永村実子氏インタビュー・2
20201127 聞き手:立岩真也・尾上浩二・岸田典子 於:東大阪・ゆめ風基金事務所
■インタビュー情報
◇文字起こし:ココペリ121
■インタビューの全体
※167分+1つ(インタビュー後御馳走になった時の会話)の記録を4つのファイルに分けました。
◇
永村 実子 i2021a
インタビュー・1 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:
立岩真也・
尾上浩二・
岸田典子 於:東大阪・
ゆめ・風基金事務所
◇
永村 実子 i2021b
インタビュー・2 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:
立岩真也・
尾上浩二・
岸田典子 於:東大阪・
ゆめ・風基金事務所
◇
永村 実子 i2021c
インタビュー・3 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:
立岩真也・
尾上浩二・
岸田典子 於:東大阪・
ゆめ・風基金事務所
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永村 実子 i2021d
インタビュー・4 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:
立岩真也・
尾上浩二・
岸田典子 於:東大阪・
ゆめ・風基金事務所
■関連項目
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楠 敏雄(1944〜2014/02/16)
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関西障害者解放委員会
◇
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)
◇
ゆめ・風基金
■本文
■■
立岩:かなり新しく「へー」って思ったのも含めて、けっこう「たどれたな」っていう感じがするんですけど。一つ追加しておうかがいしたいのは、本田さんの今に至るっていうかさ、それ聞きたいなと思って。
永村:今に至る?
立岩:だって75年からだって、もう45年経ってますよ。
永村:でも45年前からの人けっこういますからね(笑)、小林さんとかでも。ああ、細井さんもそうや。「変わった人や」と思って見てたもん。***(01:31:45)
うーん、何でやろう。初期の頃は半ば無理してついていっているという感じだったけど、段々と障害者の世界が面白いというか、好きになっていったというのはあるかも。高校生の頃は卑屈でもあったし、周りはみんな大学生だし、賢いし、コンプレックスもあったし。
立岩:ああ、そうだよね。神戸大とかね、阪大とかね。
永村:これほど多種多様な人と出逢えて、こんなに被差別の人たちがいるとか初めて知ることも多かったし、何といっても「ありがままでいい」と自分を許容できるようになってきたのは大きかったかな。居心地が良かったんじゃないかな。そこの中心にいたのは楠敏雄であるのは違いないし。1984年に子どもが出来るまで、バイトもほとんどは楠さんに紹介してもらっていました。
楠さんはいつも忙しいから、みんなが原稿の下案書いて、楠さんが全体を読み返して修正するとかしていましたけど、わたしにその役割はなかったですね。もちろん知識は足りないしたいした文章を書ける訳でもないからですけど、ビラ配りと作業はやっていましたよ。全障連結成前から養護学校義務化阻止闘争のあたりはステッカー貼りなんかも河野さんの指揮でやってましたね。夜8時ころに京橋の事務所に集合して、水糊の入ったバケツ持って、軍手をして電柱に貼り付ける。パトカーが通ると物陰に隠れてみたいなスリリングなことを健常者に交じってやってました。
全障連で言えば最初は東京に事務局があって、4回大会の準備のあたりから関西が全国事務局を担うようになって大賀さんと、もう亡くなったけど樫根健君が事務局専従をやっていました。その頃、確か79年に長男の勇君が生まれて、楠さんも連れあいさんも忙しい時には保育園に迎えに行ったりしてましたね。すごく可愛かったですよ。
その後、確か10回大会(86年)の時には、後に箕面の障害者事業団に行った栗原久君が全国事務局を担うようになって、大賀さんと樫根君が関西ブロックの専従をしていた。一方で確か80年代の初めには「大阪障害者労働センター・アド企画」という作業所を始めていて、わたしは85年からかかわっていました。作業所と言っても大賀さんの提案で、その頃、大学を出たものの仕事がない、養護学校高等部を出ても働く場がないという障害者がけつこう全障連に相談に来ていて、その受け入れの場といったことで、全障連や全障連と繋がりのある労働組合からの仕事をもらってタイプやオフセット印刷をしていました。84年5月に「関西障害者定期刊行物協会」(略:関定協)が設立され、当初は7団体しかないので仕事量もそんなになくて、アド企画と全障連関西ブロックと関定協の仕事をしていました。とはいってもどこもお金はないので「あんたは国家公務員になって生活したらええねん」とか言われて生活保護を受けていました(当時は今と違って生活保護は国の費用だった)。
栗原君の後、80年代の後半ころかな、全国事務局を担当するようになって2001年、2002年あたりまで。いろいろ課題はあるけれども常にお金集めが頭にあって、全国となるといろんな人たちもいて常にストレスマックスみたいな状態ですよ。もちろん楠さんの助っ人もあるし、表舞台じゃないところでよくぶつかってもいましたね。
ヒューマインドの楠さんの所も資料整理で頻繁に通っていました。すさまじい量の点字資料や講演依頼や、執筆した原稿の校正やらが山積みで。楠本さんというアテンダントの方もよくやっていましたけど、点字は読めないので、届いた点字資料に「何月何日、大阪府何やら推進協議会の何々」と墨字をいれていく。それが書いてあると楠本さんが、楠さんに「あれ出して」って言われたときに、すぐ出せるでしょ。だから秘書でも何でもなくて、主に点字を読んでひらがなを打って、郵便物の仕分けをする程度。(笑)。
立岩:それは全障連の事務局の仕事しながらって感じなんですか?
