Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
HOME > BOOK >

『創られた伝統』

Hobsbawm, E. J.; Ranger, T. O. eds. 1983 The Invention of Tradition, England: Press of the University of Cambridge.
=199206 前川啓治・梶原景昭 訳,紀伊國屋書店 488p.


このHP経由で購入すると寄付されます

■Hobsbawm, E. J.; Ranger, T. O. eds. 1983 The Invention of Tradition, England: Press of the University of Cambridge. =199206 前川啓治・梶原景昭 訳,『創られた伝統』,紀伊國屋書店 488p. ISBN-10: 4314005726 ISBN-13: 978-4314005722 \4995 [amazon][kinokuniya]

■内容


■目次

■引用

4 儀礼のコンテクスト、パフォーマンス、そして意味――英国君主制と「伝統の創出」、一八二〇-一九七七年 デイヴィッド・キャナダイン

英国国教会の腐敗と権力に対しての批判の書=「黒書」

1820年…「黒書」は、王室儀礼について、人々が啓蒙されたのでばかげたものであり、うわべだけのまやかしにすぎないことが次第に露呈する点が論じられた。(p. 163)
その40年後、ロバート・セシル卿は、ヴィクトリア女王の議会開会を見て、好意的でない調子で、壮言さよりむしろ愚かな言行のほうが目立つことを内部情報に基づいて示唆している。(p. 164)

→今日の英国ではどうか
19世紀の頃より、はるかに高い教育を受けるようになった現代においても、この、2つの伝統的な儀式に対する批判的な言説が現実に成就されることはなかった。

それどころか逆に、イアン・ギルモアが述べているように「現代社会はいまだ神話と儀礼を必要とし、君主とその家族がそれを提供する」 (p. 165)

この2つの論説は現代では妥当ではない。英国の王室儀式の性格やコンテクストがその後変容し、これらの論説を見当はずれの予言にしてしまった。

I

イギリスの王室の儀礼は、一七世紀後半以来まったく無視されてきた。

→英国君主制の儀式的側面に関する草分け的研究は、事実の記述、解釈ともにほとんどすべて社会学者によって行われた。
方法論 マルクス主義 デュルケム派の機能主義的枠組み

本章における方法論…王室儀式を、歴史的コンテクストの中に包括的に位置づけることによって、儀礼の「意味」を再発見しようというものである。

この方法論における中心概念…儀式はたんに「 あらゆる主体、あらゆる客体、あらゆるコンテクストから切り離して内的構造によって」解釈してはならないというものである。(p. 167)
どうして、コンテクストの中に、位置づけて解釈しなければならないのか?

戴冠式のように繰り返される儀礼というようにテクストが時代を超えて原型をとめたとしても、その「意味」は、おそらくコンテクストの性質次第で大きく変化することが明白だからである。(p. 168)

彫刻といった美術品の場合、コンテクスト内の変化の結果として、意味が変容するが、儀礼や儀式の場合、パフォーマンスそれ自体が柔軟であり動的である。

つまり、王位継承に関わる承認式といった基本的テクストが不変であるのに、対して、実際の儀式は、まごつきながらやるとか、聴衆が、関心をもってみるか、あきあきしながら見るかによって意味がまったく異なってくる。だから、テクストのみに限定した分析は近代英国における王室の儀礼や儀式の「意味」について歴史的に説得力のある説明を提示することは望めない。

儀礼、パフォーマンスおよびコンテクストには検討すべき点が少なくとも10項目ある

  1. 君主の政治力(大 or 小)
  2. 君主の個人的人格と名声
  3. 彼が統治していた国の、経済的・社会的構造の性質
  4. メディアのタイプ、勢力範囲および姿勢である。
  5. テクノロジーとファッションの主な状況
  6. 君主が統治する国民のセルフ・イメージ(国外の視点における自己認識)
  7. ほとんどの王室儀式が行われる首都の状況
  8. 祈?式、音楽や組織の責任者の態度
  9. 実際に行われた儀式の性質
  10. 商業的活用の問題

