『二十歳もっと生きたい』
福嶋 あき江 19871113 草思社,222p.
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福嶋 あき江 198711 『二十歳もっと生きたい』,草思社,222p. ISBN-10: 4794202989 ISBN-13: 978-4794202987 1365
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■出版社/著者からの内容紹介
15年間の療養生活を送っていた筋ジストロフィーの少女が、社会の中で生活することを夢みて、もっと世界を知りたいと車椅子でアメリカに留学した感動の記録。
内容(「BOOK」データベースより)
15年間、入院療養生活を送った、筋ジストロフィーの少女は、もっと世界を知りたいと、車椅子でアメリカへ渡った。ある少女の生の闘い。
■引用
プロローグ 002-016
「誰かがうめきます。
「身体の位置を直してください」△002
もうすぐ起床の準備なのでしょうか。誰もとりあってはくれません。二人の夜勤看護婦対四〇人の患者の心の駆け引き。放り投げるように足の位置を変えていく人もいます。
しかし、どんな荒い扱われ方をされても、うっ血したしびれの苦痛よりはましでした。身体の位置が変わればスーッと血液が流れます。」(福嶋[1987:2-3])
「三時になると、入浴以外の日は、機能訓練に当てられています。屈伸運動、階段の昇り降り、歩ける子は廊下の往復などです。日々動くことが症状の進行を少しでも遅らせる、と言われていました。訓練の時間を知らせるのは軍艦マーチでした。職員の中には、四這いになって、一緒にやろうとする人もいましたが、白衣の腕を組み、高い位置から監視しているような人もいました。
何のための訓練だったのでしょうか。疲れれば、心臓に負担がかかるだけです。訓練によって長生きが保証されるわけでもありません。看護の人たちの休憩時間を確保するための訓練時間だったのではと、疑い深くなってしまうのもやむをえないことでした。」(福嶋[1987:13])
「九時。消灯です。本が読めないので隣のべッドの人とヒソヒソ話をするのが精一杯でした。そして真夜中の体位交換です。一一時、一二時半、二時、四時――二時間おきと決められています。
体調によっては時問外に身体が痛くなることもあります。人間は起きているときでも同じ体位でいるのは一五分が限度と言われています。眠っていても、これより少し長い程度ではないかと考えられます。自分で身体を動かせない私たちは、人の手を借りて体位交換をしてもらわなければなりません。体位交換は呼吸と同じなのです。
ナースコールを押します。ナースステーションには誰もいません。
闇の中、仲間の寝息がやけに大きく聞こえます。△015
「看護婦さーん」
ためらい、そしてせつなさ――
皆が起きないように、看護婦さんだけに伝わりますように――。他の部屋からも呼ぷ声が聞こえます
規程の時間まであと少しというときには、ラジオの深夜放送を聞いて待ちます。一分が一日ほどにも長く感じます。呼ぶ回数が多いと、甘えていると解釈され、他の人に迷惑だと注意されます。
足のしびれ、お尻の床ずれ、肩の痛み、頭のしぴれ――夜は苦痛のためにありました。
そして、再び朝――。
「おはようございます」」(福嶋[1987:15-16])
第一部
1957 誕生
196404 小学校入学 ([28])
19660517 姉が国立療養所下志津病院に入院
19660608 3年生・入院
名前 019
学校 028
家族 034
入院 038
「四一年〔1966〕四月、わが家に児童相談所からケースワーカーがきました。学校からの帰り道に、一人の見知らぬ人が立っていました。
「福嶋清作さんのお宅はどちらですか?」
私の歩きかたは筋ジス者に特有のひきつれを起こしていました。彼は一目見て、私が誰なのか、わかったと思います。
姉は中学生になっていました。母がおぶったり、自転車で通学するには身体も成長し、学校までの距離も遠くなりすぎました。自転車と一口に言っても、全身性の筋ジストロフィーの場合、揺れる荷台で自分の身体をささえたり、サドルにつかまっていられません。小学校までは母が姉を荷台に乗せて、右手で姉の背をささえ、左手でハンドルを操作しながら、自転車を押して、歩いて通学していました。小学校よりもはるかに遠い中学校まで、同じように自転車で通ったら、何時間かかるかわかりません。姉は、就学猶予の措置を受け、家で自習をしていました。
一日中、一人で部屋に残されていた姉を不欄に思ったのでしょうか。両親が相談に行ったのか、近所の人がたまりかねて通報したのか、正確ないきさつはわかりませんが、ケースワーカーが家を訪ねてきたのです。△038
その数日後、姉は、千葉県四街道市にある国立下志津病院に入院しました。呼吸器の弱かった姉は、それまでにも何度も入、退院を繰り返してはいました。しかし、そのときの入院は、どこかちがっていました。それまでの風邪や、高熱、肺炎などによる入院のように、短い期問ではなさそうなのです。
「入院すれば、学校だって行けるし、身体がよくなる訓練もしてくれるんだと。姉ちゃん、このままだと、勉強もできねえし、学校にも行けねえでかわいそうだんべ」
母は、治るとは決して言いません。
姉は、五月一七日、アッと言う間もなく私たちの前からその姿を消してしまいました。
幼い頃、神奈川に海水浴に行ったのがたった一回の遠出だった私には、千葉県ははてしな<遠い異国のように感じられます。
「おまえも入院しないか?」
病院から帰ってきた母の言葉は私をうちのめしました。
姉だけに特別の出来事と思いこんでいた入院は、私自身にもふりかかってきたのです。
「今ならぺッドがあいているそうだ」
「病院には同じ病気の子がたくさんいるし、姉ちゃんだっているから淋しくないがね。学校の先生だって、毎日病棟まで勉強を教えにきてくれるそうだ。今日、行ってみたら看護婦さんもやさしそうな人ばかりだったよ」
