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「獺祭(だっさい)」で日本酒の活路を開いた「山口の小さな酒蔵」——旭酒造

経済・ビジネス

錦帯橋で名高い山口県・岩国市街から車を西に走らせること約30分。草深く小川の流れる山あいに国内外から喝采を浴びる純米大吟醸酒「獺祭」(だっさい)のふるさとがあった。造っているのは「山口の山奥の小さな酒蔵」を名乗る旭酒造だ。

衰退業界で一人気を吐く

「国酒」である日本酒の販売(消費)数量が減り始めて久しい。1975年の167万5000klをピークに2010年には58万9000klにまで減少した。35年間でほぼ3分の1に激減した。若者のアルコール離れなどが要因だ。かつて全国に3000以上あった酒蔵も今や約1500に半減する衰退ぶり。

獺祭おためしセット

こうした衰退ムードの中で一人気を吐く酒蔵がある。それが旭酒造(山口県岩国市周東町獺越、桜井博志社長)だ。200年以上の伝統を持つ普通酒「旭富士」を捨て、苦闘の末に造った純米大吟醸酒「獺祭」を引っ提げて1990年に東京進出。92年には、今や看板商品にのし上がった「磨き二割三分」を製品化、快進撃が始まった。

桜井氏が父親の後を継いだ84年(34歳)当時、同社の年間生産量(9月期決算)は126kl(1.8リットル入り一升瓶換算で7万本)、売上高は9700万円だった。「売り上げは前年の85%に落ち込み、事実上の倒産状態。廃業寸前だった」。

それが2010年には776kl(43万本、13億円)、11年1011kl(56万本、16.5億円)、12年1447kl(80万本、25億円)へと急拡大。13年は2052kl(114万本、39億円)とさらに販売量を伸ばしている。旭酒造の最近の売れ行きは突出している。「獺祭」の何が消費者を魅了したのか。

あがき続けて生れた「二割三分」

大学卒業後、灘の大手酒造メーカーで3年半営業の修行を積んだとはいえ、桜井氏は酒造りでは全くの素人。あがき続けた結果、目を付けたのが吟醸酒造りだった。「普通酒を地元で売っていたが、売れなかった。なぜ売れないかを突き詰めていくと、求められている酒とはこれまでのような、『酔うため、売るための酒』ではなく、『味わう酒』ではないのか。そのためには酒の質を追い掛けていくしかないんじゃないか、と思うようになった。それが大吟醸酒だった」。

吟醸酒は玄米の表面から40%以上削り取り、残した60%以下の白米を原料に用い、低温(5~10度)で長期間(30日以上)発酵させ、特別に吟味して製造した酒。当然価格も高く、テーブルワインのように気楽に飲める安価な普通酒とは違う。普通酒より高度な醸造技術を要求される。大吟醸酒になると、50%以上も削り取る。旭酒造にとって吟醸酒は初めて、ましてや大吟醸酒は夢のまた夢だった。しかも、原料の酒米は酒造好適米の王者といわれる「山田錦」しか使わない徹底ぶりだ。「獺祭」が世に出る90年までの6年間、吟醸酒造りを目指して試行錯誤や失敗が果てしなく続いた。

麹菌が振りかけられた蒸し米を手でもみほぐし、麹の繁殖むらを防ぐ作業(旭酒造提供)

 

山田錦の玄米を歩留まり23%の精白米に(旭酒造提供)

ようやく90年に50%と45%の純米大吟醸酒を発売。92年には「獺祭」の金看板となる23%を売り出した。「獺祭 磨き二割三分」(77%削り、23%を使う)が生まれた経緯は今や伝説である。「それまでの吟醸酒は27%が最高だったので、25%を目指した。しかし、24%の酒があることを聞いて急きょ23%に切り替えた。2%余計に磨くためだけでさらに24時間かかった」という。しかし、この23%は消費者、酒造関係者に大きなインパクトを与えた。今や「獺祭」と言えば、「二割三分」が代名詞だ。

「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒を」

旭酒造の躍進のきっかけは東京市場の開拓に成功したことだ。社長自身が酒販店やレストランを回って、「獺祭」を置いてもらうよう頼むドブ板営業を行った。「とにかく山口県の酒の評価は低かった。広島から西で酒はできるのかと言われた。山口はほとんどが小さな蔵で、広島に比べたら、1つの蔵の大きさが5~6倍くらいの差があったし、県内消費ばかりだった。何で山口県の酒を売らなければいけんの、とも言われた」。

「地元でも普通の蔵は十分売れているから、東京に出てまで苦労する気はない。何でここまでやってこれたのかよく分からないが、1つだけ明確なのは私どもには東京に出ていかないと地元では食えないという危機感があった」という。

取り壊される前の店舗、新蔵と、右画像は本蔵建替完成予想図(旭酒造提供)

旭酒造が東京に進出した90年前後はバブル期(通説86年12月~91年2月)が崩壊に向かい始めた時期と重なる。「バブル崩壊の影響が銀座に出始めたのは95年くらいからで、閉店したバーやクラブの後に居酒屋ができた。銀座の居酒屋だから、それまでより少し高い酒を置き始めた。そこに純米大吟醸の獺祭が入り込むことができた」。

酒に何を求めるかは個人によって違う。山田錦を77%も削ると、香りがよく甘みもあってフルーティーなさらさらの大吟醸酒が出来上がるが、従来の日本酒党からは「喉をすっと通って飲みごたえがない」との指摘も受ける。逆に、従来酒では気になった糠の臭みや雑味が残らない後口の良さを気に入る人も多い。