このようなコンテクストに即した見方なら、社会学者より歴史的で説得力のある方法で、その意味を再発見できる。

→何故なら
社会学者は、1800年代以降の英国は「近代的な」「産業化された」「現代」社会であるとみなされ、その構造は所与のものとされている。

英国君主制の儀式的イメージの発展における四つの段階

II

1870年までの時期は、英国君主が最大限に、実効的な政治力を発揮できた時期である。

ウィリアム4世の場合…7年という短い統治期間に、内閣を3回解散させ、議会を政治目的によって、閉会期限前に2回解散させた。内閣に対しても、反対勢力と連立するよう3回正式に要求した。さらに、政治顧問に勝手に自分の名前を使うことを許可した。

ヴィクトリア女王の場合…1839年、ピール派の寝室つきの女官を受け入れを拒否することによってメルボーン内閣を人為的に延命させることに成功した。1951年には、外務省からパーマストンを解雇しようとし、アルバート公の死後は「内閣に対する、抜け目なく頑固で独断的な助言者兼批評家」でありつづけた。

王室の相変わらずの権力によって、大規模な王室儀式が受け入れがたいものになっていたにせよ、続く王室の不人気が、王室儀式を不可能にしていた。

→つまり
君主は、政治を超越して公正ではなく、政治・社会に積極的に関与し、儀式により高められた君主像を、国父像として提示できる機会は非常に限られていた。

新聞を取り巻く状況と姿勢も、王室儀式の発展にとって、もうひとつの障害となった。何故なら、新聞は、概して君主に批判的であり、このような状況の中で大規模な王室儀式は、大衆に共有された行事ではありえず、少数の人々の利益のために行われていた。

運輸技術の新党は、君主を社会から、超越させるどころではなく、ますます社会に関与させる役割を果たした。(ヴィクトリア女王の馬車は、フランス大使スール元帥の馬車に見劣りした)

→イギリス人は外国との競争意識に欠如し、反面、重要な国際競争の局面では、自国の優越を確信していた。

→この姿勢を分析することによって何故ロンドンは大規模な王室儀式の舞台として不適合なのか? また、何故イギリス人が積極的にそれをよしと認めたかを説明することができる。

ロンドン→「地獄の膿」とよばれ、他国の首都に比べ、私的な個人の力と富の記念碑が多かった。

このような自由と倹約への愛、虚飾への嫌悪は、壮大な王室儀式にとっては自殺行為だった。

問題

  1. 音楽監修
  2. 欠勤・無秩序・不敬な行為
  3. 儀礼に関する聖職者たちの関心の欠如

Ex. ウェストミンスター寺院では、ジョージ四世の戴冠式の際に、レンの作品である比類ない祭壇が取り外され品のないゴシック疑いの祭壇にかえられてしまった。

III

19世紀末から1870年代中ごろまでに行われた王室儀礼・儀式の実際と民衆の反応は、このような、君主の人気を欠いていたというコンテクストで捉えられる必要がある。

1852年のウェリントンの国葬に際して『イラストレーティッド・ロンドン・ニューズ』は、イギリス人はショーや祝祭の適切な運営方法を知らない国民だというように批判した。

→たとえば
19世紀初頭から1870年代中頃の間に挙行された大規模な王室のページェントの大半は、笑劇や大失敗の間を往来していた。

王室の威厳と儀式の見栄えはアルバート公死後20年間でどん底に達した。

→理由
女王の未亡人としての隠遁生活と皇太子に関わるスキャンダルが数え切れないほどの非難の種をまいた。

1863年においてもヴィクトリア女王は、議会の開会の儀式を拒否した。その後も彼女は拒否しつづけ首相のグラッドストーンは「無礼かつ大雑把な言葉を借りれば女王は透明人間のようだし皇太子は尊敬されていない」と遺憾の念を示した。

このように、第一段階の儀礼が魅力に乏しく不手際だったことは、儀式を利用した商業活動の規模が小さかったことからも伺える。

記念陶器という分野が1780年代定着したが、王室の人間の絵は少なかった。

市販用の私製メダルも同様であり、王室一家は不人気であった。

IV

1870年〜1914年の間に、英国君主の公的イメージに根本的な変化がおこり、かつての私的で貧相、かつ魅力に乏しかった儀礼が、公的で豪華、かつ大衆に支持されるものになった。