両親にそう告げられてから、私は毎晩のように夢を見ました。△039
[…]
下志津病院は四街道から約三分、広大な原野にたたずんでいました。病院にたどりついたときには午後の陽ざしに変わっていました。
下志津病院は、かつて結核療養所だったそうです。戦後の復興とともに、緒核患者が激減したために、その施設を筋ジストロブイーや重度心身障害者、ぜんそくなど慢性疾患に苦しむ子どもたちが使うことが法律で決められたばかりのときでした。
板張りの渡り廊下を歩くとミシミシときしみます。それまで通った群馬大学付属病院や、前橋の中央病院のほうがずっと明るく、近代的でした。木造の古い病棟の印象は最初から重苦しいものだったWです。私は何か裏切られたような感じに襲われ、憂鬱になってしまいました。
そんな中にあって筋ジス病棟だけは、新築間もない鉄筋二階建て病棟でした。階段を上がっていくと、上がりロにもっとも近い病室のガラス窓に姉の懐かしい笑顔が見えました。
[…]
下志津病院は、仙台にある西多賀病院とともに、全国に先がけて進行性筋萎縮症者療養等給付事業として、国が医療費の助成を始めた病院です。それまでは、筋ジスの子どもたちが入院できる病院はありませんでした。収容施設の指定を受けると同時に、それまで家に閉じこもって、学校にも行けなかった子どもたち、家族の枠のなかでできる介助によって辛うじて生きながらえてきた子どもたちが、関東各都県、遠く信州、新潟から、先を争うようにして集まってきました。
病院で働く職員たちも新設の気概にあふれていたのでしょう。やれることがあれぱ何でもやろうと、さまざまなプログラムが試みられていました。△044
機能訓練の時間には、看護婦さんの力を借りて、足の屈伸、手の屈伸、さまざまな道具を使って硬筋を防ぎ、筋力維持のためによいと思われることはすべてやりました。筋力が落ちてくると、伸縮を可能にしている筋も抵抗力のないほう、楽なほうへとばかり、詰まっていってしまいます。筋ジス者の体形がそれぞれちがうのは、その人の筋の強弱によると考えられています。
学校は、それまでのぺッドスクールから発展し、古い木造病棟を改造した県立四街道養護学校に決まりました。新設間もない学校です。三年生の教室には、結核やカリエスで入院している子どもたちもたくさんいました。
それまで病気のために通学できずにいた高野岳志という同じ学年の少年が、私が入院した二日後に入院してきました。彼は万事において積極的な性格で、頭もよく、病棟の子たちともすぐにうちとけ、仲よくしています。授業でも活発に質問をするなど人一倍目立つ子でした。
私は彼に負けまいと、一生懸命に勉強にうちこみました。彼はその後、何かにつけて私のよきライバル、友となっていきます。」(福嶋[1987:-45])
きずな 046
進行 052
「ある日、風邪をこじらせて、しばらく個室に入っていた子が、いつの間にか退院したというニュースが病棟に流れました。荷物もすでに運び出したあとだと言います。しかし、治ったという話は聞きません。誰も彼の退完の姿を目撃してはいないのです。
強いて言葉で語る人はいません。でも、彼が亡くなったのだと誰もが知っていました。
また、私たちが深い衝撃を受けたのは、ある少女雑誌の読みきり小説でした。ストーリーは、まつたく普通の学園生活を送っていた少女が、ある日、スポーツをしている最中に突然倒れるところから始まります。少女はあれよあれよという間に歩けなくなってしまうのです。そして、医師から筋ジストロフィーであり、原因も治療法もわからないため、二〇歳前後までしか生きられない、と宣告され?てしまいます。物語は、その少女の、愛と友情にささえられて生きる闘病の記録でした。少女の苦しみ、家族の悲しみ、それぞれの苦悩と葛藤が感動的に描かれています。
「オーバーだよな」
「こんなに早く歩けなくなるわけないよ」
「二〇歳で死ぬんだってよ」
「美しすぎるよ」
皆それぞれの体験に照らし合わせて批評しています。でも、その少女は、家族にみとられて死んで△053 しまったのです。
その日から、病棟では病気の話はタブーとなりました。一人の姿が消え、また新しい子が入院してきます。誰も死という言葉を口にしません。
私の病気も日を追って、着実に進行していきました。去年できたことが今年はできません。自分の努力だけでは歯止めをかけられないのです。私の肉体の機能は、たしかに少しずつ失われていきます。
入院して二年目、小学校四年〔1967年〕の春、バランスを崩してころぶことが多くなりました。五月になると、前のめりにころがり、初めて顎の先を切り、何針も縫いました。
六月、再びころんで顎をしたたかに打ちました。五月にはころんでも起き上がれたのに、いくら足を突っ張らせ、力をふんばってもころびます。再び出血、同じところを何針も縫いました。
[…]
冬、ころんで顎を切った日を境に、私は歩くのをやめました。
「もう、危ないから、歩かなくてもいいわよ」
看護婦さんに制止されました。意地でも自ら歩くのを放棄したくはありません。歩きたいという意志、父や母祖母をガッカリさせたくないという気持ちが強かったのです。それに加えて、歩けないというのは訓練を怠っているから、という病院内に漂うムードに抗したかったからというのも本音でした。
当時、筋ジスは訓練によって進行を抑えられると考える医療関件者が多かったのです。もちろん後になって、そんなに単純ではないと否定されましたが。看護婦さんの静止は私をそれらのこだわりから解放してくれたのです。
私の任務は終わりました。自力でできる努力はやりつくしました。
しかし、私はもはや二足歩行ができません。人間が動物から進化した大きな飛躍――それこそが二足歩行です。這って移動すると、歩くときのニ、三倍の時間がかかります。
その日から、水分を控えるようにしました。トイレに行く回数を減らすためです。団体生活の基本は時間の厳守であると、徹底して言われていました。時間に遅れると、悪い子のレッテルを貼られます。△055
