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2008年02月28日(木)
ラサール石井さんが「暴走族コント」での失敗から学んだこと

『笑いの現場〜ひょうきん族前夜からM−1まで』(ラサール石井著・角川SSC新書)より。

(ラサール石井さんが1980年の「コント赤信号」の黎明期を振り返って)

【僕らの「暴走族」のコントは、最初まず石井が学生服で出てきて、「なんだこの静けさは」と言うところから始まる(余談だが、このフレーズをゆーとぴあのピースさんがいたく気に入り、後々ゆーとぴあのお得意のフレーズになるのである)。そこへ登場した同級生の小宮が暴走族になっているのを見て、何とか引き止めて更生させようとするところが導入部である。
 ここまでを見せると、いきなり(ゆーとぴあの)ホープさんに止められた。「おまえらのやっていることはウソだ」と言うのである。「小宮、おまえはここにいたくないんだろう。石井がちょっとでも間をあけたら。すぐに行っちゃえよ。石井、お前はこいつを止めたいんだろう。行っちゃったらなんとか引き止めろよ」。
 つまり、我々のコントは、決められたセリフをそのまま喋っているだけで、いくらでも逃げられる隙があるのに逃げない、また逃げられたら追いかける芝居ができない。というまったくリアリティーのない、予定調和な芝居だったのだ。
 そこでホープさんが、「いままでのセリフをまったく忘れて、一人は行きたい、一人は行かしたくない、それだけでもう一遍やってみろ」と言った。
 そこでもう一度やり直した。私がちょっとでもセリフを言いよどむと、小宮は「じゃあな」と行ってしまう。行かれてしまったらコントは終わってしまう。必死で腕をつかんで引き戻す。そして何とかここにいさせて話を聞かせ、いかに暴走族がよくないかをアドリブで語る。うまくいかないと、また「じゃあな」と小宮は行きかける。それを必死で止める。
 お互いに必死であった。必死だからこそリアルになる。見ているみんなが笑っている。本当だから面白いのだ。気が付いたら15分もやっていた。私は「行く、行かない」だけで、これほどコントができるのだということを初めて知った。
 まさに笑いとはこれであった。漫才でもコントでも、その時本当にそうであるというリアリティーがなかったら、人は笑わないのである。まさにお笑いも芝居も同じであった。演じていることが人に見えては駄目なのだ。
 その集会所で、毎日集まってはお互いのコントを見せあい、ああでもないこうでもないと言いあった。時にはコンビを取り替え、その場で設定を決めてアドリブでコントをつくったりもした。
 この一週間で学んだことは、後々まで非常に役に立った。コントのつくり方、演じ方、見せ方の基本をしっかりとたたき込まれたのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「お笑い」なのだから、あんまり真剣に「演じる」必要はないんじゃないか、と考えてしまいがちなのですが、このラサールさんが書かれた文章を読んでみると、それは間違いなのだということがよくわかります。

 そういえば、僕が以前読んだ「作家になるためのガイドブック」というような本にも、こんなことが書いてあったんですよね。
「『悪役が主人公のために手加減してやるような小説』は、読者をしらけさせるだけだ」と。
 物語の作者というのは、キャラクターを思い通りに動かすことができるのですが、それは「諸刃の剣」でもあるわけです。「正義の味方からの視点」だけで書いていくと、「なぜかクライマックスで突然敵のボスが改心してしまうような話」や「危機一髪のところで悪の秘密兵器が故障してしまうような話」ばっかりになってしまうんですよね。
 そういう話を作者は「感動的」だと勘違いしてしまうのですが、読者からすれば、単なる「ありきたりの予定調和」でしかありません。
 悪役は「悪役として、彼らなりの最善を尽くしている」ように見えないと、やっぱり面白くないのです。
 『DEATH NOTE』があれだけ大ヒットした理由は、キラとLの双方が「ベストを尽くして闘った」からでもあるんですよね。もしキラが途中で「改心」してしまうような「感動的な」物語であれば、多くの読者は失望したはず。

 確かに、「予定調和な芝居」の「お約束」を楽しむという文化もあるのかもしれませんが、「虚構」だからこそ必要なリアリティーというのはあるのです、きっと。
 ただ、こういうのって、あまりに突き詰めて「どちらも最善の手を尽くす」ようにすると、「どんなものでも貫く矛とどんな武器も通さない盾の戦い」になってしまいそうなんですけどね。