君主が徐々に現実の政治から手を引いたことによって助長された。

また、同時に権力が人気に取って代わるにつれて、大衆による君主礼拝が高まり、高揚した儀式は、以前では考えられないほど説得力のあるものに変わった。
ヴィクトリア女王の場合…もはや「ゲルフ夫人」でも「ホイッグ党の女王」でもなく、「歴代でもっとも卓越した君主」、「永久に崇められる名を残した」君主であった。
エドワード7世の場合…彼の贅沢な生活ぶり、旅行や趣味への情熱や夫人の美貌や魅力がすべて彼の短い治世の間、彼を優位に導いた。

【19世紀の最後の25年間における、経済・社会の発展によって、君主の地位は急激に変容し、ヴィクトリア女王とエドワード王の両者は、国全体の父権像として、政治を超越した地位に祭りあげられた。地方のアイデンティティーと忠誠心が著しく弱まるにつれて、ロンドンは再び全国に対する支配力を誇示し始めた】

☆メディアについて
国家の長としての新しい君主像を打ち出すにあたって、とりわけ重要な役割を果たしたのは、1880年のメディアの発達である。
要因:大衆紙の出現にともないますますニュースは全国化し中産階級的で自由主義な地方紙は、次第に全国版日刊紙に取りかわったからである。それはロンドンを基盤とし労働階級的なものだった。

運輸技術の変化について

1888年のダンロップによる空気入りタイヤの発明によって、続く10年間はサイクリング・ブームが巻き起こった。

1898年までにはイギリスの都市部の路面電車は千マイルを越えた。(1914年までにその数字は3倍に発展した)

→つまり
馬車は以前ように生活必需品ではなくなった。

このような状況下でかつてはどこにでも見られた君主の馬車は、当時からは想像つかないようなロマンティックな光彩を放つようになった。

国際的にも同じような傾向がめだった。大衆社会は、海外の正式な帝国の新しさに反映され、君主制という最古の国家制度と関連づけることによって、隠蔽され受容されやすくなった。

列強諸国は、自信のほどをもっとも目につきやすい方法で誇示するようになったので、増長しつつある国際競争は、首都の大改造に反映された。
一八八三年、ローマの都市計画では、パリの大街路や大通りの例に倣い、新国家にふさわしい首都の建造が試みられた。
ベルリンやパリやワシントンでも様々な記念碑や建物が、偉大さやプライドを強く主張するために、立てられた。

→このような国際競争の極みにあっては、先代のロンドンっ子たちが持っていたような、自分たちの貧相な首都を崇める自己満足やプライドはもはや維持することができなかった。

→このことによって
むさくるしい霧の街ロンドンを帝国の首都にふさわしく改造する処置にとりかかった。

1888にLCC (London City Council) の設立によって、行政官庁が誕生し、1908年に着工した大カウンティー・ホールの建設を実現した。

ホワイトホールの陸軍省、国会議事堂広場の一角にある官庁、メソジスト・ホール、ウェストミンスター大聖堂など、すべてが壮大で威厳あるたたずまいに一役買った。
(ロンドンでも、他の大聖堂と同様に、記念碑、記念像が急増した)

  1. メルの拡張
  2. アドミラルティ・アーチの建設
  3. バッキンガム宮殿正面の修復
  4. ヴィクトリア記念碑建設

このような進歩発展の国際競争は、儀式、つまり王室のページェントをいかに荘厳に公的に繰り広げられるかという点でも競い合った。また、ほぼ偶然であるが、イギリスにおいては音楽ルネサンスが同時進行した。
→ヨーロッパ各国の儀式の競争の例…pp. 194-195

上記と同じ頃、英国国教会の儀礼や儀式に対する姿勢も著しく変化した。

→ウェストミンスター寺院の聖具室係のジョスリン・パーキンスは以下のように語る

【はなはだしい混乱を招くような失敗は、ほんのわずかでさえも考えられませんでした。1838年なら文句なく容赦されたようなことでも、1902年には厳しい批判を受けることは必至でした。エドワード7世の厳粛な聖別式の際、礼拝と儀式は、すべての面で高い水準を達成することが肝心であると思われました】