[…]昭和四五年〔1970年〕、私は中学生になりました。身体の変形が進みます。歩装具をつけても歩行ができません。起立だけが、、かろうじて人類の残滓でした。四這いの格好も、腰部が異常に陥没、お尻と肩だけで目立ちます。
昭和四六年、床から車椅子によじ昇れなくなりました。歩装具をつけての起立訓練も自動的に停止。
秋、風邪などをひいたとき、喉につまった痰を吐き出せません。吸引器を利用しなければ呼吸が困難になります。風邪の治りも悪く、三力月間も侵たり起きたりの状態がつづきました。
風邪の治った日の朝、四這いもできない自分を自覚したのです。
[…]
昭和四七年〔1972年〕春、車椅子を自力で動かせなくなりました。医師の判断で、私はべッドスクールへと移行させられました。」
大人 058
「ある日、恐ろしい噂を聞きました。
他の病棟の女の子二人が子宮摘出手術を受けた、と言うのです。この二人は、先天性筋ジストロフイーで、知恵遅れでもありました。帰省明でもないのに、二人とも長期外泊をしているのは、よその病院で手術を受けているからだと言います。
私たち女の子は動揺しました。
「嘘でしょ?」
「よくわからないけど、ある人がね、あれがあっても仕方ないし、本人にも苦痛だからって親にも勧めたみたいよ」△060
生理などないほうがいいと思っていた私でしたが、それは真実ではないと気づきました。〈女〉として生まれた性を、他の人間の一方的な判断で変えてしまう――。
結局、噂の真偽をたしかめることはできませんでしたが――。」
父 062
197110 父死去(福嶋[1987:62-72])
進学 073
▼「中学を終えると、病棟の子どもたちは〈病棟の卒業生〉と呼ばれます。そして、卒業後の進路の選択を迫られます。選択といっても、〈家に帰る〉か〈病棟に残る〉のどちらかしかありません。
ネフローゼやぜん息の子で退院できる子は普通校を受験し、進学します。また、退院できない子のために、この年、一般疾患の生徒を対象にした養護学校の高等部が新設されました。筋ジスでも、自分で進学できる人に限り入学が許されます。
しかし、医師の決定により、中学三年生以来、私は病棟学級に移されていました。病院と同じ敷地にある学佼までは、歩いてニ、三分しかかかりませんが、体力的に登校不能だというのが、その理由でした。表向きはどうあれ、車椅子を押して通学させる人手がないというのがその内実でしよう。
父亡き今、私には帰る家はありません。私は一生を病院ですごさなければならないのです。
病院では、職員に憎まれると、生活のさまざまな場面で支障をきたします。憎まれたくない、そう考えると相手を批判したり揶揄して、トラブルになるような言動をつつしむ習性が、知らず知らずの考えると相手を批判したり郷愉して、トラプルになるような言動をつつしむ習性が、知らず知らずのうちに身についてしまいます。この防衛の姿勢は徐々に強くなり、自分自身の意見を発表するのさえ躊躇するようになってしまうのです。
意見を言わないと、不満が鬱積します。鬱積はいらだち、愚痴となって表情に出てきます。それが△073 いやなら、自分の意見など持たなければいい――思考の停止です。生き延びるために考えることをやめます。
私には、病院に対し、高校に進みたいと申し出る勇気はありませんでした。せめて勉強だけはつづけようと、ある高等学校の通信教育生になりました。
[…]△074[…]△075
ある日、同い年の高野岳志君が私の部屋を訪ねてきました。
「勉強、進んでる?」
「全然――」
「偉いよねえ、一人で勉強しているんだからさ。高等部に行っている奴らなんか勉強してないよ。矛盾してるよね」
「そんなことないよ。自分でやらなければ進まないからやっているだけだもん」△076
彼には理解ある両親がいました。病状は私と同じくらいなのですが、電動車椅子を買ってもらい、高等部に通っています。
「でも、羨ましいけどね。わからないことがあれば、すぐに先生に質問できるし、一緒に勉強できる友だちもいるんだから」
「そうだね、じゃあさ、俺、高等部の先生に言ってみるよ。病棟に高等部があったら、福嶋さんだけじやなくて、いろんな人がもっと勉強できるじゃない。来年卒業する子たちだって、きっと入りたいはずだよ」
トラブルにならないように、目立ちたくないと逸巡している私を尻目に、高野君はさっそく高等部の先生に提案してくれました。
高等部の先生は、もっと皆の意見を聞きたいと言いました。高野君は、週一回のミーテイングの際に、さっそく〈病棟高等部設立に向けて〉の問題を提起しました。
「中学までの知識や経験では、自分が可をしたいのか、何に向いているのかわからないから、もっと教養を身につけたい」
「自己を高めたい」
「写真をやりたいけど、その前にもっと田識を身につけたい」
「作詞、作曲をしたいから、基礎知識を身につけたい」
「福祉の勉強をしたい」
「中学までは、学校も休みがちだったし、授業時間も足りなくてあまり勉強できなかったから」△077
「肉体的な生産活動は絶対に無理だけど、精神的活動ならできる。そのために、もっと一般知識を身につけたい」
それまでは言わなかった自分の希望を、病院生活に対する不満をまじえながら、それぞれ自由に発言しました。皆、悩んでいたのだ、そう思うと病棟の仲間を身近かな存在に感じます。この動きは鬱積していた皆の支持を得て、一気に広がっていきました。
陳情書は、当面もっとも具体的に高校を切望している私が、代表して書きました。
高等部設立となると、県の教育行政予算にも影響します。PTA役員会に陳情書を提出、教職員会での説明、病院長との折衝などを経て、二学期の終業式には署名活動が始まりました。人前で話した経験のない私には緊張の連続でした。高野君はものおじせずに、堂々と訴えます。彼に励まされ、引っこみ思案の自分を反省せざるをえません。
