Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

私はどうしてライトノベルが苦手だったのか

 なぜ自分がライトノベルを上手く読むことができないのかが、どうやらやっと理解できたようだ。

 私は世代的にはソノラマ文庫が直撃しているあたりである。現代の主要なレーベルが揃うところはリアルタイムで見てきた。ライトノベルとはそこそこ長くつきあっているわけだ。ところが、どうもここのところ、自分の好きな作品と世間的に人気がある作品とのあいだに乖離が見られるようになってきた。人気の作品のはずなのに、どうも合わない、読めない、というわけだ。そして、困ったことに、どこが合わないのか、どうして読めないのかが、自分でよくわからなかったのである。私の趣味はそれほど王道志向ではないので、他ジャンル、たとえばアニメなり漫画なりにかんしても、「合わない」経験をすることはある。しかし、そういった場合には、どうして乖離があるのか、その原因をたいがい自分で分析できる。ところが、ラノベにかんしては、どうも自分で理由を掴むことができなかったのだ。普通に楽しく読んでいる作品も多いので、ラノベというジャンル自体を受けつけない、というわけではない。さらに、かなりの人気作にも合わないものがあるので、レベルの低さにすべての原因を求めるのもどうも説得力がない。「もっといっぱいぶっ殺せ」でなんとなく付きあいかたを見つけた、と書いたが、それは、ラノベの諸要素のうちで「自分にわかるところ」と「わからないところ」をそれなりに上手く選りわけることができるようになった、ということであって、人気ラノベと自分とのズレを全体として自分で納得できるようになったわけではなかった。そんな折に、掲示板で方氏にラノベの位置づけについて示唆を頂いた。これが非常に参考になって、理解が進んだところがある。ここで、まとめておきたい。そういうわけで、本稿そのものの文責はもちろん私にあるのだが、発想の出発点は完全に頂きものである。

 まず、方氏の指摘を私なりに咀嚼、敷衍しておくと、以下のようになるだろうか。

 ライトノベルは、その見かけよりもずっと、昔からある青春小説に近い。ラノベは、少年少女向け文芸小説なのである。つまり、ラノベの作者は本気で「なにか」を伝えようとしていて、ラノベの読者も本気で「なにか」を受け取ろうとしている。文学的・思想的・倫理的メッセージの伝達が、ラノベの核には存する。文芸的実践が拙い場合が少なくないので、そういった要素は付属的なものだと誤認されがちだが、ラノベはその本質からすると、娯楽小説ではないし、ポストモダン的な新しい文学とやらでもない、人生の指針と感動を与えてくれる、古典的な教養文学の一ジャンルなのである。

 いろいろと考えた結果、私はこの見解はいくつかのライトノベルにかんしては的を射ているのではないか、という印象をもっている。そう考えると、自分がなぜそのラノベを読めなかったのかがすっきりとするのである。

 私は少々年代が高めのオタクなのであるが、私にとってのオタク活動は完全に娯楽である。燃えも萌えも、ただたんにそれを感じるのが面白い、というだけのものである。それ以外に価値はなく、そして、それで十分である。完全な娯楽一元論者だ。

 この娯楽一元論が興味深いしかたで機能するのは、燃えや泣きにかかわるときだ。たとえば、燃えが成立するときには、正義とか愛とか友情とかいった倫理的価値が道具立てとして不可欠になる。そして、私のような態度のオタクは、燃えるために倫理的価値を融通無碍に弄ぶことにあまり躊躇をしないのである。たとえば、刑事がテロリストをぶっ殺す話を楽しんだすぐ後に、革命家が体制の犬をぶっ殺す話を楽しむことができる。敵であってもその生命を守ろうとするヒーローに感動したすぐ後に、雲霞のごとく群がる戦闘員たちを片っ端から地獄送りにしていくヒーローに震えることもできる。共同体の約束ごとを省みず個人の正義感を貫く姿に拳を握ったすぐ後に、祖国のために命を捨てる姿に涙することができる。両立しないはずの倫理的な価値観を、「面白ければいいや」の一言で、作品に合わせてとっかえひっかえすることができるわけだ。

 つまるところ、少なくともオタク的活動をしているかぎりでの私にとっては、倫理的価値は娯楽のための手段にすぎないのである。これはこれでいい。

 問題は、私がこういった娯楽一元論的な態度ですべてのライトノベルを読もうとしてしまっていたところにあるようだ。この態度からすると、一部のラノベにおいて扱われている倫理的価値は、どうにも大人しすぎるもののように思えてしまう。多くのラノベの展開は、現代日本の少年少女が普通に学生生活を送っていくなかで機能しているような倫理的価値の枠をあまり踏み出すことがない。たとえば、殺人を筆頭にした暴力的行為にたいする寛容度が低いことや、あるべき人間関係の理想が現代日本の学校制度の形式からそれほどはみ出さないことなどが挙げられようか。青少年の常識とは別の倫理的価値観、たとえば国家公務員、商売人、軍人などの倫理、武士道、ヤクザの仁義、学者の真理愛などを描いても、どこか部活動チックになってしまったり類型的描写で終ってしまったりする。(このあたり、子ども相手に武士道アレンジをやってのけた『侍戦隊シンケンジャー』の小林靖子の腕には脱帽する。)こういった点を、私は「もっと過激にすれば面白いのに」と不満に思い、また、「どうしてもっと過激にしないのだろう」と不思議に思っていたわけだ。

 しかし、どうやら私は出発点で間違えていたようだ。

 上述したように、あるライトノベル作品において描かれている倫理的価値は、娯楽のためのネタとしてではなく、読者が真剣に我が身に引きつけて受け取るべきものとして描かれている可能性があるのだ。もし、そうであるとすれば、私の不満はまったく筋違いのものである。現代日本の少年少女が真剣に受け取るべき倫理的価値が現代日本の少年少女の実感の枠を踏み出すことがないのは、至極当然のことだからだ。それにたいして、より過激であれ、と要求するのは、やはりおかしいだろう。

