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『”狂気”からの反撃――精神医療解体運動への視点』

吉田 おさみ 19810100 新泉社,276p.


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吉田 おさみ  19810100 『”狂気”からの反撃――精神医療解体運動への視点』,新泉社,276p. ISBN:4787780085 1575 [品切] [amazon][kinokuniya]

■引用

�T 反―「精神障害」者差別
「精神障害」者は何故差別されるか(『福祉労働』7号、1980年)
 一 「精神障害」者差別の歴史
 二 市民社会における"狂気"
「…差別とは、もちろん、差別事象、差別意識のみをいうのではなく、社会体制じたいが巨大な抑圧・差別構造を形造っており、いわゆる差別事象・差別意識は、むしろ、客観的な差別構造の補完物です」9

「現在、精神医学は『精神障害』の原因をどう捉えるかによって、生物学主義、心理学主義、社会学主義に分かれています。生物学主義は、近代精神医学の正統派であって、『精神障害』は脳の細胞の障害によっておこるとし、心理学主義は、"精神症状"を先行する精神現象からひきおこされる一つの反応とみ、社会学主義は『精神障害』を個人をとりまく環境、つまり狭くは家庭、広くは国家や時代との関連において捉えます。しかし、これらのいわば病因論は、"悪いのは誰か"という有責性の所在をめぐる議論、つまり罪責論であり、いずれも"狂気"=病(ネガティブなもの)という前提に立っている点で共通しています。しかし"狂気"を"病"として捉えることは、"狂気"の本質をぼかされてしまうという側面があります。今まで常識的には、"狂気"を社会からの逸脱=社会に対立するもの=社会の敵というふうに捉えていましたが、私は、これらを裏返しにした形で、"狂気"を市民社会に対する反逆、市民社会解体のエネルギーとして捉えたいと思います。」10


 三 何故差別されるか
 四 「身体障害」と「精神障害」
   ※「身体―」→行動範囲の縮小 「精神―」→行動範囲の「健常」者性からの逸脱
「もともと『健常』者性とは、当該社会体制に適応するための一定の行動範囲をいいます。それぞれが役割分担しながら当該社会において生産をあげるために合目的的な共通の行動範囲が画されており、これが『健常』者性です。『障害』とはこの合目的性に適合しないことであって、『身体障害』とは行動範囲の縮小による不適合性であり、『精神障害』とは行動範囲の逸脱による不適合性です。そして、『身体障害』の場合、行動範囲の縮小による生活力、労働力の低下が問題となるが故に福祉が重要な意義を帯びる必然性があります。これに対して、『精神障害』の場合も、やはり生活力、労働力の低下があるとしても、それ以前の問題として、行動範囲の逸脱による体制の危機が問題となるが故に福祉は背後に退き、行動範囲の制限=(強制)治療が第一義的問題となります。…」18

 五 反差別の闘いにむけて

「精神障害」者差別と「犯罪」者差別(『友の会』会報24号、1979年)
 市民社会における"非人"

�U 精神医療解体運動

患者にとって精神医療とは(『精神医療』8巻2号、1979年)
 一 「精神病」−「精神医療」をどう捉えるか ― 一つの視点 ―
 二 「精神医療」も医療なのか
「医療の本質は本人の救助にあることは今さらいうまでもありません。もちろん身体医療の場合でも、間接的には国家・社会、つまり周囲社会の利益になるという側面はあるとしても、それはあくまで第二義的なものにすぎません。医療が教育や福祉と共に絶対的な善であるかのように言われるのは、このような医療の救助性に基づいています。ところが『精神医療』の場合、この関係が逆転していて、第一義的には国家・社会の利益に奉仕するものです。にもかかわらず、同じ『医療』の名で呼ばれるのはペテンであるとしか言えません。」34

「…しかし『精神医療』の場合、『精神医療』は行われれば行われる程よいというのではなく、むしろ逆なのです。たしかに二〇年前の精神病院に比べれば、今の病院ではロボトミーやショック療法は姿を消し病棟開放も進行している点で、相対的には改善の方向にあるとはいえるでしょう。しかし昔の精神病院ではたしかに拘禁はありましたが、治療がほとんど行われなかったという意味で、身体的にはともかく精神的には自由であったといえます。ところが今の精神病院、特によい病院といわれる処では開放化もすすみ身体的な自由は拡大したといえますが、濃厚な医療が行われるという意味では『患者』の精神的自由は逆に縮小されたといえます。」46-47

