Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

抑止力の正体

 抑止力、なんてものは本当に存在するのでしょうか? 

 昨年来、抑止という言葉は話題になりました。鳩山前総理は沖縄を訪問したとき「学べば学ぶほど…(沖縄の海兵隊は他との連携のなかで)抑止力が維持できるという思いに至った」と述べました(時事5/4)。新聞はこれを「移設問題とは、『抑止力』と沖縄の負担軽減という困難な二正面作戦に他ならない。そのことは初歩の初歩のはずではなかったか。」(10/5/7朝日社説)と、気づくのが遅いよと批判しました。

 その一方で、「沖縄の海兵隊に抑止力なんてない」「というか、そもそも抑止力なんてウソだ」と考える人もいます。なぜこんな風に人によって「あれは抑止力だ、いや違う」と意見が分かれるのでしょうか??

 なぜなら、あいまいだからです。抑止力は目に見えず、手で触ることもできません。そこに部隊が存在する、ということは誰にも明らかです。しかしそれが抑止力になっているかは、見ただけじゃあ分かりません。顕微鏡とか体重計とか、どんな計測機械でも、計測はおろか有無の観測すらできません。

 抑止力というのは、ある意味、幻想のようなものです。このブログではこれまで数度に分けて「抑止ってなんだ?」ということを書いてきました。今回のテーマは「抑止のあいまいさ」についてです。

抑止力を警官とドロボウで考える


 今回は抑止力を「警官のドロボウに対する抑止」で考えてみましょう。軍隊は国外からの暴力(侵略、威嚇、強要など)に対処し、抑止するためです。国内の暴力(犯罪、テロなど)には警察が対応しています。いずれも政府に統制された合法的な暴力(軍隊・警察)によって、不法な暴力(侵略・犯罪)に対抗しています。ここには一定の同型性があります。

 警察には犯罪が起こる前に、それを抑止する効果もあるといわれています。マンションやアパートを借りるとき、物件の近くに交番があれば安心感を感じる人は少なくないでしょう。これは警察官の存在が、犯罪を抑止するという期待があるわけです。

 他にも、本屋には「万引きは警察に通報します」という札が貼ってあるのを目にしますね。飲食店なども「警察官立ち寄り所」と掲示していることがあります。あれらも、そういう札で万引き等を思い止まらせる、つまり抑止することを狙ったものでしょう。

 警察には泥棒への抑止効果がある、というのは直感的には確からしい気がします。警官が見ている目の前で、家に忍び込む泥棒はいないでしょう。ふつうは思いとどまるはずです。

 しかし、一般論としてはともかく、ある特定の場合について、それを証明できるでしょうか?

ドロボウがいないのは警察官のおかげ??


 とても治安のいい町があったとします。この町の交番には昔からベテランの警官がいます。パトロールから道案内から、よく働いてくれている、とします。

 この町内ではここ数十年、なんと一回もドロボウが発生していない、としましょう。このとき「うちの町が治安がいいのは、あのお巡りさんのおかげだ(=ベテラン警官の存在が泥棒の抑止に成功している)」と言えるでしょうか?

 いいえ、そうとは限りません。他にも色んな可能性があるからです。もしかするとここはモラルがとても高い町で、ドロボウするような人は最初から存在しないのかもしれない。あるいは住民がみんな豊かだから、盗みを行う動機がないのかも。実際、たぶんこの町の治安の良さは、色んな要因の複合によっているのでしょうし…。

抑止力は厳密には証明できない

 だから、この治安の良い町で「ベテラン警官が抑止力となり、泥棒を抑止している」とは立証できないのです。直感的には、警官の存在は治安のために多少は寄与している気がします。他の町の状況と比べれば何がしかのことを言えるでしょう。それでも「だからこの町の治安はベテラン警官のおかげだ」と断定できるかというと、やっぱり難しいのです。

 軍隊や自衛隊の抑止力についても、同じことが言えます。ここに平和な国があったとします。その国は抑止のために国軍を保有しています。かといって「軍隊の抑止力があるから平和なのだ」と証明することは、できません。

 かつてアメリカの国務長官(外務大臣)をつとめたキッシンジャーは、こう言っています。

「抑止の効果は、実際には”起こらない”ことによって、消極的な方法で試される。しかし、何が、なぜ、起こらないかを立証することは絶対に不可能である」ヘンリー・キッシンジャー


(「キッシンジャー秘録 第一巻」 小学館 p257)

 こういうわけですから、ある軍隊、ある部隊がほんとうに抑止力として機能しているか、厳密に証明することはでません。色々な傍証によって「たぶん、おそらく、かなりの程度で抑止力になっているだろう」と”推測”するのがせいぜいです。

抑止力は無くなって初めて分かる

 ただし、一つだけ、抑止力の効果を証明する術はあります。先ほどの平和な町から、交番をぶっ壊して、ベテラン警官を解雇すればいいのです。

 もしそれによって「しめしめ、やりやすくなった」とばかり、ドロボウが発生したならば、それまではベテラン警官氏の抑止が効いていたと分かります。

 つまり抑止は、破綻したときに、初めて「ああ、これまでは○○が効いていたんだ」と分かることがあるのです。しかし、実際に住民の身の安全がかかっていることを考えると「ちょっと実験してみよう」というのも難しいでしょう。