【祭壇の端から端までほどこしのご馳走、聖餐用の酒瓶、杯の列でまばゆいばかりだった。十九世紀の素人同然の典礼係にとって、その場面は、注文品の花瓶、苦手な生け花など、まさに必要な教訓を与えてくれた】

V

第二段階にあたる、より念入りで喚起的な王室儀礼の準備は、国内、国外ともに著しく変革したコンテクストの中に位置づけられる。

イギリスでは、かつてないほど産業と社会状況が発展し、大衆新聞が大躍進したことから、豪華な儀礼な際には、常に全国民が敬意を払う、一体感と持続性の象徴として、本質的に新しい方法で君主が姿を見せることが要求され、それが可能になった。(p. 199)

→国際関係が次第に高まって
さらに「伝統の創出」が誘発されることになった。

ロシア、ドイツ、イタリア、アメリカ、オーストリアなどの国→こうした儀式の開花は実権を握る国家の元首に集中していた。
イギリス→儀式上は、権力は君主が握っているように見受けられるものの実態は、他方に移りつつあった。
・ヴィクトリア女王の儀式の際に、馬が急に走り出すというハプニングも、これまで多くあったが、このような災難はまれになり、それもまた即座に「伝統」 に組み込まれていった。

これらの、ページェントの成功は、パフォーマンスの改善に負うものであったが、とりわけ3人の人物が重要性をもっている。

エッシャー子爵レジナルド・ブレット
国家による大規模なページェントの企画すべてを取り仕切った
エドワード7世
エッシャーの助けを得て、彼は壮観であるとみなされ成功を得た。エドワードは、主権の象徴を身に纏い、臣下の前に姿を現すこと」に熱意を示した。
エルガー
エッシャーが、専門的知識と組織力を発揮し、エドワード王自身が熱狂と支持を引き出したとするなら、取るに足らない短命な存在だった典礼音楽を芸術とみなされる作品までに高めたのがエルガーだった。

これらの3人の人物のために、古い儀式が、上手に取り入れられ、新しい儀式が創り出されたため、英国君主の公的イメージは第一次世界大戦直前には根本的に変容していた。

産業化された大衆に対する君主のアピールが、たった半世紀前には思いもよらないほど拡大されたため、音楽や壮麗さと同様、マグやメダルに関しても、19世紀末の15年間と20世紀初頭の10年間は、「創り出された伝統」の全盛期をきわめたものだった。

儀礼に対する強調は、王族一族に限られたものではなかった。

「伝統の大量生産――ヨーロッパ、一八七〇〜一九一四』第7章(pp. 407-441)」

I

第一次世界大戦の三、四十年前に数多くの国々が大量に伝統の創出が積極的に行われた。
国家は市民の存在を規定し、特定の国の市民へと変えた。例:農民をフランス人に

国家の支配者集団からみた問題

→構成員の服従や、支配者にとっての国家の正当性をどうやって維持し確立するか?

→次のようなことによる

個人としての臣民ないし市民(せいぜい家長であるが)との直接的でますます遠慮会釈のない恒常的な関係が国家運営の中心となってきており、その事実そのものによって社会的従属を広範に維持してきた古い仕組みが弱められていった。(p. 410)

つまり、中世に見られるような権力のピラミッドによる自己認識のあり方が変容していった。

・近代化できなかった国家は、社会構造がほとんどかわらない、すなわち神によって支配されていた。いいかえるなら、近代化できた国家は、社会的ヒエラルヒーを弱め、新しい意味での中央の支配者との直接的な結びつきを強くした国家なのである。

新しい国家や政体の正当性がそれほど一般的に確立していなくても、大衆政治による挑戦は断固として斥けられた。(p. 412)

大衆の挑戦(宗教、階級意識(社会民主主義)、国民主義、排外主義を通して)は、政治的には、選挙の際に顕著に現れ、参政権を求めて、支配者側(君主制)に向けられた。

→その結果

選挙制民主主義の広範な進展と、その結果としての大衆政治の出現は、一八七〇年から一九一四年の時期に、公式な伝統の創出のあり方を支配した。(p. 413)