永村:そうです。「週1回か2回来て」って言われて。で、楠さん、全障連の役員でしょ、私は事務局でしょ。だからある種当たり前と言えば当たり前だけど。でもだんだん障大連とかDPIの仕事にシフトしていってはる過程っていうのは、ようぶつかりましたね。たとえば、小学館だの双葉社だの確認会やってる最中だというのに、「楠さん、人権の講演に来てもらえませんか」って言われて引き受けたり、そんなときはよくぶつかりました。
尾上:小学館やから『夜光虫』の、
永村:うん、『夜光虫』とかね。
『ヴァンサンカン』とか。
立岩:その全障連の事務局仕事の大変さっていうのは、その、どういう、僕ら機関紙とかでしか知らないわけですわ。でもあれはあれで大変やなと思うんですよ。
永村:楠さんはこう言うでしょ、別の幹事はこう言うてくるでしょ、西岡務はこうでしょ。微妙に違うわけですよ。ほんでそれぞれ、原稿よこす人よこさない人いるけど、中間的に整理するじゃないですか。それと共闘関係とかでもいろいろシビアなこともあったりして。もう亡くなったけど、東京の矢内健二にも、普通に。「何やってんだよ!」って八つ当たりされたりしてました。根に残らないけど。
立岩:たとえば矢内さん、僕東京でちょっとは知ってるんですけど、どういう文句の言い方するの?
永村:矢内さんはね、とにかく共闘関係にいつもぴりぴりきて、解放同盟だとか日教組だとか、自治労だとか、DPIだとか、ほんとに常にこう、すごい気ぃ遣う人なんですよ。ところが全障連の内輪といえば、まだ党派の残党もいて、揚げ足取りみたいな文章も出たり。まあ決定的には福岡の大会、もう協賛も後援もお金まで決定してたのに、結局「大会当日何が起こるかわからない」っていうことで、矢内さんが事務局長判断で福岡大会中止ってなるんですよ。唯一中止にした大会なんだけど。で、それやこれやでなんせもう昼も朝も夜も、家帰ってからまでもう、こうだああだこうだって電話かかるでしょ。
立岩:福岡の中止っていうのは、どういういきさつだったんですか?
永村:福岡の中止はね、やっぱり党派の人たちがしゃしゃり出てきて、なんかいろいろ動いたのかな。それで行政にしてみれば、そういうのすごい嫌うじゃないですか。一枚岩で申請してんのに(笑)。で、全障連なのに全障連批判するわけでしょ、好きなように。「ここが限界だ」って「福祉制度は障害者運動を解体させる」とかね、「腐らせる」とか。「だったらおまえら福祉サービス使うなよ」って言いたくなるけど。福祉制度を否定しておいて、福祉課を通して県に後援お願いって言っても難しいんですよ。まあそれやこれやで喧々諤々、福岡大会のあたりはすごいあって。
立岩:じゃ内部でこういろいろ、内部というか、あったのと、行政との関係ですか? 福岡って今でも全障連の名乗ってる、実質的には解放派のある部分っていうのいません?
永村:そうですね。
立岩:あの人たち、まだやってますよね?
永村:やってんのよ、これが(笑)。笑ってしまうけど。
立岩:たぶん、その流れちゃうかなと思うんですわ。
永村:そうです、今やってる人たちが、がんがん、がんがん、
立岩:たぶん全障連のまあメインストリームと、その福岡の解放派系の人とが、ぐっちゃぐちゃになって、それで、
永村:楠敏雄が生きてる間はかろうじて保たれていたものが、亡くなった途端、遠慮するもんないから、好き放題やってるんじゃないですか。
立岩:なるほど、そういうことか。「あれは何やろな」って思った。いや、実はそこにいる脳性麻痺のおっちゃんもちょっと知らんことはないので、あまり悪いことばっかりも言えないですけど。なるほどね。じゃ矢内さんなんかはわりと、その共闘関係とかそういうのを大切にしてるって感じですか?