 軍隊による抑止、とくに核抑止についてこれを述べたのが、同志社大学の村田教授の説明です。

はたして核抑止は機能してきたのか。この問いに客観的に答えることはきわめて困難である。というのも、核抑止のみならず、およそ抑止(さもなければ他者がそうするであろうことをさせないこと)は、破綻してみなければ、それまで機能していたかどうかを証明できないからである。


……もとより核抑止に関して、このような確認をとるわけにはいかない。そのため、一方では、感情的・主観的な核抑止否定論が繰り返され、他方では、核抑止理論の精緻化が進み、軍事専門家の間ではそれをめぐる神学論争が展開されてきたのである。


(p65−66 村田晃嗣「日米安保関係と核抑止」 「なぜ核はなくならないのか―核兵器と国際関係」法律文化社)

 核戦争ならずとも、抑止の効果を実験で確かめるわけにはいきません。「この部隊に本当に抑止力があるか確かめるために、ちょっと全廃してみよう」などとやって、それで戦争を招いてしまったら、抑止力の証明はできるかもしれませんが、時すでに遅しです。

破綻した抑止、後で分かった抑止力

 これまでも抑止は数限りなく破綻してきました。部隊の撤退によって、あるいは失言などによって。そして破綻したことによって、それまでは何が抑止効果だったのかが、かなりの確からしさで分かりました。

 例えば1950年の朝鮮戦争です。このとき北朝鮮は韓国に攻め込みました。このきっかけになったのが「アチソン宣言」です。アメリカの国務長官(外務大臣)だったディーン・アチソンが「アメリカが責任を持つ防衛ラインはフィリピン・沖縄・日本・アリューシャン列島までである」と述べました。韓国を防衛ラインに含めなかったのです。

 北朝鮮の金日成(キム・イルソン)はこれを聞いて「韓国に攻め込んでもアメリカは増援に来ないのか」と早合点し、開戦への傾斜しました。それで結局戦争になったのですが逆にいうと、それまではアメリカ軍が抑止力になって、北朝鮮は韓国侵略を思い止まっていた、と推測できます。

 あるいは在フィリピン米軍の抑止力です。フィリピンは94年に在フィリピン米軍を撤退させました。その直後から中国海軍の活動が活発化し、フィリピンが領有権を主張していたスプラトリー諸島のミスチーフ礁らが占領されました。このことから、それ以前には米軍が中国への抑止力になっていたと推測できます。

 ともあれ、これらはみんな「後の祭り」ではあります。後から「ああ、あれで抑止が破綻したんだな。それまではあれが効いていたんだ」と分かっても、亡くなった命や奪われた領土は戻りません。

  例外としては、96年の台湾海峡ミサイル危機が挙げられるでしょうか。すわ中国が台湾に攻め込むか、と思われました。そこへアメリカ軍が空母二隻を急派したところ、何とか事態が沈静化しました。しかしこういう劇的な例は稀です。

抑止力の正体

 このように抑止というのは、何だかよく分からない、曖昧なもののように思えます。目にも見えず、手に触れることも、観測することもできません。かつまた、抑止力の効果が目に見えて明らかになるのは、たいてい破綻した後のことです。過去の抑止力については分かっても、現在ただいまの平和、そのどの程度が抑止のおかげなのかは分かりません。まるで雲をつかむような話です。

 だからといって「抑止力なんて無い」かというと、そうとも言えません。警官とドロボウの例えに戻りましょう。ある町の、ある警官が抑止力になっているかは分からない、という話でした。しかしだからといって一般論として「警官には犯罪への抑止力が無い」のでしょうか? だとすれば警察を全廃しても犯罪は増えない、となってしまいます。それはちょっと考えにくいでしょう。実際、前述のように抑止が破綻した例をみると、それまでは抑止が効いていたことはかなり確からしいでしょう。

 なぜ抑止はこうもアヤフヤで、それなのに時に効き目があり、しかし観測できないのでしょう。それは結局、抑止とは人の心の中にあるものだからです。当然、見たり、触ったりはできず、あいまいです。幻といえば幻、しかし事態を左右します。警官の姿を見て「あ、ヤバい、止めとこう」と思うドロボウの心の反応、それが抑止力の正体です。


 とはいえこんなに曖昧では、実際に○○の部隊は抑止力として機能してる否か、といった具体的検討ができません。どんな条件を満たせば抑止力になり、どうしたら無意味で、どんな時に破綻するかを、より明らかにする必要があります。

 また、抑止に依存することの問題点も見過ごせません。警官に抑止効果があるといって、それだけに頼れば警官だらけの監視社会となり、それはそれで暴力的です。同様、平和のために抑止力を大きくしようとして軍拡競争になっては、かえって平和を損ねます。これらの点を吟味し、抑止の条件と限界について考えたいところですが、それらは次回と致しましょう。

この記事の主な参考文献

新訂第4版 安全保障学入門
防衛大学校安全保障学研究会
亜紀書房
売り上げランキング: 12487
おすすめ度の平均: 5.0
5 まさに安全保障の教科書