WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第66回:柳 美里さん
演劇シーンで、文学シーンで、心に突き刺さるような作品を発表し続けてきた柳美里さん。小学校の時、ほんのちょっとタイミングがずれたことでいじめにあった彼女にとって、読書は単なる趣味や気晴らし以上のものがあったといいます。柳さんに居心地のよい場所を提供してくれた本とは、どんなものなのか。大切な本たちと語らってきた日々を振り返ってくださいました。そして、このたび、7年の歳月をかけて上梓した、一冊の絵本に託す思いとは…。
(プロフィール)
1968年生まれ。高校中退後、「東京キッドブラザーズ」を経て、88年に演劇集団「青春五月党」を結成。93年、『魚の祭』で岸田國士戯曲賞、96年、『フルハウス』で野間文芸新人賞、泉鏡花文学賞受賞。翌97年、『家族シネマ』で芥川賞受賞。著書に『石に泳ぐ魚』『ゴールドラッシュ』『8月の果て』など。私記として『命』四部作を刊行し、累積120万部のベストセラーに。
――幼い頃の読書の記憶を教えていただけますか?
柳 : そうですね…。うちがすごく貧乏だったんです。なので子供用に絵本を買ってもらった記憶はないんです。じゃあ何を読んでいたのかというと、父が20歳くらいで日本に来た在日韓国人で――私も母も在日韓国人ですけれど――読み書きができず、でも人一倍、本に対する憧れが強い人だったんです。子供のためというよりは自分のために世界文学全集や日本の昔話集などを揃えていたので、私はそれを眺めていました。父にとっては分厚い本がいい本で、読んで楽しむというより、憧れの眼差しで眺めている感じでしたね。世界文学全集は岩波書店の子供版で、結構さし絵や口絵が入っていたので、幼稚園くらいの時に本棚から引き出しては、絵を眺めていました。そのうちにこれはどういう物語だろう、と惹かれはじめて、自分で『アラビアン・ナイト』や『小公女』を読みはじめました。やっぱり『アラビアン・ナイト』は物語の広がり方が面白かったですね。
――幼稚園の時に本を読んだというのがすごい。
柳 : 知りたい、という気持ちが強かったんですよね。両親とも働いていたので読み聞かせてもらうこともなく、自分で読むしかなくて。母はキャバレーのホステスで、その前は橋のたもとでキムチを売っていました。横浜橋のたもと。ヤクザに場所代を払っていないとからまれて、でもいろいろ話したら「俺も在日だ」と言われ共感を得たりしていたようです(笑)。
――ちなみにご家庭で使われていた言葉は?
柳 : 子供に対しては日本語でしたが、父と母が喋る時は日本語の時もあり、韓国語の時もありましたね。母は5歳くらいの時に日本に来て、一応朝鮮学校は出ているんですが、韓国語は流暢ではないんです。父も母と喋る時は基本的に日本語でしたが、ちょっと子供に聞かせられないな、という内容は韓国語になっていました。なので、子供の時はわりと、汚い言葉は韓国語で覚えました(笑)。
――小学校に入学してからはいかがですか。
柳 : 図書室があるのでかなり入りびたりました。…というか、小学校に入ると同時にいじめにあったので、図書室が避難所だったんです。それで本を広げて読んでいました。
――いじめですか。
柳 : なかなか喋れなかったんですよね。言葉を覚える時期に、日本語と韓国語の二つが飛び交っている環境にいたものだから、うまく話すことができなかった。タイミングがずれたんです。私が喋れないうちにみんな仲良くなってグループができてしまって。最初の遠足で、仲のいい子たちでグループ作りなさいと言われた時、私のまわりには誰もいなかった。先生が「柳さんをいれてあげる人は手をあげて」と言っても、誰も手をあげない。結局は先生のグループで食べていました。そうやって最初につまづいて、図書室に逃げて本を読むと、登場人物と親しくなるというか。図書室に行けば本があり、それはイコール登場人物の誰かがそこにいるということで、私にとっては待ち合わせ場所みたいな感じだったんです。
――親しくなった本たちは。
柳 : 『ナルニア国物語』が好きでした。その一方で、ポーの『黒猫』のような不気味な話や怪談も好きでした。通信簿を観ると、成績は悪いんですが、コメント欄に「読解力は大人なみ」とあって。それでまた嫌われるんですけれど(笑)。
――『ナルニア国物語』のラストにはどのような感想をお持ちですか。