永村:もう常にぴりぴりしてね。大切にしてるっていうか、びびりとというか、うん。そこが崩れるのはもう嫌なんですよ。もう崩れるんじゃないかと考えると、カーッ、怒って(笑)。
立岩:やっぱり彼なんかは自治労であるとか、雑誌だと『福祉労働』とか、あのへんとの付き合いもあったし、
永村:だし、お金もいっぱい引っ張ってきてるからね。だから「何してるんだよ、君は!」みたいな(笑)。受話器から矢内さんのどなり声が漏れ聞こえてくると、周りの人も、「うん、もう病気やな、あれ」って苦笑してましたよ。でも落ち着いた後は「この間はごめん」ってちゃんと謝ってましたよ。わたしも全然残りません。お互いにストレスは分かっているから。
立岩:たんに忙しいだけじゃなくて、そういうちょっと神経をつかうというか触るというか、そういうしんどさもあったんですね。
■
永村:それでね私、
DPI〔日本会議〕の北海道、2002年か※。
※DPI日本会議+2002年第6回DPI世界会議札幌大会組織委員会 編 20030530 『世界の障害者 われら自身の声――第6回DPI世界会議札幌大会報告集』,現代書館,590p. ISBN:4-7684-3436-3 3150 [amazon]/[kinokuniya]
事務局次長を務めた人へのインタビューとして
◇宮本 泰輔 i2020a インタビュー・1 2020/12/17 聞き手:立岩真也・井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用
尾上:DPIの札幌大会2002年で。その半年前ぐらい、1年前ぐらいからこちらの関西実行委員会で一緒にやらせてもらった、
永村:やったでしょう。ところがあの頃がピークで、ぜんぜんそこの1年半、2年ぐらいの記憶がないねん。
もうね、気がついたら、そこからもう完全に抜けてるんですよ、ぴたっと、全障連。だから平井さんが「温泉でもおいで」って言うから温泉は入りに行ったけど、その頃がなんかね、もう楠さんに何故か腹立ってね。でも、しつこく電話かけてくる。がちゃーんと切ってもね、また「もしもし、生きてるか?」とか言って。「もうあなたに心配してもらうことないから」、がちゃんって(笑)。ずっとそんな感じやって(笑)。なぜかむちゃくちゃ腹立ったんですよ、楠敏雄に(笑)。
事務局をぴたっとやめるんだけど。仕事中に気がついたら、
〔大阪〕精神医療人権センターの
山本深雪んところのベッドに寝てて。もうそれっきりですよ。立てない歩けないで(笑)。あ、みつどもえや、全障連の25周年やった? それとDPI札幌。最悪なのが、戸田選挙があって。もうね不思議なものでね、いっときはね、「私ってマジで不死身かもしれない」と。全然疲れないし、全然眠たくならないし。ずーっとぶっ通し2時3時まで仕事して、ものすごい楽しくて(笑)。
立岩:3つの仕事がかぶってたけど、それをやってた時期もあったということ?
永村:そうそう。何がきっかけか覚えてないけど、突然「もう嫌〜」みたいになって、仕事抜け出して、人権センターに着いた途端ばたーんですよ。
立岩:倒れちゃった?
永村:倒れたっていうか、どうやって行ったかも覚えてないけど。人権センターの山本深雪とは古くからの知り合いなので。
立岩:どこのベッドに?
永村:人権センターの事務所。
立岩:事務所にか。ある日、気がついたら事務所のベッドに寝てた?
永村:ある日と言うんじゃなくて、仕事を放り出して事務所を出て、人権センターに辿りついて眠りこけて、目が覚めたという感じ。
立岩:その前のこと覚えてない、本当に?
永村:全障連25周年の基調資料作りや案内の通信づくりやとやっていたのはもちろん覚えていますよ。仕事中に「ああー、嫌だー!」と思った瞬間も覚えてますよ。だけどどうやって行ったのかはもうさっぱり覚えてなくって。それっきり食べられない、寝れない、動けないで。で、結局、辞めたんです、自然な流れで。
立岩:何年や? 戸田さんの選挙っていつ?
永村:2001年。復帰してしばらくDPIの世界会議のだけはやってたんです。で、あなたがいつもそばにおったもんね、なんか、ねえ。
尾上:そうです、そうです。
立岩:ふーん。2002年にそうやって決定的に倒れて、しばらく静養? っていうか、何もできひんって。
永村:そうですね、うん。しばらくはね、精神科の世話になって、もう全然だめでしたわ。
立岩:へー。その一つだけDPIのをお手伝いしたっていうのは、いつ頃?
尾上:2002年の10月にDPIの世界会議があるんですけど。全国回って呼びかけようっていうので、1年前ぐらいから、えー、だから2001年の10月ぐらいから、ちょうどプレイベント実行委員会っていうのをやって。それの関西の事務局っていうことで、本田さんに事務局やってもらって、私があちこちに走り回る手配をしてもらったんですね。
永村:もうそれが、もうあれですわ、ほんまに。そのあとはもうとてもじゃないけど、「もう全障連はしたくない」って(笑)。
立岩:で、そのあと2002年からはどんな暮らしを?
永村:そう、そのあと、全障連の全国事務局って「のんきもの」っていう作業所の中に間借りしていて、3か月ほど経って戻ったら、机(私の)もなかったし資料もなかったし、全部平井さんとこに送られていて。今はね、落ち着いてるから言えることで、ちゃんと私の了解のもとにやったはずで、平井さんも了解しないとそんなことできないでしょう。全障連の荷物ぜーんぶ、私が休んでる間に送るなんて。でも当時は恨みつらみが出てきて(笑)。「何ちゅうやつらやー!」って、「帰る場所ないやんかー!」言って。
そしたら亡くなった河野秀忠さんが、「な、じっちゃん、いつでも箕面に来い」と、「あんた一人くらい食わせられへんような情けない運動してへんで」って言って。「来い」って言われて通い始めたんやけど、もうしんどくてね。遠いし、2時間かかるし。
立岩:それは箕面の、
永村:「豊能障害者労働センター」っていうところです。※
※cf.臼井 久実子 20090927 「「ともに働く」の追求――大阪エリアの障害者運動(1980−90年代)を中心に」,障害学会第6回大会報告 於:立命館大学
立岩:はいはいはい。そこでまあ雇うというか、スタッフ、
永村:いやバイトですわ。週3日位やったかな。
立岩:バイトで。で、行ったけど、遠い。
永村:遠いしね、べつに私が行きたかったわけじゃない。河野さんが「食わしたらなあかん」と思って(笑)。その時は河野さんの好意をむげにしたら悪いと思って。でも数カ月で辞めて、そのあとはパーティ・パーティの柿久保浩次っているんやけど、そこがちょっと3階建てのでっかいビル借りていたから。
尾上:共同連の事務局を置いてたところですね、「パーティ・パーティ」。
立岩:箕面はどのぐらい続いたんですか?
