑法学会シンポジウムで大きく前進し
た。人工延命装置の取りはずしについて、脳死段階で、あるいはそれ以前でも意識可復不可能な場合た。人工延命装置の取りはずしについて、脳死段階で、あるいはそれ以前でも意識回復不可能な場合は取りはずしても医師に刑事的責任はない。とする意見が大勢な占めたのであるから、有罪になる可能性はなく、起訴されることもないであろう。従って判例も出ないものと考えられる。


 リビングウィル
 日本安楽死協会としては“生者の意志”リビングウィルに内容を掲げて、その登録をはじめ日増しに登録者がふえつつあり、消極的安楽死法の成立をめざしている。これがさらに識者をはじめ一般の認識な高めつつある。その要点は
 一、ガンなどの重症で、肉体的苦痛が激しいときは、苦痛を軽くする充分な処置をしてほしい、そのためどんな副作用があっても厭いません。
 ニ、私が次のいずれかの条件下にあるときは私の生命を単にひきのばすための治療は一切中止をしていただきたい。
  1、回復不能の意識不明 2、六ヶ月以上の意識不明 3、原状回復のできない精神的無能力 4、不治の病気で苦痛がはげしく死期が近い場合

 
 三、協会法案への批判
 協会はこの線にそって法案委員会によって検討をつづけている。昭和五十二年四月の年次大会で石川案をもとに第一次試案をつくり、五十三年五月十三日の年次大会に発表したところ、早速新聞が批判をのせた。
 朝日は五月二十三日の夕刊、東北大教授鈴木二郎の「わたしの言い分」で、安楽死な一応肯定しながら「しかし、このような形で法律にするのは日本ではまだ心情的風土的に時期が早いと思います。日本でもだんだん安楽死が社会一般の倫理として認められるようになっていくかも知れない。そうなってから立法化を考えらどうでしょうか」<原文ママ<
 一応ごもっともな考え方ではあり、われわれは認識を早めるように努力しているのである。この考えは脳生理学者の大家時実利彦のうけ売りのような気がする。時実は「新皮質の機能の喪失したとき<0260<が人間の死である」としながら、後で、「はたして脳死すなわち死と判断できるかどうか、人間としての死の認定はひとりひとりの心情、あるいは日本という風土で培われた国民感情によるものでなければならない」としている。
 しかも鈴木は延命措置の停止には反対で、点滴栄養はやめれない、とし延命第一主義の医の倫理にしがみついくいる。ここにアカデミックな日本の医の倫理と医学教育のおくれ、ひずみを再検討する必要を痛感する。
 毎日は六月六日、松田道雄の「自然死法」をのせ「この法律案は、ぽっくり寺の御利益で安楽往生したいという風潮と、人情の酷薄化にのって、ものぐさな医者を殺人罪から救うのが目的のように思える。……医者や看護婦はどんなことがあっても、患者の生命をたすけるのが職分だということにしておかないといけない。場合によって殺人もされるというのでは、医療にみがはいらない、……生命を維持するために、欠陥だらけの医療をあらためるように要求する権利、ガンになっても痛くないようにしてもらう権利が、すべての国民にある。医療改善を殺人によって解除できるものではない」として安楽死を欠陥医療の責任にすりかえている。
 読売は六月十二日、渡辺淳一の鈴木千秋(平眠、わが母の願った安楽死の著者)との対談で、安楽死には原則としては賛成しながら積極的安楽死には批判的で、「真のヒュマ―ニストだったら積極的安楽死に手をかすだろう。あれはエゴイストです」と妙なことをいっている。渡辺は小説「神々の夕<0261<映え」でも「生きているかぎり人間は生きるべきだ。……医師は人を殺せない」としている。七月二十二日のNHKテレビの「安楽死は許されるか」でも他の週刊誌でも同じようなことをいっている。
 いただけないのは、なだいなだの「安楽死について思うこと」雑誌「波」六月号だ。
「法律というものが、ぼくはきらいだ」と書き出し「安楽死の問題は法律などで一様にさばくことのできる問題ではない。……世論調査のハイ・イイエの数で安楽死の法律がつくられることには反対だ」といっている。法律が世論調査でつくられたりするものでないことは充分ご存知のはずだ。世論の影響は大きいにしても、こういう表現は非常識である。評論家という職人は変わったことを書かないと金にならないのか。しかも、これを朝日の天声人語が(6・15)「この意見には賛成だ」としているのは、法律をつくることの反対に賛成であるにしても、このようなアナキスト的な論文を引き合いに出すのは不見識ではないか。果して同紙の「声」「生きる価値と無残な母の死」(6・18)に批判が出ている。「苦しまないことと、長生きすることと一体どちらに価値があるのだろうか」と訴えている。もちろん法制化反対の投書もある。とくに地方新聞に多いようで、徳島の会員からその切りぬきが三通も送られてきた。内容は宗教的な臭いが強く、地方文化の後進性を感じさせる。

 協会の法案委員会では、とくに作家、評論家の反対に対しては、手きびしい批判が起こった。もは<0262<や医師としての現場をはなれている評論家は、切実な現実に接していないので、死を云々する資格はない。安楽死を殺人扱いする向きが多いのは認識の低さである。むしろ末期患者の延命治療を禁止する法律をつくるべきではないかとする意見が強くなった。