柳 : うちが問題のある家庭だったせいか、さんさんと陽が降り注ぎ、いわゆる希望や幸せが作られて話が終わる、というのは子供心に嘘だと思っていましたね。もちろんフィクションではあるけれど、自分にとっての逃げ場である限り、幸せな終わり方は裏切られる気がして。『ナルニア国物語』の最後は、私は好きです。ああ、死の国だったんだ、という…。ポーに惹かれるのも、そこだったんだと思います。人には暗い部分があって、それも立ち入れないような暗さなんだけれど、本を読むことでその中に立ち入っていくことができる。現実の中でうさぎのようにビクビクしていたので、うさぎが巣穴に潜り込んで身を隠すのと同じように、私にとっては暗い世界は居心地がよかったんです。
――では、ハッピーエンドの物語というのは…。
柳 : ハッピーにもいろいろありますが、予定調和的なものが苦手です。それに私が思うのは、ハッピーというのは状態ではない、ということ。幸せって、瞬間瞬間にきらめくようなもので、状態ではないと思うんです。ですから「私は幸せになりたい」ということの意味がよく分からない。幸せはなるものじゃなくて、その一瞬一瞬を作っていくものだと思うんです。だから、幸せを状態のように書かれるのが嫌でした。
――例えば「お姫様と王子様は結婚して、その後ずっと幸せに暮らしました」というような。
柳 : そういうものには馴染めませんでした。
――小学校の中高学年になっていくと、どんな本を?
柳 : 記憶に残っているのは、小学校5年生の時に学芸会があって、全員参加で何か舞台をやらなければいけなかったんです。私は書く側にまわりました。そこで、シェイクスピアの『リア王』をやることになったんです。父の、化粧箱に入っているような古いシェイクスピア全集をもとにしたんですが、1時間の劇にまとめなくちゃいけないし、台詞もみんなに分かる話し言葉にしなくちゃいけなくて、かなり読み込ました。
――台本1本作るという大役を一人で!? 先生は…??
柳 : 先生は何もしませんでしたね。徹夜で読んで書き直して、大変でした(笑)。でもそれが、好評だったんです。すごく拍手がきたことを覚えています。『リア王』が好評だったので来年もやろうということになり、次はどの作品をやるか決めるためにシェイクスピアを全作読みました。それで翌年は『冬物語』をやりました。
――すごい。小学生でシェイクスピアを読み、何を感じたんでしょう。
柳 : 読んでいて、人が自分の中で立ち上がってくる感覚の面白さを感じました。『マクベス』で魔女が運命をかき混ぜているところや、荒野をさまようリア王とか…。自分がいる場所からかけ離れた人物や風景が立ち上がっていくことが面白かった。
――それで戯曲を書く楽しみに目覚めたとか?
柳 : その時は書くことが楽しかったですね。何時間書いても苦ではなかった。卒業アルバムにも、将来なりたいものの欄に「作家になる」とありますね。小説か戯曲かはあいまいだったと思いますが。
――個人的に何か書いていたんですか。
柳 : 小学生の頃は日記をつけていました。毎日というよりも、感情が高ぶった時に。学校を燃やす計画みたいなものとか(笑)。なのでちょっと創作が入っていましたね。
――学校を燃やす。相当、学校が嫌いだったんですね。
柳 : その頃って辛かったんです。シェイクスピアの台本のように、認められる部分というのはあったんですけれど、承認されるよりうち消されることが多かったんです。得意なことがあっても認められず、相変わらず私は「バイ菌」というあだ名でした。プールの時間、みんな泳ぐ番の子を応援しているのに、私の番では「柳、オエー」って言われてた。私はかなづちで泳げず、プールの中を歩いているので、25m歩く間中、ずっとそれが耳に入ってくる。先生も制止しないで笑ってる。あんなにシェイクスピア劇で頑張ったのに「オエー」なんだ、って空しく思いましたね。両親が別れて母が愛人の元に走り、私は母についていったので愛人と暮らさないといけなくなって、家でも学校でもやっていられない状態で。だけれど、本を読んで、その世界を立ち上げれば、そこに没頭することができた。その頃の本って、私にとっては逃げ場所以上のものがありました。
――中学校はどうだったんですか。
柳 : 中高一貫の私立に行ったので、学区外の学校に行きました。今振り返ってみて思うんですが、やっぱりその頃も、本は悲劇的なものに惹かれていましたね。上田秋成の『雨月物語』が好きでした。「浅茅が宿」では女が家で待ち続けていて、男が帰ってきて食事の用意をしたりするけれど、朝起きたら何もない。「菊花の約(ちぎり)」も、必ず戻ってくるという約束を守るために、牢の中で自害して戻ってくる話。形のないものや人の思いの強さに惹かれたんでしょうね。
――その頃も、本は図書室で選ぶことが多かったんですか。
柳 : そうですね。でもそれは借り物にすぎない。なので何をしたかというと、ノートに写していました。返さなくちゃいけないし、頻繁に借りるのも気が引ける。でも言葉を自分のものにしたいから、蔵書というか“蔵言葉”にしようと思って(笑)。いいと思った部分はものすごく書き写していました。
――どんな作品を?