永村:3、4か月かな、もうちょっとかな?
立岩:じゃあ、わりかた短めやったん、
永村:うん、そうですねえ。
立岩:それとその柿久保さんの、どういうところなんですか?
永村:日常生活支援ネットワーク。介護事業とか、移動送迎のネットワークとか全国の、そういうのをやってたんです。その一角に仕切りを入れてもらって、社長室みたいなものをあつらえてもらってね、一人で仕事できるように全部作ってくれはって。
立岩:ああ、なるほどね。
永村:うん。私も「給料も何もいらんし」言って、そこで印刷やったり。柿久保さんのとこの部屋を借りて。どうやって食ってたのかなあ? 部屋を借りて、稼ぎがあったりなかったりでしたね。
立岩:そこは続いたんですか?
永村:あ、ちゃうわ、その前にね、私の古い友だち(大阪の実家)みたいな仲間がが阿倍野区にいて、「うちの事務所、ただで好きに使たらええがな、あんたどうせ人の言うこと聴かへんやろ、自分で事業作っていったらええ」って提供してくれて。で、いろいろ手伝ってもらって。でも、ただっていうのもけっこう心理的にきついんですよ。その家は母子ともども娘が赤ちゃんの頃から世話になりっぱなしですから。その時は鹿島さんも一緒でしたね。パソコンも全然初心者で仕事もそんなになくて、時々文字おこしの仕事がある程度で。
そんな時、柿久保さんといろいろ話している中で、「ほんならうちとこ来たらええねん」って(笑)。で、柿久保さんに荷物全部運んでもらって。しばらくいたかな。2年くらいかな。共同連の人で子どもどうしが同い年で、ずーっと昔から付き合いのあった鎌田さん、交通事故で死んじゃったけど。彼女に「介護事業所やるから来てくれ」って頼まれて、そこ行ったんです。そこも続かなくて、また柿久保さんのところに行かせてもらって。そしたら今度はアド企画から「介護事業始めるんやけどサービス提供者がいないから来て」と言われてアド企画に行って。パーティに世話になっている頃にヘルパー2級の資格は取っていて、その前から介護は結構やっていて、サービス提供責任者の条件はクリアしていたので。
尾上:アド企画っていうのは、ずーっと全障連関西ブロックの併設の、何て言うか、事業所というか、作業所というか。
立岩:ありましたよね。いや、今でもあるのかもしれないけど。
尾上:今もあります。点訳とあと印刷。だから僕らはよく頼むんですよ。
立岩:裏見ると「アド企画」って書いてあるパンフレットってけっこうあったような気ぃするな。
永村:ほんでそこでも結局辞めて。
立岩:それがいつ頃?
永村:それいつやろ。何年かな。2009年か、2010年。
立岩:そうか、まだ15年前か。けっこういろいろですね。
永村:2002年、DPIやから。
尾上:僕がもう2004年から〔DPI日本会議事務局長の仕事で〕東京へ行ってしまっててっていう。
立岩:その、それからの15年ってどういうふうにつながっていくんですか? 数えきれんほどですか? そうでもない?
永村:えーとね、有給か無給かは別として、関定協は1984年からずーっ関わり続けてるんですよ。病気になったときに会議に行けなかったりしたこともあるけど、一応ずーっと続けてて。あと震災関係の救援本部、その後ゆめ風基金、富山の平井さんのところは着かず離れずで関わりつつ、2002年から2009年の間は、さっきも言った通りあちこち行ってふらふらしています。その後、2010年から今の玉造の事務所を借りて印刷作業や文字おこしの仕事を細々とやっていました。2012年に関定協が玉造に移ってきて、一方、「介護事業は二度とやりたくない」とか言いつつ、関定協の隣の部屋を借りて介護事業を初めて、一旦閉めて。また初めてというより、場を提供して働かせてもらうみたいな形で2020年3月末までやっていました。と言っても関定協やゆめ風基金と掛け持ちですけど。
■
岸田:(笑) いや、ほんで私、金ちゃんから電話、金ちゃんっていうのは楠さんの後輩で、龍谷大学のね、金聖宇っていって、これも今年亡くなったんですけども、
永村:そうそう、もう両足切断になっちゃって。糖尿病で。
岸田:私ら高校のとき知ってて。楠さんの乱入のことよう覚えてはってね、金ちゃんが、盲学校へ乱入したとき。そやけどなかなかインタビューに応じてくれなくて。なんかもう「そんな大昔のことやから嘘かもしれんし、作り話になってるかもしれん」とか言う。「まあええやん、誰もそんなん見てへんて、こんなん」とか言うて、で、やっと、「『金』を『K』にしたり『A』にしたりしたらええ?」って言ったら、「ほんならまあ、それやったら言うたげるわ」とか言うてくれはって。まあそれで話いろいろ聞かせてもらったけど、だいぶ盲学校の寮で彼は、楠さんはオルグをしてたみたいなん。いろんな人を教えて勉強を見てたり。で龍谷大学入ってからもね、盲学校の寮の人のね、「いっぺんデモっていうの出てみぃひんか?」とかって言うてたらしいのよね。まあ私は通学やから全然そのへんまったく知らないから、まあまあ、あれやったんですけど。まさか50年後に、窓から乱入してるのを見てる私がこういうことになるとは想像もつきませんでした。
立岩:本田さんに関して言えば、そういう家族つながりっていうかさ、腐れ縁というか、まあそうだと思うんですよ。そういうことって時々人間にはある。いい悪い別としてあると思うんで、たぶんそうだったんだろうなと思うんですけど。本田って、なんで本田って言うてるんですか?