 三 「精神医療」のいくつかの問題
「向精神薬については、それが抑圧・管理の手段として用いられていること、病院経営を容易にするために大量のクスリが投与されること、副作用の問題などが今まで言われてきましたが、より本質的にクスリをのむことの意味が問われなければならないでしょう。また医療一般における現代のクスリ信仰に対して高橋晄生氏をはじめとするクスリ批判は、おおむね有効性(有害性)、安全性の見地からなされていますが、特に『精神医療』の場合、薬物治療の本質こそが根源的に問題とされなければならないでしょう。つまりクスリが効かないことが問題ではなくて、実は効くことが問題なのです。」50

「たしかに人間と人間の関係は思想や生き方のレベルにおいても闘いや交流はあり得るしおおいにあるべきですが、その闘いや交流が精神科医−患者という絶対的強者−弱者の関係性のもとでなされるならば、それは人間と人間の関係、主体と主体の関係ではなくなってしまうのです。治療共同体において、『患者』は一見自立したかにみえますが、その共同体が(反)精神科医の主導によって成立したものであるかぎり、(反)精神科医の『患者』支配は形の上ではともかく、実質的には従来の精神医療以上に貫徹されることになります。」59−60

"病識欠如"の意味するもの ―患者の立場から―(『臨床心理学研究』13巻3号、1976年)
「"病気"とは一つの反価値判断です。それは『具合のわるい』とか『都合のわるい』という意味をもっています。この点については身体病も精神病もなんら異る処はありません。問題は誰にとって反価値か。誰にとって具合(都合)がわるいかということです。(中略)…これに対して精神病の場合は、主として社会(周囲の人)にとって反価値であり具合(都合)がわるいのです。」62

「病識出現とは何か。それは自己の存在への他者(健常者)の侵入を意味します。何故なら、病識出現とは、狂人の抗議の相手方である健常者の側からみた一つの洞察を押しつけられることを意味するからです。すなわち、病識出現とは自己の全面的否定であり、健常者社会への屈服、幸福、敗北を意味します。」65

「…健常者にとっての主観性の承認とは何を意味するか。それは狂人にとってのそれとは逆の方向で捉えられます。今まで健常者(治療者)は自己(健常者)の主観的立場を客観的と称して狂人に押しつけてきました。客観性を標榜する精神医学、それは実は健常者の側に立って狂人をどう処理するかという観点から構築された一つの主観的立場にほかなりません。もともと人間は皆主観的であるはずであり、それをある人々が自分たちは客観的だと僭称することができるのは、そういう人たちが力関係において優位を占めているというだけのことです。」68

専門家を退治しよう! ―権力としての専門性―(1980年)
 一 権力とは
 二 科学の人間支配
 三 精神医学的支配について
「もともと医学は診断―治療という二段階をもっていますが、従来の精神医学は診断学(症候学)のみで治療学は無に等しい状態でした。したがって診断によって病人とされた者は拘禁するだけということを結果しました。しかし最近になって"拘禁から治療へ"が合言葉となり、少なくともたてまえとしては病人とされた者は治療するということになってきました。この場合、拘禁が権力性をもっているのですが、治療もそれ以上の権力性をもっていることを見抜かなければなりません。何故なら、拘禁だけなら自分の現状を保つことがある程度可能なのに対し、治療とはそもそも人間全体の変容を目指すものだからです。」76

 四 患者にとって医者とは何か
 五 反―専門家について
「…彼らは自らが依拠していた専門科学を拒否しながらも、依然として専門家であることをやめない、ということです。すなわち専門科学は否定されたが、専門家は依然として残存するのです。そして、専門家は専門科学を拒否しようとしまいと、専門家であることじたいが権力なのです。」84

「…これまで、専門科学の否定といわれる時、第一の優者―劣者関係はそのままにしておいて、第二の二者関係の限定された範囲を否定して二者関係の全人的・包括的関係を形成することと捉えられていたきらいがあります。しかし、これでは治療者―患者間の優者―劣者関係、支配―被支配関係は今まで以上に強化されることになります。何故なら、これまである限定された範囲における支配―被支配関係であったのに、ここでは全人的包括的な支配―被支配関係が成立するからです。真の専門性の否定とは、治療者―患者間の優者―劣等関係をも否定するものでなければなりません。」85

医者権力と国家権力(『友の会』会報18号、1978年)

精神病院はいかにあるべきか ―精神病院から下宿屋へ―(1980年)
 一 はじめに
 二 収容所的精神病院の実情
 三 良心的病院の実情

 四 病棟開放化の意味
「ところで患者の側からの開放化とは何か?それは医療者がいうような単なる人権擁護のための開放化ではなく、ましてや治してもらうための開放化ではありません。患者にとって、開放とは、患者解放にむけての第一歩、あらゆる抑圧と拘束からの自由を求める第一歩であり、いうならば精神病院解体にむけての第一歩です。上からの開放は、人権擁護のための開放にしろ、治すための開放にしろ、おのずから限度があります。すなわち、たとえ鍵と鉄格子をとり払っても、クスリの大量投与とか、パトロールとか、社会常識の徹底化といった規制が加えられます。下からの開放の理念は、本来ならばあらゆる規制からの自由=解放です。もちろん、現実問題として私たち患者が病院側へ開放化を要求していく場合、現在の社会情勢の制約から、なんらかの規制がなければ病院側としては開放を維持できないという現実認識はもたなければならないのであり、その意味での妥協はやむを得ません。ただ、その場合、患者としては、治療のための開放よりも処遇としての開放のほうが相対的には望ましい、といえます。」104