柳 : 『雨月物語』のほかは、太宰治も読みましたし、ドストエフスキーも。『罪と罰』は相当写しました。ヘッセの『車輪の下』も写しましたね。ヘッセは教科書に載っていたのが面白かったので、全部読みました。『荒野の狼』とか『シッダールタ』とか…。そうですね、ヘッセと太宰とドストエフスキーは全部読みました。
――この作家が面白いと思ったら、全作品読むのですか。
柳 : 一人の作家に出会って、いいと思ったら全部読みたくなるんです。そこから、例えば太宰だったら親しかった檀一雄とか、同じ年代の織田作之助とか中原中也とかを読み始める。ヘッセだと、同じドイツのものをと思ってトーマス・マンを読んだり。そういう広げ方でした。
――書き写したノートも相当数あるのではないですか。
柳 : 今も一部残っています。でも、ほとんどは、何かで死のうと思った時に、焼いちゃいました。親の家族に属しているうちは親にそのノートを見られるのが嫌だったんです。日付が書いてあるので、この時期にこういうものを読んでいたんだと分かるのも嫌で。現実から離れたくて書いていたので、現実の人に読まれるのが嫌だったんですよね。
――そうですか…。中高一貫ということで、高校は…。
柳 : 高校はほとんど行っていないんです。中学校で学校は終わりです。中2くらいから、停学の繰り返しで。中2からほとんど行っていないですね。それだから、本を書き写す時間もあったんです。
――停学になった理由は…。
柳 : 厳しいミッションスクールだったので、家出すると停学になる。私の場合、家出してマンションの屋上から飛び降りようとしているところを管理人に取り押さえられ、名前を言わずにいたら警察に補導されて。それ自体対面の悪いことだということで、停学になったんです。煙草を吸って停学になったこともありましたが。とにかくそれで、中3の段階で、私を上にあげるかどうか、教師たちが話しあって。その時に、化学の先生が、私を退学させるのは迷える子羊1匹を助けようとする教えに反する、と強く主張して、学校に残れることになりました。だけれど、どんどん駄目になっていきましたね。学校に行くため電車に乗ろうとすると、過呼吸になる。身体的に駄目になってしまって、北鎌倉から大船に出なくちゃいけないのに、逆方向に乗って久里浜まで行き、海を見る、ということをよくやっていました。
――終点まで行って。
柳 : 行き場がなかったんです。自分が敗れているというか、惨敗者というか。無理なんだ、という感じしかなかったですね。
――そういう辛い時に、本が支えてくれた。
柳 : 『車輪の下』や『人間失格』など、本に救われました。どこか、一人じゃないと言ってくれている気がして。どんなに救いのない話でも、登場人物にしろ作家にしろ、同じ苦しみを苦しんだ人がいるんだ、というだけで励まされている部分がありました。実際に生きている、家族や友人とは話せないことでも、本を読めば分かるというか。太宰は繰り返し読みました。評伝を探して神田まで行って、太宰の遺体を引き揚げたという編集者の野原一夫さんの評伝や、太宰の奥さんが書いたもの、心中した山崎富栄さんの日記など、全部買いました。神田の、無頼派の本を集めている古本屋に子供がぶらっと行っていましたね。本は高いんですけれど、当時離れて暮らす父が、月々3万くらい振り込んでくれていたんです。それで本を買っていました。書店の人が心配して「大丈夫? 読み終わったら同じ値段で買い取ってあげるよ」と言ってくれたりはしましたが、まあ、そのまま自分で持っていました。
――そうした中で、高校を辞めて劇団に?