私たちの要求は快く受け止められました。翌三月、病院高等部が設立されました。
▼高等部設立運動の背景には、高野君ら数人の病院自治会設立への意志がありました。そのめざすスローガンは、〈充実した病棟生活を求めて〉〈病因究明と治療法の確立を目指して〉という二本の要求を柱にしていました。
会の名前は「志向会」と決まりました。筋ジス病棟における自治会設立の動きは、仙台の西多賀病院、四国の徳島療養所で始まり、後の国立筋ジス病棟における自治会設立の動きは、後の国立筋疾患研究所の設立運動の芽となったのです。
当時の総理大臣は田中角栄氏でした。陳情に通った私たちの願いをすんなりと受け入れ一〇〇億円△078 の予算を組み、研究所設立による病気撲滅の国家的努力を確約しました。
しかし、確約もむなしく、田中首相は予算案の国会提出を前にロッキード事件で対陣してしました。期待していた研究所の規模も内容も大幅に縮小されてしまったのです。
「前の大臣がお受けしたことですから」
私たちの、一瞬燃えたはかない夢でした。せめて、私たちが生きている間に病気の原因がわかれば――それは無理、幻の夢だったのでしょうか。
自治会の運動はつづきました。志向会もハガキ一枚運動を始めました。首相や大臣、研究者あてに自治会の運動はつづきました。志向会もハガキ一枚運動を始めました。首相や大臣、研究者あてに私たちの願いを書いて送るのです。その願いとは、〈不治の病〉などと言わず、病因をつきとめ、進行を抑える治療薬の研究、開発に努めてほしい、というものでした。
たった一日、広い野原を思いっきり駆け巡りたい、大きな海で泳ぎたいだけなのです。自分の足で大地を踏みしめ、自分の手で花を摘みたいのです。人に〈お願い〉せずに食事をし、勝手に眠り、働きたい――それが私たちの願いでした。
幼い頃からテレビのドキュメンタリーにとり上げられたりして、筋ジス者としての生き方を模索してきた高野君は、考えうる新しいシステムの一つ一つを要望し、自ら実験的に試みるなど、その力量が突出していました。外部との折衝にも熱心で、発言の場を求められれぱ進んで出ていきました。
病棟暮らしの長い私たちには、〈自台〉とは何かもわかっていません。高野君を理解するには、世間知らずだったのでしょうか。外交よりも病棟内の実生活の改善を重視しようという理由で、私が二△079 代目の自治会長に選ばれました。▲
病棟の雰囲気は婦長の姿勢によって決まります。私や高野君のいる七病棟の婦長さんは自由な考え方の持ち主でした。
ある日、高野君が中心となって始めた「千葉福祉を考える会」で、筋ジスの子どもたちのドキュメント映画「車椅子の青春」を上映することになりました。会場は病院近くの公民館です。会のほうから志向会に講演を依頼され、その際、病院生活などの話を聞きたいと申しこまれました。
四街道市に住んでいながら、私たちはこの町について何も知りません。地域の人たちとも交流をと皆で話し合いました。上映は三回おこなわれるので、各病棟から一人ずつ挨拶をしようということになりました。私は会長として、各病棟を回り、外出許可を申請しなけれぱなりません。
外出の目的、時間、メンバーのローテーションなどを表にして申しこみに行きました。
「がんばってね」
七病棟の婦長さんは快く了承し、励ましてくれました。気をよくして次の病棟に行きます。
「そんなこと一言も聞いてないね。こちらは責任があるんだから、ただハンコを捺すわけにはいかない。何かあったらあんたに責任がとれるの? いつからそんなに偉くなったの? 今すぐ許可を出すなんてわけにはいかないわね」
後で、生活指導員の人から、要望書を出すための手続き、お顧いの仕方について諭され、私の側の悪い点をある程度は納得しました。しかし、そのときの婦長さんの叱責のすさまじさに、私たちには自由がないと悟ったのです。△080」
窓の外 081
アマチュア無線
直視 088
「悩み、苦しんだとしても、病院が私の生活の場なのだとの自覚は、しだいに深まっていました。生活、生きる場であるということは、死の現場でもあるはずです。私たちは死にもっとも近い場所にいながら、知らぬふりをして、禁忌としてきました。
その生活姿勢の象徴が、仲間の死を知らされないという習慣です。一五年の病院生活の間に、私は約一四〇人の仲間を見送りました。私たちの自治会が申し入れるまでの一〇年間は、仲間が亡くなっても、病院の職員は私たちには知らせません。遺体は食事の時間を見計らって、外に運ばれていました。
私たちは、追悼式をしたいと思いました。親しかった友人が一室に集まり、写真に花をたむけ、生前の思い出を語ろうというのです。追悼を重ねることで、私たちは、自分が必ず死のときを迎える境自にあると悟りました。
「彼、昨日亡くなったんだって。今日、出棺だっていうから、代表者だけでも焼香に行かないか? 福嶋さん、婦長さんにお願いしてみてよ。きっと許可してくれるよ」
アマ無線の仲間が亡くなったとき、高野君が提案しました。
「あなたたちは大丈夫なの?」
婦長さんは私たちを気づかい、小さな子たちーの心を刺激しないようにと言って、許可してくれました。△090
初めて入った霊安室は、暗く、寒々と陰気でした。黒白の幕がやたらに目につきます。棺には花に埋もれるように仲間が眠っていました。」
詩集より 094
第二部 101
自由 103
1980夏
▼「静岡に遊びにこないか?」
久しぶりに、静岡の施設に就職した加藤祐二さんが病棟にきました。学生時代、ポランティアとして病院にきていた彼は、私たちに最新の障害者の生活、運動、行動などの情報を教えてくれる友だちです。
「ひまわり寮っていうのがあってね、筋ジスの人が一人、脳性麻痺が二人、それに健常の独身者が一人、一所帯の家族が一緒に生活しているんだ」
彼の話に、いつも私たちは夢をふくらませまず。
七月の終わり、太陽が照りつける日、私たちは新幹線で静岡を訪ねました。静岡駅には、車椅子用のエレべーターがありません。四人のボランティアで、四人の電動車椅子を運ぶのは重労働です。駅員さんが手伝ってくれました。