 四、日本医師会
 日本医師会が最近日本医師会雑誌、五十三年八月一日で研究報告を発表した。頭からの安楽死否定ではなくいくらか前向きの姿勢をとっていることを一応評価しなければならない。今まで医師会は独自の研究をしていることをきいてはいたが協会へは勿論連絡もなく、反対も協力もせず沈黙をつづけていた。協会の積極性に不安を感じていたのかも知れない。医師会は営利追及と自己防衛の同業組合的性格が強く、税の優遇、健保、医療賠償などにはカを入れてはいるが、安楽死については生命尊重をたてにして延命主義を守る医師が多いからである。詳細は佐羽理事の論文(日本医事新報)にゆずることにするが、この報告は医療責任論として取り上げたもので、賠償の自己防衛的な臭いが強く、いろいろ疑問をあげて慎重論に終り、リビングウィルに対してもにわかに賛成しがたいとしているが、責任論上むしろこれが有利に働くことを認識し直してはどうか。なお、医師でない、阿南の安楽死なをとりあげ、「苦痛の軽減は鎮痛医療、ペインクリニックの発達によって克服されつつある」を引用しているのはどうかと思う。医師会は苦痛軽減処置は今なお極め<0263て不充分であることを知らないのか。

 五、大渡順二の三原則
 大渡の法制化反対は独特の説で彼はこれを大渡三原則といっている。
 (イ)安楽死させていいかどうかを、他から聞かれたときは、私は絶対に「ノー」と答える。
 (ロ)すでに安楽死させてしまったという駆け込みの訴えのときは、その真実さをよくよく確かめたうえで、ほんとうにせっぱつまった話の結果ならば私は全力をあげて弁護する。
 (ハ)もし私自身または私の身辺の問題として問われたならば、私はだれにも相談しないで自分で決め、いっさいを自分の責任に帰する――と決めている。
 最後のハの場合、私が肉親をあやめたなら、私は進んで法の裁きに服する。

 六、東邦医大での学生の批判
 文化祭の行事として十月三十日、講演を依頼され、希望に従って、一、安楽死の定義二、諸外国の安楽死法の現状三、安楽死法立法化の必要性四、私が取組み始めた動機を話して質問をうけた。驚ろいたことには、ほとんどが型にはまったように法制化に批判的で、悪用の危険、拡大解釈のおそれをあげて反対又は時期尚早論を唱える。この講演会は第一回は渡辺淳一、第二回は阿南誠一で、共に慎<0264<重論者なので、その影響とも考えられるが、法科の学生とちがって積極性が足りない。ものごとを進めるのは容易でないが反対はやり易い。私は安楽死は法制化しないと実現しにくいのだから、単なる反対でなく、悪用されないような法律をという前むきの姿勢で検討をしてほしいと希望しておいた。

 七、その他の楽観説
 ついでに医師あるいは医師でない大学教授らの安易な態度の本を批判しくおく必要がある。肩書につられてか、反対者がうまく利用しているからである。
 (一) 苦痛軽減法の発達で立法は必要ない、とするもの。
 阿南誠一の「安楽死」「弘文堂、五十二年九月)<原文ママ<はさきにあげた日本医師会が引用しているが、法律家としては歯切れの悪い反対論文で、安楽死を医の敗北とし、ペイン・クリニック(苦痛緩和治療)が進歩してきたので、苦痛軽減ということだけでは安楽死を許す理由として弱くなってきた、と極めて楽観的である。まさに現実な知らない机上の学者論である。法的に許されていないとして、多くの医師は苦痛軽減の希望を入れてくれないので、老夫がガンで苦しむ老妻な刺し殺すような事件が相次いでいる。国立病院でもモヒを使わないところがあることをご存知なのであろうか。
 (二) 作田勉、安楽死をめぐる医師の自己省察、世論時報、五十二年十二月
 イギリスやアメリカには、死を迎えさせる専門病院があると聞く。そこでは鎮痛を充分に行い、病<0265<院の雰囲気も明かるいという。筆者は、慢性疾患で死期が迫り、回復の望みが極めて薄く、苦痛の激しい患者には、病棟医の合意と家族や本人の同意があれば充分な鎮痛剤の投与や鎮痛効果の強い麻薬を使用することは許されることだと考える。一方それによる心臓衰弱から死期が若干早まることがあっても、それは積極的に安楽死術を施行して病人を殺すこととは異なる次元の事柄である。安楽死法制定論者の言う末期ガン患者の苦痛にはこのように対処できるし、一般人をみても、リューマチ、神経病等の痛みを我慢して生きくいる者も多いのであるから、安楽死法制化の必然性は乏しいといえよう」
 精神神経科医にしては楽観的といおうか、のんきな先生もあるのに驚く。
 (三) 鯖田豊之『生きる権利、死ぬ権利』新潮選書 五十一年十一月
 安楽死を不必要にする手がかりを得るのが目的、とあるように、安楽死を歴史的にあるいは法律的、医学的にひねくりまわして乱用の危険を論じたり、ペイン・クリニックに期待したりしてついに、イギリスのホスピスに希望を托している。「聖クリストファーズと同じような施設、同じような居宅サービスがほかのところでもぞくぞく機能しだせば、終いにはどうなるだろうか、安楽死の是非を論ずること自体が不要になっていくのではあるまいか」とこれまた同じようなおめでたい見解である。医大の先生ではあるが所詮文学博士のお説にすぎない。宗教的なホスピスの実体をご存知ないからか。
 協会としてはこれらの批判、反対を謙虚に受けとめつつ、新しい案をも加えて研究をつづけ、要綱案を試案にまとめた。これを批判しく下さった方々に送って意見を求め、それをまた参考にして協会草案にまとめた。
 草案は各方面に送り、とくに国会議員に資料として提供し、議員立法への研究を進めてもらうよう働きかける。