伝統の創出を特に急がせた要因

【自由主義的立憲体制と自由主義イデオロギーの両者の範型が支配していた】

自由主義的立憲体制…若干の経験的障害を選挙制民主主義にもたらした程度
自由主義イデオロギー…経済的成功と社会移動をもっともはなばなしく成し遂げていた
個人、商取引、階級的ヒエラルヒー、ゲゼルシャフト(社会)を体系的に選択するという方法によって、以前の社会において当然とされてきた絆や結合を弱め続けた。

→これらは、支配者階級を大衆が支持している限り政治的問題を起こさなかったが、しかし一八七〇年以降は大衆が政治にかかわり始めるようになり、大衆の支配者に対して支持するかどうかわからないことがますます明らかになった。

同時代の思想家達

【古代における、人間の観念的な側に注目した先駆者達:フレイザー、コンフォード(古代ヘレニズム)】

→これらの知見のポイント
(決して、個々の構成員の合理的な計算ではない、という認識が政治と社会についての学問的研究を変化させたのだった。)

大衆政治を経験したことによって、ブルジョア階級の幻想(すなわち、権力を一定に保ち、従属を自由に変えること)を引き裂かれ、社会革命によってようやく政治的民主主義という手段によって社会を支配することが常に必要だとようやくわかったのである。
(「市民の宗教」の必要性がここででてくる。)

→市民の宗教たる伝統を創出する必要があった。
例:選挙演説のとき、急進的社会主義者の首脳たちは、一七八九年や一七九三年の精神に訴え、あげく、第三共和制を賛美する歌を歌い、ラングドッグ州選挙区のワイン農家の利益に叶うように誓うこともあった。

→このことの逆説

伝統の創出は、第三共和制を社会主義と右派から守り維持するために必須の役割を果たした。(p. 416)

・ブルジョア階級が着手した、伝統の創出のための3つの主要な改革

  1. 創始者によって行われる初等教育が発達した(教会によって、農民を共和主義者にするということ)
  2. 公式的な儀式を作り出したこと
  3. 公共の記念碑を大量に作った

第三共和制が「創り出した」伝統

第三共和制は、第一共和制に特徴的だった特定の創り出された儀式(自由の木、理性の女神、特別の祭り)を公式にはさほど望まなかった。

フランス共和制が創り出した伝統の一般的なテーマのいくつかはフランス共和制自体のなかに認められるという点で第二帝政ドイツと興味深い対照をなしている(p. 420)

ドイツ共和制の主要な二つの政治問題

  1. いかにしてビスマルク(プロシア=小ドイツ)型の統一に歴史的正当性を与えるか
  2. いかにして民主的に、(大ドイツ・反プロシア、社会民主主義者)に対処するか

ドイツ帝国の伝統の創出

ウィリアム二世の時代と関連し、その目的には2つの要素がある

  1. 第二ドイツ帝政と第一帝政の連続性を確立すること(ドイツ国民の世俗的な国家的切望の実現として確立する)
  2. 一八七一年の新帝国建設においてプロシアとその他のドイツを結びつけた特定の歴史的諸体験を強調すること

→二つの目的の共通点【プロシアとドイツを結びつけた特定の歴史的諸体験を強調すること】

この目的を達成する上での2つの困難

  1. ドイツ民族による神聖ローマ帝国の歴史が十九世紀の国家主義者の固定観念になじみにくかったこと
  2. 神聖ローマ帝国の歴史によって一八七一年の結末が歴史上不可避なもの、少なくとも起こりうる可能性のあるものと示唆されないこと

→近代国家主義と結びつける二つの方策

  1. ドイツ国民がそれによって自分たちのアイデンティティーを定義し、それに対して国家としての統合を達成すべき、世俗的な国家の敵という概念によるもの
  2. 征服、ないし文化的、政治的、軍事的優位性という概念によるもの

一七世紀頃にドイツで立てられた石材建築や彫刻は驚くほど多く、目先のきく有能な建築家や彫刻家は財を成した。

一八九〇年代に造られ、あるいは計画された石造建築物
・ビスマルクの記念碑
・省略 詳しくは (pp. 422-423)
ビスマルクの記念碑の落成式のうちのひとつはドイツ帝国の郵便切手に歴史的テーマが使われる最初のきっかけを与えた(一八九九年)。