「…身体病の場合、病とは器質的異常であり、その器質的異常を正常化するために治療が行われるのですが、大部分の精神病、すなわち内因性精神病の場合は器質的異常は認められず、周囲の人たちの、なおされなければならないという実践的要請を正当化するために"病"という名がかぶせられているにすぎないからです。…」105

 五 治療から相談へ
 六 社会復帰から自由保障へ
 七 まとめ
 ※社会復帰しない権利

�V 「精神病」者解放論
"きちがい"にとって"なおる"とは ―「される側」の論理―(『臨床心理学研究』14巻1号、1976年)

患者運動の視点 ―地域精神医療の対局にあるもの―(『精神医療』5巻1号、1976年)

「精神障害」者の人権(1980年)

愛と正義(『友の会』会報19号、1978年)

�W 対権力闘争
保安処分反対論の問題点(全国「精神病」者集団機関誌『絆』1号、1977年)
「…もしかりに幸いにして保安処分を阻止できたとしても、それによって健常者による精神病者差別が助長されるのであれば私たち『患者』にとって問題解決にはなりません。…」161

「病」者にとって保安処分とは(『精神医療』臨時特別号、1980年)
 一 保安処分とは何か
 二 保安処分と社会復帰
 三 保安処分に何故反対するか
 四 現在行われている実質的保安処分
 五 治療の思想と処分の思想

強制入院反対論ノート(『精神医療』5巻2号、1971年)

�X 反逆の原点

私にとって「精神病」とは何か(1980年)
 一 私の「精神病」体験
「つまり、正気の世界も狂気の世界も一種の捉われの世界であり、両者が異る点は、正気の世界が一定の社会的通用力をもっており、正気の世界にとどまっている方が当該社会において生きていく上で便利だ、ということにすぎません。…」208

 二 狂気の世界と正気の世界
 三 精神病不治説と狂気肯定論
 四 健常者と「精神障害」者のかかわり

反逆の原点 ―幼児期から現在まで―(1980年)
「…『精神医療』全国『精神病』者集団や友の会を知り、その仲間に入れてもらうようになったからです。/私と友の会とのかかわりは『精神医療』の書評欄にのっていた『鉄格子の中から』をまず買い、そこに載っていた友の会の連絡先に手紙をだすことからはじまりました。…」(吉田[1981:246])

cf.

精神医療の変革に向けて(森山公夫)

◆「薬の使用」に該当する箇所の抜き書き

p15
また、「精神障害」者が差別されるもう一つの原因として、クスリ服用による生産性の低下があげられます。現在使われている向精神薬は、決して“病”をなおすものではなく、神経を遮断し、頭をぼかすことによって、“異常な”行動を抑えるものですから、クスリをのむことによって、当然、頭の働きが鈍ってきます。それが「精神障害」者は動きが鈍い、あるいは、能率がわるい、として職場などから差別―排除される原因となります。

p35
 第二に労働力の再生産について。向精神薬の登場などにより「精神病」もなおる可能性が大きくなったとの認識から、「精神医療」の課題も隔離・収容から適応―労働力再生産へと徐々に移行
p36
しつつあります。

医療を商品として扱う制度、つまり医療資本主義のもとでは余剰金が必要であり、また医療資本と薬剤資本の癒着によって、医師は製薬会社のセールスマンになりさがっているという事実も指摘できます。

p48
向精神薬は麻薬か?
然り、麻薬である。
精神科医は「麻薬販売人」であり、そして私は「麻薬常習犯」である。

もちろんクスリ拒否と入院との因果関係を証明はできませんけれど、やはり入院しないためにはクスリをのむしか仕様がないと思うようになりました。それで一九七一年病院を退院してからは相当量のクスリ(フェノチャジン系一日二百数十ミリ)をのむようになりました(ただし自分で状態がよいと思う時は一日量を三分の二か三分の一に減らしました)。

その間の私は口喝、鼻閉などの副作用もあり、クスリをよいものとは思っていなかったのですが、正直言ってやめるのがこわかったのです。

その結果鼻閉も口喝も少なくなり気分も楽になりましたが、その代わり発想が以前のようは浮かんでこなくて平凡になってしまったように思います。私は「妄想」もまた一つの発想だと思うのですが、非生産的な発想(妄想)がなくなると同時に生産的な発想も枯渇してしまったようなのです。