数日間滞在し、彼らの暮らしぷりを見せてもらいました。
「内職や駐車場の管理料で、生活費は間に合うんですか?」△106
「健常者なら、もっと安定した割りのいい職業があるんじゃないかな?」
「同じ屋根の下で、四六時中一緒では、息が詰まって、険悪な関係になったりしませんか?」
思いつく限りの質問をしました。しかし、彼らは屈託なく笑うだけです。
「やってあげたいんじゃないもの。やりたいからやっているんだから」
そこには、障害者の周辺にありがちな悲壮感や、気負いがありません。
「僕たちの病気は進行性なので、末期には特別な医療を必要とします。そのとき、地域の医療体制は十分なのでしょうか?」
高野君の筋ジスに関する知識は医者も舌をまくほどです。冷静で、客観的な知識を持っていないと、正当な医療を受けられない、これが彼の患者学です。
「施設を出たのは、畳の上で死にたいからさ。だから行動した。そんなもんだよ」
「筋ジスは頭で考えてるだけで、なかなか行動しないんだよな。脳性麻痺は考える前に行動するけど」
静岡から帰った高野君は、さっそく千葉福祉を考える会のメンバーとともに病院を出て、自立生活の準備にかかりました。加藤祐二さんも、ともに行動しようと施設をやめました。△107▲
退院 108
高野君に次いで、私も病院を出る決意を固めました。
しかし、私には、帰る故郷も、受け止めてくれる友人もありません。そんなときに知り合ったのが埼玉県浦和市在住の三島典子さんです。彼女と知り合ったのは、通信教育のスクーリングでした。大字生だった三島さんは、浦和市市役所に就職してからも病院を訪ねてきたり、私も彼女の介助で彼女のアパートに泊りに行ったりしていました。
「同じ年代の人たちが、あの狭い世界で生きている。夜、パジャマにも着替えられないなんて、自分だったら、とても耐えられないと思うわ」
退院の希望を告げた日、三島さんは、私の決意が決して無謀ではなく、人間としてごく普通であると同意してくれました。
病院を出て、私自身の生活を始める――この決意を具体化しようと考えていくうちに、つづけていた英語と、加藤さんが以前に言っていたアメリカの障害者が実行しているという自立生活センター(Center of Indipendent Living)の活動を実際に自分の目で見、体験したい、という願いがつながったのです。
私は会う人ごとに、アメリカの夢を語りました。△108
1980 ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)のプログラムに応募
1980?01試験受ける 合格(111)
出発 112
19810729 出発(112)
バークレー、憧れの町 115
なんとかなるさ、二人
アメリカ滞在も約半年、なかなか筋ジスの人に会う機会がありません。
いろいろと見学して回りましたが、私自身が気になるのは、やはり同病の人たちです。そこで、日本で聞いていたロサンゼルスのランチョロスアミーゴ病院を訪ねました。
この病院には、呼吸器系の病棟に六人の筋ジス者が入完しています。六人とも年齢は三〇前後です。彼らの障害の程度は見るからに最重度でした。全員、車椅子の背中に、人工呼吸器を乗せています。呼吸器の管が彼らの鼻に接続してありました。車椅子はもちろん電動ですが、コントローラーは手ではなく舌で動かすように工夫されています。手が動かなくなって、最後に残った舌の機能で呼吸器や、車椅子を操縦しているのです。
日本では、このレべルの筋ジス者はべッドで寝たきりを強いられます。外出など考えられません。ところがアメリカでは、車椅子に身体を固定し、舌でコントローラーを操作して、自力で動いています。
「この状態でサッカーだって野球だってやるよ。外出だって自由さ。この間はドジャースの試合を見てきたさ」
肺活量がなくなっているだけに声は小さいですが、実に楽しそうに話します。△133
彼らは、電話を使って、積極的に募金を募り、生活に必要な器具を購入します。介助の人の給与も募金と補助金でまかなっていると言います。
死の間際まで普通の生活をしようとずる意志。
あと何年で、私は彼らのようになるのでしょうか。その日がきて、私は、はたして彼らのように闘えるでしょうか。
死、怖いです
目的地・ボストン
キャンプ
ハワイ
ETSUKO
武田恵津子。彼女を思い出さぬ日はありません。
アメリカから帰国する飛行機の中、成田空港で、私たちはお互いに口もきかない、顔も見たくない関係になってしまっていました。
出発前には、本当に天真燭漫だった私たちの関係が、なぜ、これほどまでにこじれてしまったのでしまうか。
恵津子と私、私と恵津子。生まれた場所、育った環境、受けた教育、培った価値観、趣味、それらすべてが異なる二人が、一緒に暮らずこと。それがどんなに大変なのか、理解していたはすでした。
「思ったことは、隠さずに話し合おうね」
そう誓い合った二人でした。
アメリカ行きの計画を立てた頃、同行介助を申し出てくれた恵津子は、私には神のような存存在でし△164 た。旅の終わりには、きっと家族よりも、もっと深い理解と愛情で結ばれているだろうと、大きすぎる期待を抱いていました。
しかし、〈関係を保ちたい〉という意志が、結果的にはよくなかったのかもしれません。
〈こんなことを言ったらどう思うだろうか〉
〈こんなことしたら負担ではないだろうか〉
恵津子に対し、私は終始、彼女の心中を探っていたようです。
自信のない私は、何をするにも、その決定を人に委ねようとします。私はアメリカでの行動、生活のすべてを、恵津子に頼ってきました。恵津子は私より経験も豊かであり、自信に満ちていると、思いこんでいたのです。
アメリカ行きを望んだ私自身が受け身になっては、船長のいない船のようなものです。
□青春の区切り インタビュー・武田恵津子 173-186