柳 : 辞めてすぐだったかどうかはちょっと記憶が正確ではないんですが…。学校にはずっと行っていなくて、辞めたというか退学処分になる前か後に、東京キッドブラザースの芝居をたまたま観たんです。原宿の竹下口の入り口に、稽古場兼小劇場があって。その時に上演していたのが『失われた藍の色』で、ミュージカルなんですが、ものすごく暗い内容でした。レビュー小屋の話なんですが、スターの男性に新人が恋をするけれど、実は彼は何人ともつきあっていて、彼女は棄てられる。彼女は彼と関係のあるものを捨てようとして、シーツや枕や、一緒に作ろうと思っていたサラダの野菜も放り投げる。そして最後、自分を放り投げざるをえなくなって、たしか服毒自殺をする。それだけでなく、そのレビュー小屋ではよくないことがいろいろ起こっていて、隣の酒場のマスターが、もう見たくないと行って自分の目をつぶす、というのがラスト。見えなくなった目の中に、懐かしい人たちが帰ってくる…という内容でした。
――それは重い内容ですね。
柳 : かなり衝撃を受けまして。それで入りたいと思ったんです。キッドの芝居の中でも異色だったので、他の芝居だったら、どう思っていたか分からなかったですね。本当に救いがない内容だったので、これだと思ったんです。それまではヘッセも太宰もドストエフスキーも、共感できるのは死んだ作家ばかりだった。でも生きている人の表現として見せられたら、もう、行くしかないというか。それで、キッドの研修生になったんです。
――研修は、どのようなことを?
柳 : 研修生の稽古方法が変わっていて。いわゆる台詞の稽古ではないんです。泣き、笑い、怒りの感情を表現する稽古でも、例えば人生で悲しかったことをみんなの前で話して、主宰者である東由多加さんがパン、と手をたたいたら、泣かないといけない。台詞ではなく、自分を出す、という稽古だったんです。ほかには、課題図書というか、研修生の間で読まないといけない本があって。私が読んだことのない本が幅広く入っていましたね。丸谷才一さん、沢木耕太郎さん、『月と六ペンス』のモーム…。もちろん、演劇論の本も読みましたが。
――そこで、今まで読んできた小説とはまた違うものに触れたわけですね。
柳 : そうですね。それとは別に、しばらくして東さんと付き合いだしたんです。私が16歳で、東さんが39歳の時なんですけれど。年上なのでお金を渡したがるんです。これをあげるから、本を読みなさい、映画を観なさい、って。そのお金は全部本と映画に使いました。本は東さんに勧められるものが多かったですね。小島信夫とか、大江健三郎とか、寺山修司の短歌集もあって…。研修生の課題図書も含めて、どれも東さんの好きな本だったのかなと思います。映画も、これを観ておいたほうがいい、と、『ぴあ』を広げて黒澤明や小津安二郎、タルコフスキーなんかの映画にマルをつけてもらっていました。
――読書傾向はすっかり変わったんですね。
柳 : 乱読でした。知らない世界を知る、という読み方を知りました。本屋に行って新刊コーナーで、生きている人の本を買うようになったのもその頃です(笑)。よしもとばななさんや山田詠美さんも読みましたね。ちょうど『キッチン』が出た頃だったのかも。
――その後、戯曲を書き始めたのは、東さんに勧められてだそうですが…。
柳 : キッドのもうひとつの研修生の養成方法に、日記を書かせるというのがあったんです。ノートに毎日書いて、前期が終わったら東さんに提出する。私はもろに東さんとのことについて、自分の気持ちをドロドロ書いていた。みんなはコメントをつけて返されていたけれど、私の返してもらえなかったのかな…。「あんなもの書いちゃいけないよ」って言われて。その後、感情的な摩擦がありつつ、役者として東さんに演出されることは、私にはできませんでした。演出家と役者のカップルって多いんですけれど、私には精神的にきつかった。東さんって、劇団内の人間関係をたぶらせて戯曲を書く人で、ある時渡された台本に「別れます」という書き置きが、私の台詞になっていて。うわー、これは人前で読めない、と泣いてしまって。それで、私、本番前に逃げちゃったんです。並ぶ観客をかきわけて逃げて、土砂降りの中、後輩の女の子が追いかけてきて、必死で引き留めてくれて。その時に、決定的に、私には芝居は向いていないなと思ったんです。それでやめるやめない、という話になった時に、「あなたは書いたほうがいいかもしれない」と言われました。で、書いたんですよね。小学校の時の話と同じで、書く物が認められたわけではなく、演じることが認められずに書くことになったというか。承認されず居場所がなく、追いやられて追いやられて、本に辿り着く…。
