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はじめに・いきさつ


立岩 真也 201909/10
青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,pp.3-10



◆青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 ※リンクはこれから増やしていきます。

■はじめに・いきさつ

 本書のもとになる調査がまず行なわれたのは二〇〇〇・二〇〇一年のことで、その事情は土屋(37頁)と田中が(65頁)記している。『自立生活運動と障害文化』(全国自立生活センター協議会編[2001]、以下ではJIL編[2001]と略記)はたくさんの人たちや組織のその時までのことがわかるとても貴重で重要な本だが、そこに収録された白石清春(29・68頁、以下すべて敬称略)の「闘争の青春を謳歌しました」(白石[2001])に二人が協力した。
 そのずっと以前、一九八六年だったか、私たちは安積遊歩(69頁)に手引きされて、相模原を訪れ、白石そして栗城シゲ子(110・222頁)に話を聞いた。「くえびこ」という――あまり作業はしないのだという――作業所のこと(222頁)、「シャローム」というケア付き住宅のこと――だが、それはあくまで次への「ステップ」という性格のものであること(225・277頁)を聞いたはずだ。
 しかしその録音記録も、文字化した記録も残っていない。その当時、私たちはインタビューの時には録音し、調査者自身が――当時は金もなかったので――文字化するようにしていたのだが、この時の記録、そしてその他もいくつかが残っていない。理由はわからないのだが、インタビューというかたちでなく、その場所を移動しつつ案内してもらったので、ということだったかもしれない。文字起こしした記録をファイルしたものに、私がメンバーに送ったメモが一枚綴じてあって、それによると八六年七月一五日に栗城に会ったとある。これだろうか。しかしこれは相模原に行った日ではないように思えてきた。その日私たちは東京(東京都立身体障害者職業訓練校)で別の聞き取りもしている。そこから相模原に行って帰ってくるのは無理のように思われる。そして、私には、その頃、脳性まひで、足指で器用に袋を縛ったりする女性に会った記憶があって、それが栗城であったように思えてきた。メモは八六年末で終わっているから、その後のことはわからない。記録が出てきたらどこかで補記する。このように、私ははなはだしくたくさんのことを忘れている。たいがい一・二枚のおぼろげな画像のようなものしか頭に残っていない――だから書いておこうとも思う。
 この八六年あるいは八七年、白石が(全国)「青い芝の会」――本書ではとくに規則性なく「青い芝」と略すこともある――の再建委員会の委員長をやめた八一年(221・260頁)からそう年月は経っていなかったのだが、(安積を除く)私(たち)はそのことを知らず、知らないからその時にはそのことについて聞かなかった。記憶では、白石自身もそのことにはまったくふれなかったように思う。私たちの調査はやがて、とくに私の場合には多く機関誌だとかマイナーな文献を集める方向に行って、それで私はいっとき障害者運動おたく・マニアになり、それで青い芝の会内部の混乱だとか、運動の分岐だとかににわかに妙に詳しくなったのだが、それは白石に会った後のことということになる。私たちは最初まったく無知だった。そしてだいぶ時間がかかり、八八年、八九年と過ぎて、九〇年に『生の技法』が刊行された。刊行前に、高橋修(283頁)――この人のことは別に書いて、二〇〇〇年に出た『弱くある自由へ』(立岩[2000])の第二版に収録する予定――とともに、かつて白石たちが訪問したという、そして追い出されたという(安積[1990:30→2012:47]、377頁に引用)「太陽の国」(西白河郡西郷村)を見学して、そして福島に一泊したはずだ。この時のことについても、ほぼなにも、覚えていない。私の頭に残っている、ような気がするのは、施設の廊下かどこかにいるという画像、そして旅館の窓辺あたりのところで夜酒を飲んでいる画像、この二枚だけだ。
 その『生の技法』の初版の第7章の扉にはトラメガ――トランジスタ・メガフォンの略であるということは後年、ウィキペディアかなにかで知った――で演説をしている格好いいそして若い橋本広芳(30・68頁)の写真がある。また、第二版(増補改訂版、安積他[1995])の第9章の扉にはJIL(全国自立生活センター協議会)の所長セミナーに出ている白石たちの写真がある。第三版(安積他[2012])でもこれらの写真を使いたかったのだが、本を出していた書店が契約していた製版会社が倒産してしまって、もとの版がなくなって使えなくなくなったのだ。もとの写真の所在もわからなかった。こうして、画像や動画もやはり残せるものは残しておかねばと思う。
 調査の初めのころは、なんだこの人(たち)はと不審に思われていたかもしれない――ということは実はほとんとなかった、安積の手引きがあったということは大きいだろう、たいがい温かく迎えていただいた――私は、だんだんとつきあいができ、運動関係の人たちに関わることになった。安積は東京の国立(くにたち)市に住んでいた。私は、九二年に『自立生活への鍵――ピア・カウンセリングの研究』(ヒューマンケア協会[1992])を作る仕事を依頼されて、がらにもなく――どうもあれ=ピア・カウンセリングは苦手だという人が、とくに男性にはときどきいるのだが――アンケートをまとめたり原稿を書いたりした。安積には「障害をもつ人とピア・カウンセリング」(安積[1992])を書いてもらった。このときの著者名はまだ安積純子になっている。
 その安積は『生の技法』の第1章で語っている(安積[1990])。安積が語ったのを私が録音して整理して、本人にみてもらったものだ。安積の章だが、われながらよくできていると思っていて、学校の授業などでも一部を読んだりすることがあった。そこに福島の人たちが出てくるから、会わなくても知っているような気がしていた。
 福島を訪れたのはずっと間があいて、九九年七月年三一日、鈴木絹江(89頁)たちの「障がい者自立生活支援センター〈福祉のまちづくりの会〉」の福祉セミナーという催に呼んでいただいた時のことだ。船引町(現在は田村市船引)で、話をさせていただいた。いただいた題は「障がいを持つ人の介助保障と介護保険」。二〇〇〇年から介護保険が始まるということで、そういう関係の話をしたのだろう。終わった後、夕方まだ四時ころではなかったかと思うのだが、近くの飲み屋に行って皆でビールを飲んだ。鈴木さんとそのつれあいの匡さん(50頁)がテーブルの前にいて、いろいろと話をうかがった。匡さんは専門学校の学生であったかの時、『さようならCP』の上映会(27頁)に、まったくなんの知識も関心もなかったのに引き入れられて、それ以来のことなのだと聞いたように思う。それ以来の話を話された。絹江さんは小さい人で、匡さんは細長い人で、髪がもしゃもしゃしていて、当時人気があったサッカー選手のラモスに似ていると思った。実際そう呼ばれているのだった。とにかくみなさんの話がとてもおもしろくて、録音機をもっていかず、録音しなかったのをたいへん後悔した――なので今では、酒の席でもときに録音機をまわす(作動させる)ことがある。
 そして、二〇〇〇年・二〇〇一年に瀬山・田中・土屋がインタビューをした。そして資料をいただいた。目的の白石の原稿はでき、さらにインタビューの記録と文献を使って、土屋は二つの論文を書いた(土屋[2007a][2007b])が、さらに書かれるべきことが残った。立岩はその調査があったこと、かなりの量の記録があること、資料をもらったことを知ってはいて、いつのことだったか――震災の前ではあっただろう――まとめられないかと提案したことがあった(二〇〇〇年の前に福島のことを土屋に話したらしいこと(23頁)は忘れていた)。だが、かなり長くそのままになっていた。
 そして二〇一一年に東日本大震災があった。生存学研究センター(二〇一九年度から生存学研究所)――私の勤め先は立命館大学の大学院・先端総合学術研究科というところだが、大学は研究所もやっていて、私は今そこの所長というものもしている――がいくらかのことをした(第8章)。センターのサイトから情報を提供した。障害学会の大会企画(会場は土屋のいる愛知大学で、土屋は大会長だった,だった)に白石を呼んだ(364頁)。第7章を書いた青木千帆子が長く関わった。その時がまとめる一つの機会であったかもしれない。ただ、地震・原発事故の後のことはきりのないように続き、どこかできりがつくようなできごともなかった。その時もそのままになった。
 そんな具合に月日は、そして年月は過ぎたのだが、二〇一七年度から一九年度にかけて文部科学省の科学研究費(科研費、基盤B)を――なぜだか何度も何度も落ちて、私はずいぶんがっかりしていたのだが――たいへんようやく得た。様々の歴史を種々の形でまとめていこうと思っている。『病者障害者の戦後』(立岩[2018d])は二年めのその成果ということになる。本書は三年目の成果の一つだ。私は、二〇一八年三月、郡山にシンポジウムに呼んでいただいのだが、その前日、白石・橋本にインタビューすることができた(258頁)――私が動いたのは、呼んでいただいたついでにという、まったく失礼なその時だけだった。他のメンバーが一八年から一九年にかけてインタビューをした。
 インタュビューは[i2000]というように記した。そして文献表には「白石 清春・橋本 広芳 i2001 インタビュー 2001/08/07 他に:吉田強・佐藤孝男 聞き手:瀬山紀子・土屋葉 於:郡山」というふうに記した。こんなふうには普通はしない。というか誰も、私もしなかった。今回初めてそのようにしてみた。未整理のもの、(まだ)公開されていないにしても、それも一つの話し手の著作物・作品と思うからでもある。文献の記号だとか文献表だとか、いかにも学者ふうだと思われるかもしれないが、けっこう合理的なものだし、慣れていただけると思う。なお(記録の残っている)インビューの一覧は以下。