自分を必要としてくれる場所、空間、そういうものを必要とした時期に、NHKの高野君のドキュメンタリーを見たんですね。高校の二年のときでした。それで、看護婦になろうと思って聖路加の看護学科に進学したんです。
看護婦になるのは、大学に行ってからも迷ってましたね。何度かやめようと思った。看護って行為は、私には精神的にかなりきつかったんです。
でも、やめるのはいつでもやめられるから、とにかく原点に返って筋ジスの人たちとの接点、そこに行きつかなければ、看護学校で悩んできた意味がないと思いました。
私が下志津に赴任したのは、卒業二年前に、たまたま『僕のなかの夜と朝』の上映会に行って、会場で高野君に会い、彼が下志津にいることを知ったのがきっかけです。
何か自分の生きていく手がかり、足がかりをつかみたかった。高野君や石川正一君は、そのための実存的なきっかけでした。
上映会場の壇上で挨拶したのが、あの高野君であることを確認して、何か言わなければと彼の前に一歩踏み出した瞬間、口をついて出てきたのは、「まだ生きていたのですか」という言葉でした。(筋ジス患者さんの寿命は、およそ二〇歳と理解していたので、もう亡くなっていらっし△173 ゃると思っていたからです)
なぜ筋ジスだったのか? ドキュメンタリーを見たときは高校生で、それがなんであるか調べようという気もなく、不治の病気にめげずにがんばっている、っていう印象だったんです。看護っていっても、身のまわりの日常生活のお手伝いって思っていたんですね。
その番組には、高野君だけでなく、彼の先輩ですでに亡くなった人の声が背景に流されていたのね。その人はクリスチャンだっていうのが、ひっかかったのかもしれない。彼の言葉は今も覚えています。
「お父さん、お母さん、僕が死んでも悲しまないでください。僕は幸せでした」
たんたんと語っていました。石川君の文を読んでも、死を前にとても幸せそうで、安らかで。それが、やっぱりすごいショックだったんです。
私自身、中学生のときに洗礼を受けていましたので、人の役に立つ生き方をしなければならない、と考えていました。その一方で、私のような者でも、必要としてくれる対象がほしかった。そのことで自分の存在を確認したかった。そういう志向が筋ジスへと目を向けさせたのかもしれません。
まず、卒論の実習で下志津病院に友人と一緒に行ったんです。友人は、ためらいもなく子どもたちの中に入っていくのに、私はすくんでしまって手が出せなかった。笑顔がこわばり、語りかける言葉が見つからない。こんなことで、本当にここで働けるのだろうかと、そのとき思いました。それでも、看護婦として働き出した最初の一年は楽しくて、夢中ですぎました。△174
看護労働が一番大変なのは、朝の起床から食事、登校までの時間帯でしょうか。それと夕方から消灯まで。深夜の体位交換はおよそ二時間おきですが、重症者がいない限りは、それほど大変でもありませんでした。この二時間というのは、血液の流れが悪くなって床ずれなどができないようにするための目安時間と考えてもらっていいと思うんですが、筋ジスの場合、体位が本人の言うように決まっていないと、すぐしびれてきたりするんです。
体調によっても、体位がなかなか決まらなかったり、長くもたなかったりで、患者と看護婦の根くらべになったりします。そうなると、子どもたちも、看護婦の顔色を見たりして、頼みやすい人に頼む。頼まれたほうはいいけど、こっちはよくてもあっちが駄目みたいに、他の人を悪者にしてしまうことになりかねない。そんなことは仕方のないこと、と言ってしまえばそれまでなのだけれど……。
職員の中には、ポランテイアが病院に出入りするのをいやがる人もいたかもしれません。たしかに、仕事の流れという点からすると、消灯に向けて準備しているときに、一人、二人後回しにすると、看護作業がスムーズに進められなくなってしまうんですね。子どもによっては、時間内に問にあわない子もいました
私が慣れない頃、そういう子を寝かせるまで、二時間もずれこんだことがありました。動き出すのが遅いとか、頼みすぎてわがままだと叱る人もいました。私も叱ったことがあります。でも、その人たちも、決して冷たいわけじゃない。一対一で話せば、子どもたちのことを、とっても親身に考えていたりします。基本的には労働量に対して、人数が足りないのです。△175
一人の看護婦の発案で、筋ジス病棟の有志と他の病棟の看護婦もまじえて、筋ジスの看護について勉強会を始めたりもしたのですが、病棟ごとに直面している間題点がちがったりして、統一した方向で話し合うのがむずかしく、自然消滅になってしまったのです。
私は看護婦だから、立場がはっきりしているけれど、個人レべルの問題につき合わざるをえない生活指導員や保母さんたちは、もっと苦しい立場でやっていたと思います。
患者を(患者という特殊な存在としてではなく)一人の人間として看護するという理念を学びました。でも、看護婦として働き出してからは、患者という集団と一人の人間としての患者とか、看護という行為と看護という仕事の流れとか、患者と看護者、患者同士、看護者同士のそれぞれの関係が出てきて、看護婦である自分に迷いが出てきました。
とくに、筋ジス病棟のように、治療というより、生活の場の要素がとても大きいところでは、病院なのか、それともいわゆる施設なのか、そのどちらの基準で考えるかによって対処の仕方にちがいが出てきます。そんな矛盾した現実の中で、とまどったり、いらだったり、疑問が高まっていきました。
こんな中で、あき江や高野君のいた七病棟の婦長は、革新的な人だったから、いろいろ軋轢はあったと思うけれど、外出・外泊・ボランテイアの人たちの出入の許可なども積極的にやっておられた。
結局、私は中途半端になってしまって、小児看護を学び直すつもりで、職場を変えようと思っていました。そんなときに、あき江のアメリカ行きの話が持ち上がったんです。△176