――その後すぐにご自身の劇団、青春五月党を作られたわけですか。
柳 : 18歳でキッドをやめて劇団を旗揚げして、最初の戯曲である『水の中の友』を書いて、役者を集め稽古場を押さえ、劇場を決め…。1年くらいかかって、公演を打ったのが19歳の時ですね。
――その頃、読書というと…。
柳 : やっぱり本は読んでいました。同時代の人で、何人か面白いと思う人を見つけて、新刊が出ると買っていました。よしもとばななさん、山田詠美さんはある時期まで全部読んでいました。吉本隆明さんも読みましたね。よしもとさんは、読んでやっぱり言葉に力があると思いました。新しいというか。私が書きたい世界だと思いました。だから、私は書かなくていいや、と思ったほど。『白河夜船』なんて、10冊くらい買って、「これいいよ」と人にあげていました。…でも実際に自分が書いてみたら、全然違う小説になりましたけれど(笑)。それと、何度も繰り返して読んだのは『アラビアン・ナイト』や『ナルニア国物語』。これは本当に好きなんだなって思います。今も定期的に読んでいます。太宰治はある時期離れました。思春期にものすごく読んだものは、自己嫌悪に近いものを感じて、ちょっと離れてしまって。ただ、小さい頃に読んだ『ナルニア国物語』や『指輪物語』、『ゲド戦記』といったものは、弱った時に読み返します。劇団などいろいろやって人間関係が厳しくなると、私は胃にきてしまって、何度か出血性胃炎とか、十二指腸潰瘍で入院しているんです。1か月か、長い時は2か月とか。その時には繰り返し『ナルニア国物語』を読みます。もう、「アスラン…」とつぶやく勢いです(笑)。
――小説を書いたきっかけは?
柳 : 日本では、戯曲そのものってあまり読まれないんですよね。本にまとめても売れない。といって舞台にすると、いい意味でも悪い意味でも、演出家や役者の力によって、また違うものになって表現されていく。戯曲は自分で書いていましたが、途中から演出は他の人に任せるようになっていて。私は戯曲を書く際、だんだんト書きを書き込むようになって、例えば単に「泣く」とは書かずに「ガラスの上を伝う雨のように涙がこぼれる」などと書いていたんです。でもそんな風に泣くことはできませんよね(笑)。ある演出家は、役者全員に、ト書きの部分をすべて真っ黒に塗りつぶさせていた。「ト書きにひっぱられてしまうと、がんじがらめになってしまうから」って。その舞台が『魚の祭』だったんですが。
――岸田國士戯曲賞を受賞した作品ですね。
柳 : そうなんです。私の中で、フツフツと、ト書きまで含めて読んでほしいという思いがわき上がってきて。書いてダイレクトに読者に渡したい、と思うようになっていたんです。その時に、新潮社の矢野優さんから小説を書きませんかと言われて。それが小説を書くきっかけでした。
――小説を書くようになってから、読書傾向に変化はありましたか。小説を書く立場で読んでしまい、素直に読者として楽しめなくなった、という作家さんもいますが。
柳 : ある時期まで、同時代の人の小説は遠ざけていましたね。確かに、そういう読み方をするのが嫌だったのかもしれません。書評などを書く場合などは、本との関わり方も変わりますし。そうした関わりをまったく感じずにすむのが、海外のミステリー。手当たり次第、沢山読みました。
――アガサ・クリスティーとか?
柳 : クリスティーとか、パトリシア・ハイスミスとか。あとは『このミス!』に挙がったものを買い込んで、年を越す(笑)。この先どうなるのか、と思いつつ、単純に楽しんで読みました。
――犯人はこいつに違いない! とか。
柳 : ああ、違った! とか(笑)。
――それは今もですか?