私の親しい友人にはクスリに対して批判的な人が多いです。ある友人は、クスリをのむと人が変ったようになる、人間的な気持も適確な判断も批判的精神も全く失われ、人と接触しても細かい心遣いはできなくなってしまう、といいます。ところがクスリをやめるとしばらくよい状態だがそうながくは続かず結局は入院の危険にさらされるそうです。

p50
私はこれらの人に対して、クスリはあなたの問題を根本的に解決するものではないけれども、少なくとも応急措置として苦痛を和らげてくれる、と説く結果になってしまい、あげくはの果ては「お前は医者の手先か」と言われてしまうのです。

私もクスリに対する批判をもちながら、結局は事実上Nさんと同じように親しい友人にはクスリをすすめてしまう結果になるのです。

また医療一般における現代のクスリ信仰に対して高橋晄生氏をはじめとするクスリ批判は、おおむね有効性(有害性)、安全性の見地からなされていますが、特に「精神医療」の場合、薬物治療の本質こそが根源的に問題とされなければならないでしょう。つまりクスリが効かないことが問題ではなくて、実は効くことが問題なのです。

p51
 他方、クスリをのむ個人(本人)にとってはどうか? たしかにクスリをのむことによって苦痛は除去されることは多いですし、社会に適応できるということは生活―生産という面からすればよいことに違いないでしょう。しかしクスリによって本当の自己は失われてしまいます。クスリによって感情、意志などを統制することはどうみても異常な事態です。もし私たちの怒りや喜びや悲しさ、嬉しさなどを全部クスリで統制するとすれば、それはもはや人間ではなくロボットにすぎません。

クスリは人間的自然、本当の自己を失わせるという意味で実は麻薬なのです。

クスリは「病気」をなおすものだというのは一つの偏見であって、クスリはただ体の状態を生理
p52
的に変化させるだけです。なおるということは一つの価値判断なのですが、クスリをのむ側からいえば、クスリによって体の状態が変化するのは事実としてもそ の変化が好ましいかどうかは本人の意志にかかわる問題のはずです。

クスリは人間的自然を人為的に変えるという意味で、正常を異常にするものといえます。  私がクスリをのみ、他人にもすすめることがあるのは、クスリが「病気」をなおすもの、あるいは抑えるものだからではなく、ただ生活の便宜のため、便利だ からにすぎません。要するに、クスリをのむのがよいか悪いかは一刀両断的に決定できるものではなく、クスリが現実に自分に及ぼす作用を見きわめた上で、最終的には本人の決断に委ねられるべきでしょう。

p213
しかも、現在ではクスリによって状況支配が可能になるケースが多く、クス
p214
リを飲むことによって、いわゆる「精神障害」者も実質的な意味での健常者となっていることが多いのです。

p242
以前は暴力的な人が多い男子病棟の方が規制が厳しかったようですが、クスリによる抑制が行われているこの頃では、逆に女子病棟の方が規制が厳しいように見受けられました。
p245
退院してからしばらく、クスリをもらうためにたしか二週間に一度信貴山病院へ通院していました。私の経験からして、クスリをやめて入院、退院してクスリをやめて入院、ということを繰り返してきたように思いますので(もちろん誰も“発病”とクスリの因果関係を証明できない)、心理的にもクスリは私にとって欠かせないものとなっていました。つまり、クスリをのむことによって安心し、クスリに依存しているという現実が、残念ながら現在の私にもあるように思います。クスリはのまない方がよいとは決まっていますが、やはり現実世界に生きていくうえで便利だ、ということで麻薬と知りつつ飲み続けているのが実情です。

◆「精神障害者がグループを形成する時の困難な点」に該当する箇所の引用

p271 実のところ、全国「精神病」者集団内でも、この「革新的精神科医」との関係の問題をめぐっては、きびしい論争があるらしい。

「しかしながら、『医師からの自立か、医師との連携か』という形での問題設定は空疎でしかない。

p272
また医師からの自立志向を強めるあまり、『医師は敵対矛盾!』と短絡化させるのは明らかに誤りである。医師一般を敵だとみなすような捉え方は、現実の医師と患者の社会階級的立場を対象化することなく、医師と患者の関係を『加害者―被害者』と一面化させるという階級的視点の欠落した態度から生じてくる。」

■言及

◆立岩 真也 2011/10/01 「社会派の行き先・12――連載 71」,『現代思想』39-(2011-10): 資料

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


作成:樋澤 吉彦
UP:20070701, 20110912, 20130207
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