それと信仰がありました。毎日、祈っていて、聖書を読んでいたのですが、ヤコブ書に「もし兄弟また姉妹のだれかが着る物がなく、また毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちの誰かが、ぞの人たちに〈安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい〉と言っても、もし体に必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」と書いてあったんです。
最初、私にはできない、無理だ、と思いました。でも聖書の言葉が、私の中でだんだん大きくなっていったんですね。私は、・理念とか、福祉の問題意識とかが自分の中に明確にできてはいない人間なんです。だから運動には参加できないけれど、個人が個人と関わるということなら、私にできるレべルで、と同意しました。
最初はあき江の友だちで、亡くなった小川江津子のお母さんと交代で、という案も出ていました。彼女の協力があれば、私にもその大役を、なんとかはたせるかなって思った。でも、筋ジスって特殊でしょう? 介助の手が変わるとお互いに辛くなる。
体位の交換なんて、足の位置、手の位置の決定は、本当に、センチでなくミリ単位だから。私でも、今、病棟に行って介助しようとしても、微妙にちがってしまいますから、怖いです。手を出すのを躊躇しちゃいます。あ・うんの呼吸ですね。本人の指示通りに本人が納得するまでできるかどうか、微妙な差を介助者が文字通り体得しないとむずかしい。
私も看護帰として勤めたから手を出せたんで、そうでなければ、怖くて介助を避けたでしょうね。
「私たちが亀裂を起こした理由は、障害の有無ではなく、性格のちがいが大きかったと思います。お互いが決して譲歩しなかった。それと、私に休みがなかったことでしょうね。
私の提案で、介助を雇って交代制にしてからは、事態はほんの少し好転したような気もします。
あき江の文章を読み返してみると、かなり正確に私の心の動きを捉えているなって思います。私自身が忘れていた感清、場面を克明に記憶しているなって思いました。彼女は、私の想像を絶するほど、すべてに敏感になっていたんですね。
私自身、自分が介助者なのか、保護者なのか、友だちなのか、わかっていませんでした。そういう意味でも、職業として割り切っていたほうがよかったのかもしれない。中途半端な善意は、かえってお互いを傷つけるばかりになってしまうのではないでしょうか。
誰もが不完全なんですが、最後はこれだけは言ってはいけないと、言葉を飲みこむのに必死でした。二人だけで向き合ってしまって、磨きすぎた鏡を前にしているみたいで。」(181)
□弔辞というエピローグー 柳原和子(編者)187-210
私が福嶋あき江さんに出会ったのは、彼女の原稿の終幕に描かれた成田空港の送迎デッキでした。今から六年前になります。より正確にいうなら、彼女について知ったのは、西伊豆の海岸です。夏の終わり、人の姿も失せた砂浜で、何気なく散歩中に拾った新聞。泥にまみれた切れ端に、大きな写真入りの記事が載っていました。〈筋ジス少女、アメリカでの自立生活研修の旅を終え、その成果を日本で。帰国後は二人の女性と浦和市で共同生活〉――記事の要旨です。行間には〈けなげな少女の車椅子アメリカの旅、旅の間彼女を支えつづけた介助の武田恵津子さんの献身的な心。障害を克服して勇気ある挑戦、それをとりまく人びとの暖かい善意、励まし〉を称賛する、美談記事に特有の明るさが溢れていました。
しかし、すでに指先だけしか動かなくなった重度の障害をもつ彼女です。かろうじて電動車椅子のハンドル操作だけが可能な状態だと書いてあります。[…]△187
「伊藤先生は、彼のもう一人の教え子、高野岳志君を紹介してくれました。高野岳志という青年の名前は、あき江さんの日記、メモ、原稿の随所に登場します。彼女の青春を考える上で、その考え方、理論、行動のすべてにわたって大きな影響を及ぼしたと考えられます。
彼は下志津病院に患者自治会を創設したメンバーの一人として、初代の自治会会長を務めました。患者こそ、病気と医療の総合的な専門家である――それが彼の一見、過激にみえる行動を支える考え方です。彼はあき江さんに先がける一年前、「あと、一年しかもたない」という医師の告知にもかかわらず、下志津病院を退院。ボランティアの加藤裕二さん、看護婦の高橋恵さんらと共に千葉県千葉市宮崎町のアパートで自立生活を開始しました。
加藤さん、高橋さんは、それぞれの職場を離れ、彼と行動を共にしたといいます。あき江さんにおける武田恵津子さんと同じです。
しかし、彼のアパートを訪れた私がそこに見た世界は、無惨な闘いの姿でした。△193
経済環境、やりくりのつかないボランティアの手配――何よりも病院での生活は、彼に人間と外界への期待感ばかりを膨らませ、現実生活への抗体を培かってはいなかったようです。青年たちの〈病院脱出〉〈自立生活〉の夢は、負わされ過ぎた苦労の連続で半ば壊れかけていました。
介助、経済力の確保、センターの運営――高野君を陰になり、陽なたになって支えつづけようという加藤さんの健常者としての心労も極限にまで達していたようです。彼らが、日々相互につきつけ合う存在の重さは、二人の関係を冷酷なものにしていきつつありました。
来日したCILのメンパーの一人、エド・ロングが咳いた言葉を思いだします。
「障害者と障害のない者が共に生きるという夢が困難であることは、私もよく知っている。しかし、そのプロセスこそが、私たちの夢なのではないだろうか?」
「私があき江さんに出会った成田空港へは、高野君と一緒に行きました。途中、私たちは下志津病院に立ち寄り、彼の後輩を見舞いました。
「どんなことがあっても、僕はこの病院には帰らないからね」
車椅子を押す私への言葉なのか、自分自身への決意なのか。
彼もアメリカに行きたい、と言いました。人工呼吸器つきの電動車椅子がアメリカにはある――末期の病者もそれがあれば〈普通〉の生活をしながら、死んでいける……。