石造建築や彫像の蓄積における2つの考察

  1. 国民的象徴の選択について 
  2. 曖昧であるが軍事的には妥当な「ゲルマニア」
  3. ビスマルク記念碑の付属的役割である「ドイチェ・ミヒャエル」

「ドイチェ・ミヒャエル」は、国や国家としての表象ではなく、国民自身が目に留めるような国民の特徴を表現する意図を与えられていた。(要点:狡猾な外国人にこれまで搾取されてきた純朴さとひたむきと同時に、ついに立ち上がった時にならず者の策略と支配をくじくのに使われた肉体的強さの両方を強調)

ビスマルクによるドイツ統一の意義の重要性について

統一は新しい帝国の市民に持った唯一の国家的歴史的経験であり、その経験の中で普仏戦争がその中心であった。そして、ドイツが短くとも国家的伝統をもっているとするなら、それはビスマルク、ウィリアム一世、セダンという3つの固有名詞に象徴されていた。
普仏戦争の重要性について
一八九五年八月から一八九六年三月の間に十回以上もの普仏戦争二十五周年式典が行われた。
・戦争中の数限りない戦闘勝利祝典
・皇帝誕生日の式典や帝国皇太子の肖像を公式に掲げた記念式典
省略 詳しくは(p. 424)参照

フランスとドイツの改革の比較

フランスもドイツも新体制を設立するためにもっとも不正確で議論を呼ぶエピソードを強調した。(フランス=バスティーユ牢獄襲撃 ドイツ=普仏戦争)

相違点

フランス共和制
フランス革命がフランス国民とその愛国心という事実と性格、その限界を確立していたので、眼立って歴史的回想にふけるようなことは控えられた。
ドイツ
ドイツ民族において一八七一年以前には政治的定義も統一もなく、新しいドイツ帝国との結びつきも曖昧だったので、神話や民間伝承から速記漫画の主人公にいたるまでさまざまに敵による国家の定義がなされた。

ドイツにおける社会民主主義の興隆

ビスマルクが、社会民主主義者たちを、懐柔できなかったのは、このような自国を定義する時に内外の敵に強く依存したからであった。このことは、予期できないことではなく、反民主主義的軍事エリートや中産階級を支配階級に同化する政策を打ち出したのでますますありうることであった。

内における敵とは、社会民主主義者やユダヤ人であった。このことは、帝国の国家主義には利用することができなかったが、資本主義的自由主義とプロレタリアート社会主義の両者に対する煽動的な訴えを供することになり、両方から脅かされていると感じていた、低中産階級、職人、農民といった大衆を「国家」の旗の下に動因することもできた。

アメリカ合衆国と帝政ドイツとの類似した国家アイデンティティー問題

アメリカ合衆国の基本的な政治問題は、さまざまに異なる大衆や大量の流入者をどう融合させるか。

→創り出された伝統の役割
アメリカ人を作るという目的を達成するということ
移住者について…国家の歴史を記念する儀礼(独立戦争、感謝祭)を受け入れるように奨励された。
教育制度…アメリカの旗を崇拝するというやり方で政治的な社会化の道具に変えられた。
また、選択の行為としてのアメリカニズムの概念(英語を学んだり、市民権を申請する)と非アメリカニズムの概念を教える。
(この部分で、ドイツ同様、合衆国において、非アメリカ的、「祖国を忘れた」人々は、国民の一人としての自分の地位に疑いを投げかけた。

・労働者階級は、国家共同体のそうした不明確な構成員の中でも最大で最も目立った一群を形成していた。
この時期、労働者階級は外国人として分類されるからなおさら不明確であり、しかも新しい移住者の一団は労働者であり、少なくとも一八六〇年代以来、実質上すべての都市にいる労働者の大多数は外国生まれであった。