◇白石 清春・橋本 広芳 2000/06/13 聞き手:瀬山・土屋
◇鈴木 絹江・鈴木 匡  2000/06/14 聞き手:瀬山・土屋
◇白石 清春       2001/08/07 +:吉田強・佐藤孝男 聞き手:瀬山・土屋
◇岡部 聡        2001/08/08 聞き手:瀬山・田中・土屋
◇宇田 春美       2012/08/29 聞き手:土屋・井口高志・土屋
◇岡部 聡        2012/08/29 聞き手:井口高志
◇白石 清春・橋本 広芳 2018/03/16 聞き手:立岩
◇桑名 敦子       2018/10/09 聞き手:田中
◇安積 遊歩       2018/10/23 聞き手:田中
◇白石 清春・橋本 広芳 2018/11/29 +:岡部聡 聞き手:青木・田中・土屋
◇白石 栄子       2018/11/29 聞き手:土屋・青木
◇冨永 美保       2018/11/29 聞き手:田中
◇桑名 敦子       2018/12/02 聞き手:田中
◇渡部 貞美・遠藤 美貴子・高橋 玉枝 2018/12/15 聞き手:瀬山
◇殿村 久子       2019/01/14 聞き手:瀬山・田中
◇鈴木 絹江       2019/02/22 聞き手:田中・土屋