◆安楽死論集3 267−270
八、障害者の問題
 一番やっかいな反対は、障害者運動とそれを支援している青医連(青年医師連盟)である。五十二年七月九大での安楽死講演会を妨害にきたのがこの組合せであった。これについては会報十二号にものせておいたが、青医連は大学紛争の奇型児的おとし子で、もはや大学改革を前進させるカはなく、今やかきまわし専問の学会つぶし屋になり下がっているが、学会も医師会も、何するかわからないというので相手にせず、そのためただ増長させている存在である。その本拠のようなのが東大精神科病棟で、サンケイ取材班による調査が最近出版された。それが今度は安楽死反対にも手を出してきたのである。私達は彼らのいい分もよくきいてよく話しあわねばならないと思っているが、全く一方的な議論なので討論にならず平行線をたどるだけなので困る。「安楽死のすすめ」にも書いておいたが、先年ウーサンリブのさかんな頃、姓娠中絶の胎児条項に反対した優生思想否定の論法で、議論が<0267<かみ合わず、不毛の論争をくり返した。それを今度は安楽死反対に向けてうごめき出してきたのである。最近の「九大医報」四五巻二号に、小特集「安楽死と障害者問題」として、講演妨害者であった「福岡青い芝の会」の主張と学生の青医連的な公式論をのせている。
 障害者は、安楽死の対称<原文ママ<にならないから、協会としても除外しているのである。積極的、消極的にも該当しにくいからである。ただ障害者の発生をできるだけ予防すべきだとし、明かに予測できる場合は胎児のうちに姓娠中絶した方がよい、としているのに対して、その思想は障害者抹殺につながるとし、優生思想に反しているわけで、一方的なので議論がかみ合わない。

 京大の大学祭
 京大の学生実行委員会から十一月祭シンポジウムを開きたいから、出席してほしいと八月にいってきたので心よく引きうけた。その後予定の顔ぶれを知らせてきた。日は十一月の終り、司会、梅原猛(京都芸大学長)、肯定論は太田。批判論は大谷実(同志社大刑法教授)と福間誠之(京都日赤、脳神経外科)。大谷は安楽死法制化慎重派で判例積み重ね論者として知られており、福間は植物人間延命グループで東北大教授鈴木二郎のメンバーで、私も紙上論争した相手であり、興味あるシンポジウムを期待していた。
 ところが十月になって、突如私におりくほしいという電話があった。学内に反対が出て身の危険も<0268<保障しかねないからという、おだやかならぬ理由なのだ。主催者のめいわくになってもいけないと思って私は取りやめを了解した。
 事務局からその理由を文書をもって知らしてほしいと手紙を出したら、講演担当者からていねいな詫び状にそのいきさつを記してきた。
「私達、京都大学十一月祭事務局は全学企画の立案者として大学祭第二回全学実行委員会の場に於て、太田典礼先生をお招きすることも含めた全学講演の原案を提出いたしました。
 ところが全障連(全国障害者連絡会議)から、自然死法案推進の立場なとる方々をお呼びすることに対し、『学内に障害者解放運動に敵対する団体が登場することは許すことはできない。講演を行なうのは構わないが、会場に於てどのような事態が発生しても責任は一切負えない』
 というような強い反対を受け全会一致を見ることができず、私達としては当日の混乱を避けるために、日本安楽死協会からはお呼びを断念する止むなきに至りました。
 とは言え、学内事情を十分に考慮しなかった当方も勿論責任は免れるものではありません。深くお詫びするとともに、今後の貴会の発展をお祈り申し上げます」

 世界的に法制化へ向っているのに、その主張を学内に入れさえしなければよいとする狭量さに驚ろ<0269<いた。これでは片肺論議になるわけでシンポジウムとはいえない。全障連の支持者が青医連であることは衆知の事実である。
 毎日新聞、福永勝也記者はこれを取材し、「消えた安楽死、激突シンポ、論義の意義、切り捨てるな」としている<0270<


■書評・紹介

■言及



*作成:中村 亮太
UP: 20150227 REV: 20150228 
日本尊厳死協会  ◇安楽死・尊厳死 ◇太田 典礼  ◇身体×世界:関連書籍 -1970'  ◇BOOK

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