今週は再び川端康成特集にもどり、「文学の舞台を歩く」の第二回として「雪国」を歩いてみたいとおもいます。雪国は御存じの通り、越後湯沢を書いた小説ですが、作者が意図したのか、作品のの中には越後湯沢という地名は一切出てきません。
<川端康成「雪国」> この「雪国」という小説は、当初から考えられていた小説ではなく、幾つかの小説を推敲してまとめて昭和12年に「雪国」として発表したものです。川端康成は「雪国」を昭和12年で終わらせず、戦後の昭和22年に書いた「雪中火事「と「天の川」の二つを加えて、昭和23年決定版「雪国」として再び出版します。現在の「雪国」は、これが底本となって出版されています。まず最初に書かれたのは昭和10年の「夕景色の鏡」で、あの有名な書き出しは当初は「国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった。」となっていましたが、決定版では「国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」と書かれています。ここばかりではなくて、その他の部分でもかなり修正しています。ですから、「雪国」は時が経つほどにどんどん長くなって行った小説です(つまり、戦前と戦後で長さか違う小説の「雪国」です)。岩波文庫の”あとがき”に川端康成本人が書いています。「「雪国」は昭和九年から十二年までの四年間に書いた。年齢にすると三十六歳から三十九歳で、三十代後半の作品である。息を続けて書いたのでなく、思い出したように書き継ぎ、切れ切れに雑誌に出した。そのための不統一、不調和はいくらか見える。はじめは『文芸春秋』昭和十年一月号に四十枚はどの短編として書くつもり、その短編一つでこの材料は片つくはずが、『文芸春秋』の締切日に終わりまで書ききれなかったために、同月号だが締切の数日おそい『改造』にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加わるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがったものになったのである。私にはこんなふうにしてできた作品が少なくない。この「雪国」のはじめの部分、つまり昭和十年一月号の『文芸春秋』と『改造』とに出した部分を書くために、私はこの「雪国」の温泉宿へ行った。そこで自然と「雪国」の駒子にもまた会うようなことになった。はじめの部分を書いている時に、あとのほうの材料ができつつあったと言えるであろう。またはじめの部分を書いている時に、おしまいのほうの材料ほまだ実際におこっていなかったというわけである。」、と書いています。かなり正直に書いていますね。
★左上の写真は私の手元にある「雪国」です。順に紹介すると、左上が昭和12年版創元社の「雪国」(初版本ではありません)、右上が鎌倉文庫の昭和21年版「雪国」(創元社版と内容は同じです)、下の段は、左から新潮文庫、角川文庫、岩波文庫です。
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