・非アメリカニズムの概念は、善良なる習慣的、制度的に確立された全ての信念を主張し全ての儀式を形式ばって執り行う人々に対して敵を提供した。

一七世紀における国家による伝統の創出の概観

君主制は、明らかな理由で王冠と結びつく傾向にあった。
・一八八七年のヴィクトリア女王の五〇年祭ジュビリーは大変成功をおさめて、一〇年後に再び行われ、王室や帝国の儀式の機会を鼓舞した。ハプスブルグ家では一九〇八年、ロマノフ朝では一九一三年にこの宣伝方法を発見した。
(このような、儀式は民衆のためのものであり、頂点であることを誇示するためのものではない。)

技術的には、支配者の影響力を強める目的で君主制を政治的に利用することと、議会制国家において王の象徴的役割を打ち立てる間にたいした差はなかった。(pp. 430-431)

方法

II

17世紀に創り出された最も普遍的な政治的伝統は国家(ステート)の成就であった。

大衆運動のいくつかは、(政治的カトリック主義、ナショナリズム)どちらかというと、伝統に非好意的で、枠組みの出来上がった、象徴的、儀礼的な装備を欠いた合理主義運動の中で伝統の重要性は一層際立った。

伝統の方法を研究する上での良い方法…社会主義労働運動の起こりを研究すること

合衆国…メーデー(一八九〇年)は驚くほど短期間に自発的に生じた。
ヨーロッパ…便宜上の理由で日を設定し、労働者の祭典という概念は思想的根拠という点でさまざまな革命的先頭車によって積極的に否定された。

アンドレア・コスタの言明
「カトリック教徒にイースターがあるように、労働者たちには彼ら自身のイースターがあるだろう」
このようにメーデーの諸説は奇妙にカトリックと融合した。一八九八年には「全世界のプロレタリアートの合一を」と「互いに愛し合うべし」というスローガンの木が並べられた碑文として残された。

☆赤旗は労働運動の唯一の世界的な象徴だが、最初から存在していた。しかし花を象徴するような国もあった。(オーストリア=カーネーション ドイツ=紙で作られたバラ フランス=野ばらひなげし)

・メーデーは毎年恒例の中身の濃い儀礼へと急速に変貌していき、諸階層の要求に一致するものだったが、次第にメーデー本来の政治的内容(八時間労働の要求)は必然的に廃れ労働者階級の不特定の主張やラテン系の国では「シカゴ殉教者」記念にとって代わられた。

→残された要素
デモの国際化と同時開催がなされた(極端な場合一九一七年のロシアのようにメーデーを世界中の国々と同じ日に設定するために、自国のカレンダーを廃止した)

・メーデーは労働運動の指導者たちによって正式に創り出されたものではなく、指導者の追随者が率先して行ったものが、指導者たちによって受け入れられ制度化されたもの。
→このような伝統の(大衆への影響の)強さはその、敵によって高く評価された。

Ex. ヒトラーは、象徴主義に鋭い感覚をもっていたが、労働者の旗の赤色だけでなく、メーデーをも取り入れることが理想的だと気づいて一九三三年にメーデーを公式な「国民労働の日」にし、メーデーがプロレタリアートを連想させないようにもした。

メーデーとそれに似た労働者の儀礼は「政治的」伝統と「社会的」伝統の中間に位置する。すなわちそれらは、体制や国家になりうる。

→「労働運動」は独自の伝統を発展させたが、それは必ずしも選挙民や信奉者ではなく、指導者と軍事家によって共有され、逆に労働者階級は組織された運動とは別の、活動家の目には疑わしい「創り出された伝統」を発展させたであろう。

→時代の産物である二つの事例

  1. 英国の階級を示す衣装の発生(プロレタリアが非番の時に身に着けた「アンディ帽」について)
  2. 大衆スポーツについて(上記のような帽子は中上流階級で行われていたスポーツが起源である)

他国におけるプロレタリアの服装やスポーツの歴史

ベルリンで一九三三年に行われた最初の国民社会主義者のメーデーでは、服装について、政治的意味をもっていた

プロレタリアの大衆的儀式として採用されたスポーツ(特にサッカー)は、一八七〇年代半ばから一八八〇年代の中期または後期の間に今日知られているあらゆる制度的、儀礼的特徴を獲得した。(p. 438)

このことが人々につなぐことができ、サッカーファンであることが、都市の労働者階級の特徴になった

■書評・紹介


■言及



*作成:中田 喜一
UP: 20091019 REV:
  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)