『ウェクスラー家の選択――遺伝子診断と向きあった家族』
Wexler, Alice 1995 Mapping Fate: A Memoir of Family, Risk and Genetic Research, University of California Press
=20030925 武藤 香織・額賀 淑郎 訳,新潮社,361p. 2730 ※
■Wexler, Alice 1995
Mapping Fate: A Memoir of Family, Risk and Genetic Research, University of California Press=20030925 武藤 香織・額賀 淑郎 訳、『ウェクスラー家の選択――遺伝子診断と向きあった家族』,新潮社,361p. ISBN:4-10-543401-2 2730
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■内容説明[bk1]
母の命を奪ったハンチントン病。その遺伝子は娘の私にも存在するのか? 原因遺伝子の発見に尽力した家族に突きつけられた「遺伝子診断」という過酷な現実。ゲノムの世紀、家族の行動と葛藤を描くノンフィクション。
□著者紹介[bk1]
〈ウェクスラー〉1942年生まれ。インディアナ大学で歴史学の博士号を取得。カルフォルニア州ソノマ大学で教鞭を取った後、80年代より執筆活動を始める。UCLA女性学研究所研究員。
■目次
あの病気:はじめに
疑惑の身体(ウッズホールから
静かな患者たち
一九六八年
舞踏病の悪夢)
舞踏病の物語(ネッダと希望
ハリウッドとスモッグにまかれて
「ハンチントン病らしさ」のテスト
二重の死)
読み誤りの地図(ゲノムによる華麗な飛躍
悲しき熱帯
マーカーを追って
運命の検査)
遺伝子の行き着くところ(最重要の情報
遺伝子発見から発症前診断へ)
■
1872 ジョージ・ハンチントン医師(米国)の論文(12,89)
1925 母生まれる
1929前後 祖父(母の父)アブラハム死去(52歳)(41)
1934 母、ハンター大学を卒業(38)
1936 母、コロンビア大学で修士号をえる(39)
1936 父と母結婚(64)
1941 アリス生まれる
1945 ナンシー生まれる(52)
1950 母の3人の兄たちが受けた検査結果を受け取る(56)
1951 ロサンゼルスに転居(61)
1962 父母離婚(69)
1963 ナンシー、ハーバード大学のラドクリフ・カレッジに入る(72)
196710 ウッディー・ガスリー死去(153)
1968 国際神経科学会設立(149)
1968 母(53歳)がハンチントン病と診断される。父が姉妹に告げる(12,82-)
1968 CCHDカリフォニルア支部(後の遺伝病財団)設立(155)
1969 母自殺未遂(107)
1974 遺伝病研究財団設立、すぐあとに遺伝病財団と名称変更(181)
1974 ナンシー、博士号を取得(199)
1974 ナンシー、遺伝病財団の科学評議部会に加わる(199)
1976 ナンシー、ハンチントン病に関する議会の特別委員会のエクゼクティブ・ディレクターに就任(200)
1977 「1977年の特別委員会で証言に立ったすべての家族たちが、健康保険の限界と差へのアクセス不足について言及していた。」(25)
19780514 母死去(223-)
1978夏 ナンシー、国立神経疾患卒中研究所で働き始める(233)
1978 アラン・トービンを遺伝病財団に招く(234)
197811 第2回ハンチントン病国際シンポジウム(207)
1983 ハントン病のDNAマーカー(ハンチントン病の遺伝子に近接していることを示すDNAの固まり)同定される(14,282-)
19831117 「ハンチントン病に遺伝連鎖をする多型DNAマーカー」『ネイチャー』に発表(291)
1985 検査のことで話し合う(301)
1985 検査のことで話し合う 父は反対(306-)
1986 発症前診断始まる(連鎖解析を使用)(347)
19930224 ハンチントン病の遺伝子が発見される(341)
1993 発症前診断 DNAの直接的な診断法を使用(341)
1995 国際ハンチントン協会(IHA)と世界神経学機構の共同会議(345)
■紹介・言及
◇立岩 真也 2003/11/25
「『ウェクスラー家の選択』」(医療と社会ブックガイド・32)
『看護教育』44-(2003-11):(医学書院)
◇立岩 真也 2005/**/**
『ボディ・サイレント』文庫版(平凡社刊)解説