永村:昔はね、その通信見てもわかるように全員が偽名。本名なんか使っちゃいけないって。たんにその流れで、それが定着した。
立岩:自分でって、どうでもいいっちゃいいんですけど、なんで本田って。何かあるんですか? 特にはない?
永村:人につけられたからね。「おまえ本田でいっとけ」みたいな。
立岩:誰かに言われたみたいな。
永村:そうそうそうそう。名前なんて適当ですよ。うちの娘なんか、あの、「本田の娘の永村なつみでごじゃいます」みたいな電話してたから(笑)。
立岩:僕去年末に聞いた、やっぱ53年生まれかな? 55年か、京大出の女性もやっぱり、やってるときは名前、仮名使ってたって※。まあ、そういう時代というか、ですよね。
※瀬野 喜代 i2019 インタビュー 2019/12/19 聞き手:立岩真也 於:於:京都市北山・ブリアン
永村:楠さんは「吉岡健一」って名乗ってはって、
岸田:え、それ初めてや。
永村:え、知らんかった?
立岩:え、何? もう1回。よしおか?
永村:よしおかけんいちというのはね、楠さんの偽名。
立岩:「けん」は、
永村:健康の「健」やったかな。
立岩:健康の「健」。これがけっこう時々難しいんだよね。ほら、編集後記とかで、「(か)」みたいなんあるじゃない。「こいつは誰や」みたいな(笑)。そういうのって、ペンネームとかそういう略号みたいなのってわからないですよね。
永村:「やぎ何とか」って、弱視のMさん、それに載ってる。たまたま読み返して、「ようこんな難しいん、誰が読むの」っていうような。
立岩:「よしおかけんいち」は覚えた。それで本田さんって、さっき最初のほうちょろっとおっしゃったと思いますけど、そもそも障害の名前、何て言うの? どういうあれなの? 体の。
永村:私はね、先天性股関節脱臼。左右7センチほど足の長さ違うんです。今、杖ついてますけどね、若い頃から「そのうち腰とか骨盤とかがおかしくなるから杖をつけ」って言われていたけど、「もう冗談じゃない、杖なんか」って思ってた。今はもっと早く杖ついといたらよかったと思うけど。(笑)。今はもう少し杖なしで歩いたら痛いから。
立岩:いつまで杖なしで我慢というか過ごしておられたんですか?
永村:楠さんが死んだ年、もう今年で何年になるんやろ?
岸田:今年で7年か、
永村:そこからですわ。楠さん2月に死んだでしょう。母が3月の頭に死んでね。ほんまに楠さんと母親で、もう大変やったんです、病院。「もうこれ身がもたん」と思って、勇くんに、「勇くんな、悪いけどお父さんぎょうさん人おるやろ、うちは私しかおらへんねん、もう後はもう任したで。もう行かれへんで」って。そのあと、3月30日の朝、移動送迎活動に関わる大きな集会があって、
尾上:STS、いわゆる福祉輸送。
永村:そうそうそう。で、それに行こう思ったら、朝ね、もうまったく左足がぴくりとも動かなくって。で、起き上がれないわけよ。「ええ? どうなったんやろう」って。何とかかんとか起き上がって、タクシー呼んで、足引きずって下までようやく降りてって、集会に行って。パーティの送迎車に世話になったりして、そのあたりから杖が。歩けんことはないけど、やっぱ杖がないと。
立岩:じゃあ、その子どもやら学生のときは普通の学校ですか?
永村:うん、全部普通学校。普通学校だからね、障害者いなかったし。なんか視覚障害者の同級生がいるらしくて、点字で手紙が来るんですよ。ちっちゃいときから施設入ってるらしくて、で先生が「こういう友だちがいるんですよ」みたいな、もうその程度でね。だから、時々いじめられてましたよ。石投げつけられたり、「かたちんば」言われたり、はやしたてられたり。そういうのがあるからね、もうなんかこの、禁句やったんですよ、「障害者」というのは。でもなんか活動家たちに魅力感じてね、狭山とか女性解放やってて。で楠さんの知り合いが、「なんで障害者運動やらへんねん?」言うて。「別に興味ないから」言って(笑)。で、そういうのばっかり言ってて抵抗してて。だからデモやるときも、障害者の隊列は緩やかで、他はきついんやけど、もう絶対、障害者のところに行ってデモしようなんて思ったことないかな。
岸田:あ、そんなんあったんですか? 障害者のデモ、隊列が、
永村:ありましたよ。だって政治闘争ばっかりやってるから。優生保護法改悪阻止闘争の頃は女たちの隊列、障害者グループの隊列と分かれていたし。、
岸田:あったんですか?