加藤裕二さんは、その後、さまざまな葛藤を経て新しい自立センターを設立しました。彼と別れた後、高野君は専従の介助者のない不安にも耐えなければなりません。介助者もなく丸一日、部屋の片隅でときを過ごした日もあったといいます。
ただ、無惨な苦労とばかり映る彼らの生活も、基本的には人間らしさ、人間の営みの実感にはプラスに作用したようです。
あと一年しかもたない、といわれていた高野君の生命は、病院の中のような設備のない2DKの木賃アパートの中で、人と人との感情的摩擦に囲まれながら、約三年間、長らえたのです。それは、医学的には奇跡に近い出来事だったと思われます。△197
しかし、これは人が生きる環境とは何か、を考える上で貴重なデータだったといえないでしようか。
そして、その後の病状の悪化。半年間、病床の彼と、加藤さんを含めたボランティアたちは病院よりも徹底した看護を、2Kのアパートに生みだそうとしました。
彼の死床には、アメリカ製の人工呼吸器つき電動車椅子のパンフレットが置いてあったといいます。
それは壮絶な闘病の姿でした。
高野岳志、二八歳。三年間の短い〈自由〉
それから、どれだけの月日が経過した頃でしょうか。
▼ある日、伊藤先生から電話をいただきました。
「あき江の本がうまくいかなくって。手伝ってやってくれないですか」
私の脳裏に、成田空港での日焼けした、野菊のように可憐な少女の笑顔が蘇りました。何ができるわけではないけれど、私の抱えていた、解決しえない悩みに、今度こそ応えてもらえるかもしれないと、埼玉県浦和市の彼女のアパートを訪ねました。
きちんときちんと整頓された2DKのアパートの扉に[虹の会]の表札がかかっていました。△198
人と人の架け橋、障害者と健常者の間にかかる虹の架け橋。
三島典子、野口君江さんらと生みだした、彼女の自立生活の場。それからも、藤本千里さん、戸塚薫さんらの支援を得て創り出した夢の空間。
しかし、心配した通り、彼女の表情からは〈夢〉を実現しようとした、成田での少女の笑顔が消えていました。
自立生活も、現実の壁の前で萎縮しかけていたのでしょうか。
「日本で、アメリカと同じようにはできない。私自身、アメリカのやり方では、日本に根づいた自立生活を広げられないのでは、って迷いもあって」
芯の強い彼女です。愚痴らしきことは一切口にしません。しかし、私はそうした建て前の笑顔の奥に、彼女の武田恵津子さんとのアメリカ体験、高野岳志君や加藤裕二さんの体験した人間関係の亀裂と同質の、深い傷を感じとりました。
「柳原さんと、また別れることになってしまうの、いやだな」
彼女は何度もこの言葉を咳きました。人と関わる、友情を交換することを極端に怖れているようです。
彼女の、これからの自分を考えるステップに、原稿を書くように勧めました。過去を書きあげたら、これからが見えてくる。――そんなことを言ったような気がします。」
[…]
お葬式には、三〇〇人もの人が参列しました。
葬儀委員長の伊藤先生の弔辞です。高野君の遺志を継いで、千葉市宮崎町で今も自立生活をつづける、井上正明、大山学君の電動車椅子の音が、教会に響きわたります。[…]△206」▲
□あとがき 伊藤 璋嘉
「五六年は国際障害者年で、障害者の社会への「完全参加と平等」をめざしています。
あき江が積極的に望んだ国際キリスト教青年交換(ICYE)による海外留学は、あき江にとってまたとない絶好のチヤンスだと考え、私はその夢実現のために、竹内洋子保母とともに、学校と病院の若い人たちに呼びかけました。こうして「福嶋あき江と歩む会」が発足し、三四名が力を尽してあき江のアメリカ留学を支援していったのでした。」(伊藤[1987:214])
「二人が「歩む会」の予算を懸念しての気遺いに私は甘えました。一方、恵津子を休養させ、自身の研修時間確保のため、日本ICYEとアメリカーCYEと有料へルパーの現地雇傭の準備を進めましたが、交替へルパー派遣の機を私は失しました。病棟の勤務体制は一日何交替かで、単独二四時間勤務、それも連続ということはありません。恵津子の身心の疲れは必至です。ポストンのあき江から「恵津子は、独り夜空の星を眺めています」と伝えてきました。私は高岡の恵津子のお母さんの胸中を案じました。五七年八月のある夜、恵津子から「渡辺さんを代りに直ぐ送ってください」と切迫した国際電△220 話です。――翌日になって「帰国まで二人で扶け合って頑張ります」と明るい声。私の全身を冷たい汗が流れました。
出発前、交替へルパー派遺を確約しながら、人数、派遣先、期間など、具体的なプランをきちんとしなかった杜撰な計画と勇断のなさから生じたもので、重い負目となっています。」(伊藤[1987:220-221])
2016/01/24
こっからまた15年がたった。
http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3525.html
『スーパー猛毒ちんどんコンポーザーさとうの日記』
「あき江さんが倒れる3日くらい前に、二人で話をした。
これまでの虹の会は、自分がやりたかったものではなかったと、彼女は言っていた。
介助を「人質」に取られていた彼女は、当時の学生の役員に何も言わなかっただけだ。
いや、言うことがないという自分を演じていただけだよ。
いや、もっと正確に言えば、悩む事は演じられても、それを現実に移す事は、彼女にはできなかっただけだ。
■言及
◆立岩真也 2014- 「身体の現代のために」,『現代思想』
文献表
◆立岩 真也 2017/05/01
「高野岳志/以前――生の現代のために・21 連載・133」,『現代思想』45-(2017-5):-
◆立岩 真也 2017/06/01
「高野岳志――生の現代のために・22 連載・134」,『現代思想』45-12(2017-6):16-28
◆立岩 真也 2017/07/01
「福嶋あき江――生の現代のために・22 連載・134」,『現代思想』45-(2017-7):-
↓
◆立岩 真也 2017
『(題名未定)』,青土社