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『自分であるとはどんなことか――完・自己組織シ ステムの倫理学』

大庭 健 19971220 勁草書房,307p.


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■大庭 健 19971220 『自分であるとはどんなことか――完・自己組織システムの倫理学』,勁草書房,307p. ISBN-10: 4326153288 ISBN-13: 978-4326153282 2940 [amazon]

■ 内容(「BOOK」データベースより)
若い人たちの「所在なさ」の感覚に照準し、考える。自分らしさとは何か、そのことと社会はどう関連するのか。

内容(「MARC」データベースより)
「自分らしいってどういうことなんだ?」「そもそも社会って何なんだ?」 若い人がこのような問題を考える時の最適な手引き。コンセプトやセンスの柔らかさのある、けれどDJ的ノリは排したほどよい口調の本。

■引用(安部彰

社会とは「個人の集まり」のことだろうか。そうではない。複数の個人が集まっていたとしても、その諸個人のあいだに何らの関係も成り立っていないとした ら、そこにあるのは無関係の個人の「集合」であって「社会」ではない。
 だとすれば、社会は、互いに関係しあう諸個人の集合、つまり「諸個人から成るシステム〔要素のあいだの関係が定まっている集合〕」なのだろうか。これも ちがう。というのも、そのように考えると、ひとつに、社会のもっとも基本的な性質が説明できない。社会は、たとえば家族、学校、企業のようなミクロな社会 から国家や資本制社会といったマクロな社会にいたるまで、それを構成する/その要素となるメンバーが入れ替わっても「同じ」社会として存続しうる。またひ とつに、それでは、重要な社会現象がうまく描写できず、その特質もみえてこない。景気変動や民族対立といった大規模な社会現象を前にすると、諸個人のあい だの関係といったレベルをこえて、なにか社会という「モノ」があって、それが自己運動しているようにもおもえてくるし、またそのように把握することで多く のことが説明されたりもする(デュルケーム)。諸個人なくしては社会もまた消滅するが、けれども社会の諸事象や諸性質は、あまりにも個々人の意図からは独 立している、すなわちさまざまな個々人のからみあいのなかからは、誰ひとりとして意図しなかった集合現象が生じる〔ミクロのからみあいからマクロな性質が 創発する emerge〕。
 しかしこの場合でも、マクロな性質/事象がいかにして創発するかは、誰と誰が集まっているかには依存しない。集合を構成する個人が同じであっても異なる マクロな現象が創発しうるし、逆にまったく違った個人から成る集合でも同じマクロな現象が創発する。とすれば、やはり個人を要素とするシステムとして社会 をとらえるのは適切ではない。

A)社会は個人の入れ替わりにもかかわらず同一であり続けるし、社会のマクロな性質はどの個人が集まっているかということと独立である〔個人は社会の要素 ではない〕。けれども、個人がまったくいなくなれば社会もまた消失する。だとすれば、社会の要素は個人そのものではないが、しかし個人あってこそ存在しう るXである、とひとまずいうことができる。

 さて、それではXとはいったい何なのだろう。つまり社会は何から成り、それらがどう関係しあうことによって、社会は(再)生産されているのだろう。これ にたいしては、諸個人のあいだで起こること/成ることである、という答えがおもいつく。そうした「コト〔デキゴト〕」がつながりあって、結びつきあって社 会は成り立っているのだ、と。


 作成:橋口 昌治立命館大学大学院先端総合 学術研究科

UP:20071105
哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学
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