永村:うん。みんな、学生連中と一緒に、あのヘルメットかぶった連中と一緒に。もうほとんど関西障害者解放委員会くらい、帽子も何にもかぶってないの(笑)。それでデモ行って、走られへん、逃げられへん(笑)。
立岩:最初それ、旗作ったってさっきおっしゃってましたけど。旗以外に「俺たちは」的な何かあるんですか?
尾上:ゼッケンがあったんじゃなかったですか?
立岩:ゼッケンが、
永村:全障連はあるけど、関西障解委にゼッケンなんかあったかなあ? あったような気もする。「帝国主義何やら」とかね、あの、わけわからん(笑)。今から思えば、もうなんか「知らんって強いなあ」思って。それ「何とかが正しい!」とかって言えるもん。
■
立岩:もともと大阪?
永村:いえいえ、九州なんです。
立岩:九州なんですか。え、どこ?
永村:私はね、熊本の上益城郡御船町、あのへんなんだけど。で小学校3年の終わりくらいにね、実は長男、私よりひとまわり以上離れてるけど、若い頃から極道、ワルでね。逃げるように宮崎のすごいど田舎行ったんですよ。で、中学を卒業して大阪出てきた。姉を頼って。
立岩:え、ちょっと待って、その極道は実子さんの何に…、お兄さん?
永村:一番上の兄。私、実は6人兄弟の一番下なんです。一番上が極道で、日本刀の跡やらこの刺青やら。でも私だけはなぜかむちゃかわいがられて、今も交流があって。うちの娘なんか今むちゃかわいがられてるんやけど。
立岩:その兄ちゃんが帰ってきて、
永村:兄貴がね、もう権利書から何から売り飛ばしたらしいわ、あとで聞くと(笑)。で、逃げるように宮崎の田舎に、
立岩:ああ、熊本から宮崎に行き、
永村:そこから大阪に。
立岩それは親とですか?
永村:いやいや、姉がいたから、姉を頼って。
立岩:お姉さんがそのときすでに大阪におられて、で、お姉さんところに身を寄せるみたいな感じで。それからが大阪なんですね。
永村:そうですね。で、コネで松下病院で働いてました。放射線科の受付で。
立岩:病院の放射線科の受付。
永村:受付のころに、今から振り返れば、松場さんと出くわしてる。
立岩:それとその定時制っていうのは時期的にはどのくらいのこう、どういう関係になってるんですか?
永村:中学校卒業して定時制に行く、と。
尾上:働きながら定時制に、
立岩:その病院に勤めながら定時制に通うというか、
永村:でも病院に勤めだしたのは、もうずいぶん時間がかかるの。もう全部面接落とされますからね、仕事。
立岩:ああ。いろいろ落ちたうえでそこの病院に。
永村:姉の知り合いがいたから、松下に。もうきっと拝み倒したんでしょうね。「こらもうあかん。もう絶対どこも働くとこない」って(笑)。
立岩:松下病院ってどこにあるの?
永村:あの、守口市にありました。
岸田:松下電器のあれですよね。
立岩:そうなんですか。でそこは、定時制は3年で卒業なさったんですか?
永村:え、いや4年かかるでしょう? 4年かかるけど、「運動も作りだしたとこやから、おまえもう1年行け」って言われてね。もう卒業してんのに、あと1年行きましたよ。
立岩:その運動のために学校に5年おったっていう。
永村:「何言うてるねん」って言われて、もう「やめてどうするねん」言って(笑)。
立岩:それが、定時制出たのが何年?
永村:年齢でいうと19くらいで出てますから、69年くらいかな。
立岩:定時制に入ったのは普通の、まあ言ったら中学校出た年?
永村:出た年です。はい。
立岩:それから5年おったっちゅうことやね?
永村:そうです、そうです。
立岩:ということは二十歳くらいになってるってことか。
永村:そうです。
立岩:そうですよね。その松下の病院はいつやめたん?
