◆立岩 真也 2020/06/00
「『谷川俊太郎詩集』」,河合文化教育研究所編『2020 わたしが選んだこの一冊――河合文化教育研究所からの推薦図書』,河合塾教育開発研究本部,p.23
◆立岩 真也 2017/07/01
「非文化的」,『文學界』71-7(2017-7):114-115
ずっと以前、かなり長いこと(大学院に入ったのが一九八三年、常勤の仕事にありついたのが九三年)私は、予備校(河合塾)の講師やら入試問題の作成やら採点やらで稼いでいた。笑われるのだが、科目は「現代文」だった。
例えば五人ほどで「東大オープン」という模試の問題を作る。たくさん本を借りたり買ったりして、積み上げて、使えそうなところを探して、問題を作る。それはかなり疲れる仕事だった。私はもうどうでもいいやと思っているのだが、同僚たちはとてもまじめで、延々と議論が続き、いったん決まりかけた問題がさらにその3時間後、やはりこれは使えないということになったりした。今は知らないが、東大の現代文は作文一つ含めて三つあるのだか、その一つでそんな感じだった。煙草で空気は灰色になり、吸わない一人のために空気清浄器が買われ、その人の真ん前に置かれた。作業は夜遅くになることも多く、それから飲んだりすると、遠くの人はタクシーで帰ることになり、その料金はその日の稼ぎの倍ほどになったりするのだった。
やってみるとわかるが、この仕事はけっこう難しい。わかりやすい文章は、そのこと自体はたいへんよいことだが、問題にしにくい。「中ぐらい」の文章を探すのだが、困るのは、そうしたものに理屈が妙な文章、いくらか読み詰めていくと問題を作るという営み自体が不可能になるような文章が思いのほかたくさんあることだ。ただおおざっぱな構図はわりあい単純で、だからなんとなくわかる、という具合になっている。だから授業では世の中の文章のかなりの部分はこういう構図・組立てになっていると教える。「現代思想的なもの」は、当たり前だが、その年の学生たちの頭に入っているわけではないからだ。
そうして、その商売のためにある程度読んだもの、それに大学に入ってからしばらく読んできたものを足すと、言われそうなことの範囲とか、話のもっていき方のパターンとかだいたいわかった気になる。たいがいのものに既視感を感じてしまう。それは自らの行く先を考えるには悪いことではなかったが、退屈な感じは残った。そして今でもその見立てから外れるものはそう多くないように感じる。
ではお前はどうなんだ、ということになる。現代文の講師だったという笑われる、と記した。それは、わかる気もするのだが、実は私はわかっていないのだ。
まず「文体」を考えたことはなくて普通に書いている。つもりだが、「うにょうにょ」「くねくね」しているというのはよく言われる。他方「ポキポキ」しているとも言われる。「ねばねば」していると言われるが、「淡々」と、とも言われる。一時的に伝染する――教育上)困る――とも言われる。どうも「それ」といった指示語の多用――ちなみにそんな文章の場合、この「それ」は何を指すか?といった単純な問題を作りやすくはある――を減らすといったことでは収まらなそうだ。
中身にしてもそうだ。私は難しいことを考えられる人間ではない。だから書けないし、書いていない。平明に書きたいと思ってきたし、書いていると思っている。ただそうは受け取ってもらえないことがある。どうしてなのか。
「活字」にならないと人に読まれる文章にならないという時代が終わり、そうした権力関係がなくなったかのようであるという説明は一つあるだろう。誰でもなんでも非難することはできる。それはそれで動かしがたい現実ではある。多くの人は、抗弁するのも面倒なので放置しておくか、見ないことにしているはずで、私もそうしている。けれど私が書いている領域は難解晦渋それ自体が好まれるような分野でもなく、読めばわかるものがわからないという評判が立つのは本の売り手としては困るから、ほんとうは困っている。
前段は一般論で私の書き物の難点の説明にはなっていない。なぜわからないと言われるのか。一つ、先述したように、かつて言論というのはこんな具合になっているなと思って、それではだめだからもっと普通に考えようと思ったことが関係すると思う。私は「社会」のことを書いているのだが、その現実を記述する場合であれ所謂「規範論」を語る場合であれ、私に見えるもの言いたいことは、基本的なところはわれながらあきれるほど単純なのだが、その後はいくらかは複雑にならざるをえない。これは仕方がない。そこを抜かしてしまったら記述として間違っており規範論としても使えない話になってしまう。もう一つ、ある人々がその単純な話を単純に嫌いである可能性、その人々の癇に障っているように思えることがある。なぜか。まじめに説明しようとするとまじめな話になってしまう。それについて相互理解に達するためにはその私の悪文をまずは読んでもらわねば、という厄介な事態になる。
その私の文章は中学校から大学院までぽつりぽつりと入試問題に使われている。入試本番の問題なら、性格上許諾の問い合わせはない。後で知らされるか「赤本」や教材に収録しようという予備校他から知らされる。たいがい小論文の問題に使われるが、たまに現代文でということがある。もう受験産業からは撤退したからその問題を解いたことはない。
■言及他
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入試問題に使われた文章
◆立岩 真也 2016/09/10
「『造反有理』書評へのリプライ」,『障害学研究』11:271-283