◇白石 清春・橋本 広芳 i2015 「当事者運動の広がり――福島県青い芝の会」,NHK戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2015年度「未来への選択」第6回 障害者福祉――共に暮らせる社会を求めて 
◇橋本 広芳 2016-2017 『広芳の小部屋』 2016/06/30-2017/11/05 文字化した頁:http://www.arsvi.com/2010/20160630hh.htm 

 ちなみに、加えて、音声・画像が見られるもので、NHK(の記者)が聞いたものがある。また、ユーチューブで橋本のたいへん味わい深い『広芳の小部屋』を見ることができる。こちらで文字化させてもらった。これらは文献表では一覧の左の二つの◇のようになっている。

 こういう仕事はいくらでも手間をかけられる。そして手間をかければたしかによくはなっていく。しかし、そう思ってまとめる仕事を先延ばしすると、仕事は終わらず、結局何も残らないこともある。このごろ私は、「どんな手を使ったってかまわない」(290頁)、とともに、「ないよりよいものはよい」と言うことにしている。もちろん,うかがった話は、ないよりもよい、なんていうものではなかった。貴重なものだった。そして楽しかった。問題は、ひとえに私たちの腕の問題である。ときに、事前の準備が足りず、既にわかっているべきことをわざわざ(再度)話していただくことになったところもある。研究者として、人間として、だめである。おわびいたします。そして話をしてくださったみなさま、資料を提供してくださった方々、その人たちをこれまでそして今支え手伝っておられる方々、活動をともにされている方々にお礼申し上げます。

                   二〇一九年七月 調査をしなかったのに調査者を代表して 立岩真也

 *挨拶が終わった後の補足
 八〇年代の調査は、さきに記したメモと文字起こししたものを綴じたファイルによると、八五年六月から八七年四月にかけて三四回は――「は」、と言うのは、相模原でのもののように記録が失われているものもあるから――行なわれた。『生の技法』の「はじめに」を見ると、一〇〇人余りの人に話をうかがったとある。また五三名の方々の名前が列記されている。こちらにある調査の経緯についての記録は本書出版前には公開する。文字起こしした記録も、手書きのものありワープロで入力して印字したものあり(もとのファイルはない)なのだが、可能でまたその気になったものについては、入力しなおすなどして公開できればと思う。ただ、あの時のものだって使えるかもと思ったのはほぼ今日なので、その過去の記録は本書にはほとんど生かすことができない。
 それでも、こんなことを付記するのは、(「ぎりぎり」の後の)ほんとうの作業最終日の今日(七月二一日)は参議院議員の選挙の日で、れいわ新選組から木村英子が立候補しているのだが、私と石川准はその人に、一九八六年三月、東京都国立市の喫茶店スワンでインタビューしているのだ(赤窄[i1986]=木村[i1986])――今回は文献表に同じものを二つ載せてみた)。当時は赤窄(あかさこ)英子だった。B5の紙三四頁の記録がある。それ以来、彼女にはたぶん一度もお会いしていない――「たぶん」、と言うのは、「はじめまして」と挨拶すると、高い割合で相手からはじめてではないことを言われて恐縮するからだ。ただ、何度か彼女のことを聞くことはあった。近いところでは二〇一八年九月、宮崎市で山之内俊夫にインタビューした時(山之内[i2018])だ。山之内は東京でずいぶん木村に鍛えられて宮崎に戻ったのだと話した。さらに加えれば、私は昨日(=投票日の前日)、二〇一六年七月二六日に相模原の施設で起きた殺傷事件に関わる本の紹介を『朝日新聞』に書いたのだが(立岩[2019d])、そこで紹介した本の一冊は「生きている!殺すな」編集委員会編[2017]で、そこには木村の「私が地域へ帰るとき」(木村[2017])も収録されている。さらに、その事件の翌年の五月「津久井やまゆり園事件を考える集会」が開催され、「津久井やまゆり園の建替えに関する提言書」が出された時、そのよびかけ人のところに、「室津滋樹 グループホーム学会」(横塚[1975→2007:157])とともに「栗城シゲ子 くえびこ代表」を見た時、ああとても長い時間の後で、と思い、あれからずっと活動されてきたのだなと思った。こんなふうに、途切れながら、いろいろがつながっていく。ここまで書いて、寝て、七月二二日夜明けのだいぶ前、最後の仕事をと起き出したら、木村英子当選確実〜当選、との報あり。


UP:20190820 REV:20190821
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