永村:松下病院いつやめたかなあ? 高校卒業前にはもう辞めていた。
立岩:だいたい5年なら5年ぐらい定時制におって、
永村:5年もいないな、3年ぐらいじゃないかな。
立岩:途中でやめたかもしれへん、みたいな。
永村:うん、うん。
立岩:ああ、そういう人生か。
永村:だからそのあとは点々としてましたよ、仕事。正社員で働いたのは松下病院、紳士服の卸会社、運送会社、その後はバイトで大阪外大(上本町にあったころ)や楠さんのコネで転々と。
立岩:そうやね。まあそりゃ運動じゃ食えんもんね。じゃあそういう事務的なというか、そういう仕事でまあ稼ぎつつっていう、
永村:そうですね。「運動のために稼ぐ」みたいな、
岸田:あの頃ね、運動の人はお金がないからね、私もそうなんですけど、別にヘルパーでもなんでもないからね、交通費も食事代もなんにも払てくれへんかったというか、
永村:年末年始って学生もみんな田舎、実家帰るから、介護者いないでしょう。だから介護して料理に作って、ただメシ食べさせてもらって、なおかつ、もういらんようになった服もらうとか(笑)。
尾上:年末年始は餅代で介護体制を組むみたいな(笑)、
岸田:でも私らね、楠さんの介助しても荷物持ちしても、「人運搬しろ」って言うから、集会とかやったらこっちから人運搬してもね、何ももらったことはないし、もらうっていうことを必要としなかったというか。「そういうものはもらわないもんだ」と思ってたから、別に平気やったというか。
永村:私らはね逆で、たかってましたわ、みんな門真の住人は。鍵のありかもわかってるから、勝手に鍵開けて入って、冷蔵庫のケーキ食べたりなんして。
尾上:これ誰からか聞いたんですけど、ほんとにみんなお金がなかって。で楠さんまあそのころはけっこう、やっぱりちょっとずつ外で講演することがあってね。講演でときたまおっきい謝礼をもらったときは、みんなでごはんを食べに行ったりしたことが、
永村:誰かがばらすねん。「今日大将な、2万円講演料もらうらしいで」言ったら、みんなもう待ってるねん、勝手に家に入って、「飲み行こか」言うて。だから飲み代とかごはん代とかがね、私なんかもうほぼ100パーセント楠家に、要は食わしてもらってるんですよ。で、食わしてもらってる恩義もあるし、子どもも「うーん、これは育てられへんな」ってときに、彼女が「じっちゃん、ええやんか。2人も3人も変わらへんから、いよいよ育てられへんかったら、楠家の子にしたらええやん」って。「その手があったか」って(笑)。
尾上:「養子で引き取るから」って、「私が」(笑)。
永村:そうそう。「そうしたらええやん」って。だからもう産前産後もずっと楠家にいるんです。だから彼女が忙しくて帰ってこなかったり、仲悪くなって出ていったときも、私は生まれたての赤ちゃん連れて楠家におったからね。で、もう大変やから北海道の楠さんのお母さんが手伝いに来てて(笑)。で、私が3人子ども風呂入れるわけよ。「お母さん、勇くん出ます」って、「お母さん、次ちえちゃん出ます」って(笑)。
立岩:それは楠さんのお母さんが本田さんの子どもを世話してる話ですか?
永村:私が楠さんの2人の子どもと自分の子どもをまとめて、で、楠さんのお母さんと一緒に、面倒見るという感じ。
立岩:ああ、わかった。
岸田:え、楠さんのお母さんって、北海道から来て?
永村:そう、北海道から手伝いに来てはってね。せやからよう近所に、「え、どっちが奥さん?」とか聞かれる。「いえ、私他人です。赤の他人ですよ。もう一人の方が奥さんです」って。だからそういう恩義もあるし、子どもたちとのつながりもあるでしょ。
立岩:大阪ではわりといろいろ住所変わった人?
永村:えーとね、あ、子どもを産むまではそうですねですね。子ども産んでからはむちゃくちゃ定着してますわ。
立岩:へえ。どこ?
永村:えーと要はね、引越しも楠さんと一緒にするんですよ。楠さんが門真から東大阪に引越したから、私も門真から東大阪に引越して。で、そのあとはね、もう全障連の事務所のあった東成区ですわ、ずーっと。で、家賃が傾斜家賃でもう払えなくなりそうで、それで市営住宅申し込んで。もうそこからもう17・18年になるかな、今の市営住宅で
立岩:ここ近いんですか?
永村:ここは遠いですよ。1時間近くかかります。
立岩:今の市営住宅はどこらへんの?