 もしもそのライトノベルが本来の対象者である中高生諸君にとって、人生の導き手という性格をもつのだとすれば、少なくとも倫理的価値にかんしては、ラノベに娯楽一元論を押しつけるのは誤りなのである。

 娯楽一元論の押しつけが誤りであるだけではなく、ライトノベルにおける倫理的価値には、独特の扱いにくさがあると思われる。これも確認しておきたい。

 「なぜ子ども向けなのか」で論じたのであるが、子ども向け作品において称揚される倫理的価値は、子ども向けだけに、単純明快な場合が多い。それゆえ、娯楽作品において燃えの焚きつけとしてもまた機能しやすい。子どもと大人オタクの快楽は、一周して一致しうるのである。

 ところが、中高生というのは微妙で、半周回った大人とは正反対の位置にいるのだよね。それゆえ、連中の倫理にかかわる価値観は、大人オタクにとって、なかなか飲み込めないものである場合が少なくない。青臭く理屈を捏ねていたり、ちょと屈折していたり、といった感じを思い浮かべていただければいいだろうか。こういった価値観は、複雑であるがゆえに、燃えのために道具として弄ぶのには適していない。接するのにある程度の真面目な態度を要求してしまうのだ。共感できなくとも適当に付き合える、といった代物ではないのである。

 そう思って自らを省みれば、そうだ、私も中学生ごろは、「人の命を奪うことが現実において悪徳であるとするならば、虚構においてもまた、人の命を奪うことは悪徳とされなければ整合性がとれないのではないか」とか、けっこう真剣に考えていたように思うものなあ。その当時の瑞々しくも痛々しい感じを、すっかり忘れてしまっていたよ。

 私くらいのいい年代のはずなのに、満遍なくライトノベルを読めるオタクたちがいる。私はこういった人たちがずっと不思議だった。しかし、今や連中と私の違いがわかった。ラノベを読める人は、妄想のしかたが倫理的なのではないか。オタクであるから妄想はするのだけれど、倫理的価値にかんしてはあまり悪ふざけの対象にしない、ということだ。こういったタイプの人であれば、作品によって合う合わないはあるにしろ、あまり抵抗なくラノベにおける真面目さと付き合えるのではないかと思われる。私はそうではないのだよね。

 私の得意なライトノベルが、たいがい職人的な上手さで読ませるタイプ、あるいは、笑い志向で真面目なところにそもそも立ち入らないタイプになるのは、こういったわけだったのだ。

 オタク文化の成熟とともに、オタク的に読解されることを前提とした作品も増えてきた。一部の漫画や深夜アニメなどは、端からオタクを狙って創作され、オタクしか興味を示さない。ここには、作品と受け手とのあいだの蜜月が成立するはずだ。そして、実際のところ、それなりにオタクである私は、こういった作品群をごく自然に、ほとんど脳を使わずに享受したり貶したりすることができる。ここに問題はなかった。

 ただ困りものだったのが、ライトノベルだったわけだ。ラノベには、どうやって面白がればいいのかわからない作品が多かったのだ。少女漫画などもどちらかと言えば苦手なのだが、この苦手意識は、たぶんジェンダーに原因があるのだろう、と分析できる。ところが、ラノベの場合は、なぜ読めないのかもまったくわからなかった。オタクジャンルであるにもかかわらず、「どう面白がれはいいのかわからず」「どうして面白がれないのかもわからない」ものが数多くある、というわけで、ラノベは私のとって二重の謎だった。

 しかし、それはそもそもの出発点で、ライトノベルの位置づけに失敗していたからだったのだ。これまでラノベはオタク的ジャンルの典型、象徴として語られていた。そして、私もそのあたりの流れに無批判で棹差していた。商業出版系評論家のオタク論などのように、ラノベをオタクが生んだ新形式の文学実践としてもてはやすような主張こそ馬鹿馬鹿しいとは思っていたが、ラノベがオタク文化に属する、ということそのものは、ほとんど疑っていなかった。もちろん、これはある意味では間違いではない。ラノベがオタク文化なしには成立しえない要素を多分に含むことは確かだ。しかし、極端なオタク的態度が行き着くであろう娯楽一元論をすべてのラノベに期待するのは誤りなのである。ラノベは複合的な文化ジャンルとして、オタク文化に属すると同時に古典的な教養文芸にも属しているのであり、後者の契機を汲みとることなしには、適切な理解は不可能だったのだ。いやはや文化というものは複雑であることよ。

 そうであるならば、オタク文化の成熟という事態についても、再考が必要なのかもしれない。オタク文化が広範に受容され成熟した、ということは、一方ではもちろん、さまざまなジャンルがオタク的な要素を含むようになった、ということである。しかし、これは他方では、オタク文化と呼ばれているものの多くが、純粋にオタク的要素だけで構成されたのではないものになっている、ということも意味している。たとえば某国営放送の大型歌番組で水樹奈々が歌った楽曲は、いかにも凡庸なJ−POPだった。しかし、あのあたりさわりのない楽曲がオタク文化の代表であることを誰も否定できないのである。オタク文化を構成する個々別々のジャンルにかんして、そのありかたをきちんと見定めていくことが、我々の次の課題となるだろう。

 最後に謝辞を。冒頭でも述べたとおり、本稿の発想の多くは掲示板での片氏のご意見に負うところが大きい。また、加筆修正にかんしては、しろねこま氏との対話が参考になった。ほんとうにありがとうございました。

ページ上部へ