桜井社長がこだわったのは量ではなく質。社会が酒に要求する「機能性」も時代とともに変わったと指摘し、「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒を追求する。時代がそれを求めている」と強調する。「日本酒の従来からの客をあまり追い掛けず、日本酒を飲んだことのない人、嫌いな人を顧客にしたい」。狙っているのはアルコール離れの激しい若者や女性層だ。

杜氏制度を廃止し、社員で造る

蒸し米に麹菌を振りかける作業(旭酒造提供)

大吟醸酒造りは手間も、コストもかかる。日常的に飲む酒にはならない。販売政策上からみても、「大吟醸酒しか造らない」旭酒造の戦略は特異というより、無謀だった。とにかく、米を削るのは時間がかかる。米の組織を壊さずに丁寧に精米しようとすると、精米歩合50%の米で30時間、23%の米は96時間(丸4日間)もかかる。

しかし、同社にほかの選択肢はなかった。大吟醸酒を造った経験のない杜氏(製造最高責任者)とともに取り組んだ。ところが、「できた酒は大吟醸と言えない珍妙な酒。それで、私が吟醸酒の製造技術を集めて、杜氏がそれを実行する形の生産体制を整えていった」と桜井氏。そんな中から生まれたのが日本一の精米歩合を誇る「磨き二割三分」だった。

ステンレス製タンクで蒸した米を発酵させる

酒造りは、杜氏とその下で働く蔵人たちの職人集団によって行われる。仕込みは冬季に限られるため、農閑期に入る雪国や農家の出稼ぎが大半だ。通常は杜氏が製造に関するすべての権限と責任を持ち、蔵元は販売に専念する分業体制だ。

その杜氏が「酒造りにもう来たくない」と言い出した。桜井社長が地ビール醸造、レストラン経営の新規事業に失敗し、一気に経営危機説が広がったためだ。しかし、桜井社長は、数日後に「自分たちで造る」と決断した。98年のことだった。

「杜氏は経営者の私が思っている酒を造ってくれない。冬の間にガッと造って、造ったからこれを売ってくれと言って春には帰っていく。今年の米の性状ではこの造り方では困る、酒が変だと思っても、気が付いたらできちゃっているんです。品質が非常に問題だった。自分たちで造ったほうがいいと思った」。

これを機に、桜井社長と通年勤務の社員による、杜氏に頼らない酒造りが始まる。「妥協のない酒造りに挑戦できるようになったことの意味は大きかった」。また、冬季しか造っていなかったのを、1年を通じて造る「四季醸造」に踏み切った。これで生産能力が増強された。客の注文にもリアルタイムで応えられ、品質上の問題にも直接対処できる体制が整った。

輸出市場を開拓、来春にはパリに直営店

現在、最も力を入れているのは海外市場の開拓だ。東京市場でのシェア争い激化が目に見えているからだ。「獺祭の特徴的なのは、日本酒の従来からのお客さんを追い掛けていないところ。よその酒の客をあまり取ろうとしなかったから、業界内の競争に巻き込まれなかった。これからは海外を開拓するしかない」。桜井社長の頭の中にあるのは高級化路線で海外市場を切り開いたフランスワインだ。

2002年、最初に進出したのは台湾だった。一定の成果を得た翌年、米国に販売ルートを作った。日本食ブームのニューヨークで急増しているクールな日本食レストランに売り込んでいる。「飲んだことのないものはなかなか買わない。レストランで飲んでもらうのが一番手っ取り早い。最近はワインショップなどでも少しずつ置き始めている」。

進出先は中東のドバイや香港、英国、フランスなどを含め世界18カ国。売り上げの約1割を海外が占めている。とりわけ、米国に続く重要市場と位置づけているのはフランスだ。「マーケットとしてはアメリカが一番大きいが、フランスは食の面におけるアメリカに対する影響力がものすごく強い。フランスでしっかり売れないとアメリカでも難しい」と話す。

そこで踏み切ったのがフランスでの出店だ。来年3月23日にパリに店舗をオープンさせる予定だ。モデルとなるのが今年5月、東京・京橋にオープンした「獺祭 Bar 23」だ。ショップとバーを組み合わせた直営店。「世界で売れなければ日本酒の将来はない」との信念で、海外売上比率を5割にまで高めることを目指す。

国税庁の輸出統計によると、12年の日本酒の輸出量は1万4131kl(89億4600万円)と3年連続で過去最高を更新した。日本食ブームに合わせてワイングラスで日本酒の香りを楽しむ食事スタイルが富裕層を中心に広がっている。日本食文化が今年、ユネスコの無形文化遺産に登録されたことも追い風だ。

隣の小学校の全校生徒が9人という典型的な過疎地の地名「獺越」(おそごえ)の1字をとって付けた「獺祭」は、建て替え中の本蔵が15年5月に操業開始すれば、5万石(9000kl、500万本)の年間生産体制が整う。もはや「山口の山奥の小さな酒蔵」ではなく、「山口の山奥から世界にはばたく大きな酒蔵」に変身しつつある。

【企業データ】
旭酒造株式会社
〒742-0422 山口県岩国市周東町獺越2167-4
代表者:桜井博志
事業内容:「獺祭」製造販売
資本金:1,000万円
従業員:約90名(季節雇用・パート含む)
Tel:(0827)86-0120
ウェブサイト:http://www.asahishuzo.ne.jp/index.php

取材・文=長澤 孝昭(一般財団法人ニッポンドットコム・シニアエディター/ジャーナリスト)
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