永村:今福鶴見で、イオンのわりとそばなんですけどね、緑地公園とかの。
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「3」
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永村:楠敏雄は研究対象になってんね。
立岩:僕、岸田さんには言うてるけど、たとえば横塚晃一について論文書くのって書けるんだよ、わりと。楠さん意外と難しいって僕は言ってんねんけどね※。まあでも、そう言うてもしょうがない。もう岸田さん、やるってことに決めてるから、まあなんとかして形にしますけど、させますけど。
岸田:はい、なんとか。やっぱ一応、楠敏雄のことを今、若い世代がもう知らないしね。まあどっちか言うたら過激派とかのあたりで有名になってるけど。
立岩:いや、そういうものとしても知らないでしょう? まったく知らないから過激派もへったくれもないですよ。過激派って言葉自体が死語みたいなものだから。
岸田:だから今、大学でそのヘルメットかぶってね、ゲバ棒を持ってキャンパスを走り回ってたって言ったって、全然リアル感がないっていうか。「何それ?」って、
永村:やっぱりあれじゃないんですか? 楠敏雄のまあいいとこを言うとしたら、なんだかんだ言っても、やっぱりこの全障研っていうのは「発達保障論」みたいなものがあって、もうそこって障害者観を強烈に表現してるじゃないですか。「そうじゃないんや」っていうのに一石投じたのは楠敏雄、そこのの取り組みというか、存在は大きかったかなと。
岸田:そのあたりがちょっとまだ弱いというか、んで、やっぱりね、楠敏雄は視覚障害者業界においては、まあまあこの頃の若い世代はあれやけど、あの人と似た世代とか、上の世代はまったく受けが悪い。
永村:へえー。
岸田:まあ、そんなおじいさんおばあさんはいいんですけど。
永村:(笑)
岸田:いいんですけどね、ちょっと、やっぱこう視覚障害者だけではなくて、私は青い芝とのね、そのあれを。初めはね、まあ盲学校へ乱入したっていうのが、彼の運動スタイルかと思っていたんですけど、尾上さんとのインタビューとかすると、やっぱり青い芝との出会いが彼を全障連に導いたというか、うん。障害の種別を問わないっていうね。視覚障害の場合はものすごく昔から、江戸時代から座頭とかって組織化がものすごい進んで。で今度、みんなまあだいたい職業は、あんま、はり灸やから、そのおんなじ職業をして、まあ組織を作って、健常者って言われる人たちに対抗しようっていうのはあるけど。楠さんはね、それに対して非常に厳しく批判してるし、やっぱり障害を、種別を超えた連帯ってことものすご言うてたからね、それは大きいなと思うんですね。で、またその楠さんのあとの世代がね、自分と違う障害を持った人のことも考えようっていうそういう意識になってきたというか。
永村:支援者もファンも、「雲の上の人」と崇める人もたんさんいましたよ。
岸田:(笑)
立岩:盲界(もうかい)って言葉あるよね。今日も話し始めに、盲の人だけが7人集まって焼肉するのに突然連れて行かれて、ひたすら肉焼かされたっていう話、
永村:岸田さんもいませんでした? 鶴橋、視覚障害者ばっかりの焼肉。
岸田:いました。
永村:いたでしょ? あれ、一人でかいがいしく肉焼いてたん、私です。
岸田:えー!(笑) あの、愼〔英弘〕先生とかもいましたよね。
永村:そう、そう。私はもう、ああいうときはもう、ただ黙ーって、もう仰せのとおりに焼くんです。あとでぼろかす文句言ってるけど。
立岩:7人分の肉焼くの大変やでー。ほんま大変やで。
岸田:鶴橋ってね、もう10年以上前やで。
永村:前かなあ、うんうん。で、三上さんもおって、あの手品かなんかその、あの人もしゃべりだしたらもうとまらん。[…]
尾上:そんな集いがあったんですか? へー。
岸田:あのほら、寿司屋は一緒に行きました、楠さんの家の近所の。
永村:ああ、寿司屋ね。
岸田:あの人好き嫌い多いくせに、食べ物にはうるさい。
永村:そう、時々逆ギレしてましたよ。「あれはいらん、それもいらん、これもいらん」言うからこっちも頭にきて、「もう考えるのめんどくさい。じゃあ自分で言ってよ!何が食べたいん!?」って言ったら逆ギレしてね。「僕は好き嫌いはっきりしてるけど、だからといって贅沢言うてるわけやない、のりの佃煮があったらいいんや!」言って(笑)。
尾上:すごいキレ方や(笑)。
永村:そんなんしょっちゅうですよ(笑)。
尾上:「それだけでええんやったら、わざわざ外で食べんでええやん」とか、つい言ってしまうわ(笑)。
岸田:中国国籍のヘルパーさんに「酢豚作ってくれ」って言ってね、「あれは嫌、これは」言うたら、中国国籍のヘルパーさんがキレてね、「ほんなもう、作られへんわ!」
永村:あ、言うてたわ、それ。
尾上:僕は今日本田さんの話聞いて、本田さんと鹿島さんとかね、そっちの家族的なつながりの大きさっていうのを。普段こういう話ってね、しないから、会議の場面であんまり聞かない、
立岩:ああ岸田さんさ、こないだ大量のインタビューのデータもらったけどさ、あれ文字で起こす価値ある? 聞いてないんやけど。いっぱいあるよね? 20いくつあったんちゃう? どうする? どうしようかなと思って。考えといて。
岸田:はい。あれ、どうしよう。捨てるにはもったいないかな。
立岩:捨てはしない、音声のデータとしては未来永劫に取っとくけど、それを文字にするかどうかやね。それちょっと考えて。そういう、あるんだわ、いくつか。昨日おとといも増田さんっていう京都のALSのおじさんのインタビュー、それも20いくつ、それはまあゆっくりゆっくりやから、まあ楠さんとかとはだいぶ性質の違うもんやけど。まあでも音だけでもまず残して、その中からかなりの数は文字にして、ってします。でも僕はほんまに大阪のことを知らないから、その誰かの手引きというか紹介とかがないと誰に聞いたらって思う、ようわからないから。まあでもそれ俺がやる仕事じゃないよな。ほんまは別の人にやってもらわんと、ちょっと手に追えないから僕も。だけどやってほしいとは思ってるんですよ。いや、でもよかったです、今日いろいろ聞けて。
永村:じゃあこれで、
立岩:じゃいいですか。どうも長い時間ほんとにありがとうございます。
岸田:ありがとうございました。
※ここでいったんインタビューは終わりました。↓
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永村 実子 i2021c
インタビュー・3 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:
立岩真也・
尾上浩二・
岸田典子 於:東大阪・
ゆめ・風基金事務所
*作成:
中井 良平