柳 : 今は逆に、同時代の人の作品を読んでいます。時期のよって「同時代の人の作品を読め」という声がするというか。たまたま対談が多くなったりするんです。対談では、私はその人の近著だけを読んでいくということができないんです。全部読みます。最近も、江國香織さんに続いて、桐野夏生さんとの対談があって…。
――えっ、お二人とも、かなりの作品数ですよ!
柳 : 全部読みました。
――すごいー!
柳 : あっ、今思い出したんですが、30歳をすぎてから、村上春樹さんを全部読みました。ベストセラーになっているものってあんまり読みたくない、という気持ちがあって、それまで一冊も読んでいなかったんです。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が面白かった。もうひとつの世界のリアリティが立ち上がってくる感覚。読んでいると、自分がいる世界の空気が薄くなっていくというか。これはすごいなと思いました。ああ、相変わらず、現実とは違う世界を書いたもののほうが好きなんですね。自分が書くものは違うのに(笑)。
――今、お子さまがいらっしゃるから、児童書も相当読まれているのでは? お詳しいと聞きましたが。
柳 : 寝室の本棚は児童書で埋まっています。全部読み聞かせました。聞いたことのあるタイトルをザボッと買いますし、私のチョイスだけだと偏るから、月1回、絵本を届けてくれるサービスも利用しています。『メロップスのわくわく大冒険』といった、自分で選ばないものが送られてくるんです。子供の反応を見て面白そうなら、同じシリーズや、同じ著者のものを買い揃えます。発見したのは、児童書を音読する楽しみ。自分が読んでいてつまらないと「こっちのほうが面白いよ」と本を替えますね(笑)。
――そして今回、ご自身でも子供向けの『月へのぼったケンタロウくん』を上梓されましたね。
柳 : 私が絵本を書こうと思いたったわけではないんです。キッドの東さんとは、裏切ったり裏切られたりといろいろあったんですけれど、15年一緒にいたというか。東さんの子供ではないんですが、子供ができたときに、ちょうど東さんが癌だとわかって、一緒に暮らし始めました。私が妊娠している期間は十月十日。東さんは8か月の命。お腹の中で子供が育っていく期間が、癌が悪化していく期間でもあった。生まれる時に生きていられるかどうか瀬戸際のところだったんですが、奇跡的に延命でき、私が産気づいた時も病院に連れていってくれたりしたんです。そのことはこの物語にも書いてありますが…。
――お子さんが1月に生まれて…。
柳 : 東さんが亡くなったのが4月20日で。子供はできることが増えていくのに、東
さんはできないことが増えていって、起き上がることもできなくなっていった。やっぱりこのまま亡くなるのはやりきれない、と東さんが言ったんです。子供と会話ができるようになるまでは生きていたい、と。子供が「おじいさん」なり「東さん」なり呼んでくれるようになるまでは生きたいけれど、無理かな、って。2月くらいから、1週間もつかもたないかと言われながらも1日1日命を延ばしていく中で、絵本なら文字量も少ないし、残せるんじゃないかと言いだしたんです。それなら子供が大きくなった時に読んでもらって、言葉のやりとりができるって。でもあまりにも癌が進行がはやく、書くことができなかった。聞いていたのはタイトルと、6年後にあらゆる苦難を乗り越えて、月におじいさんに会いに行く話だということ。ベンチがあって、雪が降っていて、おじいさんのコートと帽子があって…。聞いていたのはそれだけで、そして死んじゃって。どうしようかなと思いました。書こうかなと思ったけれど、書けなかった。
――それがずっと、心に残っていたんですね。
柳 : 一周忌までには書きたいと思い、三回忌までには書きたいと思い、七回忌までには…って。書けなかったのは、ひとつには雪の中でベンチに座ってたった一人で子供を待っているおじいさんというのが、あまりにも寂しくて。そこに向かっていくのが、ちょっと辛かった。
――そして今回、とても温かいお話が出来上がりました。この絵本に登場するおじいさんは、やっぱり東さんなんだな、と。
柳 : 私の中ではそうですが、読者の方には自由に受け止めてもらえれば。書いてみて、約束を果たしたということが、自分の中では大きいですね。あとは、絵本を書くのは初めてなので、読者の方にどう響いていくか、ということだと思っています。
(2007年4月27日更新)
取材・文:瀧井朝世
WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第66回:柳 美里さん