Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

youkoseki.com

父の仕事:トイレットペーパーを巻く

 もちろん今ではトイレットペーパーは工場で機械が巻くものだけれども、知ってのとおりほんのすこし前までは人が手で巻いていた。真っ白なトイレットペーパーを、ずれないよう芯に巻きつけていくのだ。くるくるくるとリズミカルに。見た目ほど簡単な仕事じゃない。巻き方が弱いとトイレットペーパーが膨らんでしまうし、強いと切れてしまう。大の大人が黙々とトイレットペーパーを巻く様は、ちょうど大根の桂剥きとは反対に見えて、業界では桂巻きと呼ばれていた。

 

 私がアルバイトとして働いていた事務所では、常時十人強の男女が交代にトイレットペーパーを巻いていた。巻き手の修行は引き八年、巻き九年と言われている。トイレットペーパーの材料であるロール紙を手元に引く強さを会得するのに八年、芯に巻く方法を覚えるのにもう一年というわけだ。まっすぐ慎重に引かないと端がすぐにずれてしまう。事務所では五分で綺麗に一ロール巻ければ一人前と見なされた。

 

 もっとも、だからといって三時間で三十ロールを巻ける人間はほとんどいない。プロの巻き手になるためには繊細さだけでは不十分だ。大量のトイレットペーパーを生産するためには長時間労働を厭わない集中力、そして効率性が求められた。十ロール続けて巻いたとき、腕の痺れが巻き手を襲うだろう。それでも淡々と巻き続けなければいけない。巻き手とはそういう仕事だった。いつだってトイレットペーパーを待つ人がいるのだ。

 

 そのころまだ十代だった私は、経験不足こそ否めなかったけれど天使の左手と称されるくらい繊細なバックハンドの桂巻きを体得し、ベテラン揃いの事務所内でも一定の評価を得ていた。課題は効率性だ。美しく巻くことにこだわりすぎるあまり巻ける量がどうしても少なくなった。もっとスピードを上げろ、と社長の宗形さんによく怒られたものだ。綺麗に巻かれたトイレットペーパーもいいが、顧客が求めているのはとにかく巻かれたトイレットペーパーなんだ、と。

 

 宗形さんが雑な仕事を求めていたわけではない。私の欠点を理解していたからこそそのようにはっぱをかけたのだ。実際のところ、彼こそが事務所の中で最高の巻き手だった。事務所を先代から引き継いだばかりでまだ二十歳そこそこだったが、物心ついたころから経験を積んできただけあって速さも力強さも名人級だった。おまけに、とにかく黙々と巻き続けられる馬力があった。食事もとらずぶっ続けで十時間、百ロールを巻いたという逸話が残っている。体力向上のためにマラソンを始めたら市の大会で優勝してしまったという逸話も残っている。宗形さんはトイレットペーパーを巻くのはマラソンと似ていると言っていた。どちらも立ち止まったら終わりなのだと。

 

 トイレットペーパー業界がそのあとどうなったかはよく知られている。タイタンと呼ばれる巻き機械は登場当初こそずさんな性能で見向きもされなかったが、あっというまに腕をあげてそれなりのトイレットペーパーを生み出すようになった。品質はまだまだ人間には及ばなかったが、生産スピードははるかに人間を凌駕した。その結果、手巻きに比べ機械巻きのトイレットペーパーは半額以下の値段で店頭に並ぶことになった。おめでたいことにそんな状況になっても私たちはまだ信じていた。値段が高くても人は高品質なトイレットペーパーを選ぶだろうと。

 

 今日、手巻きは一部の地方で伝統芸として残るのみである。事務所は最盛期から二年も経たずに閉鎖された。私も学業に専念するために巻くことをやめた。続けようにも、天使の左手が生かされる職はもうないのだ。以来、ロールもハドルもスカーツも手にとっていない。宗形さんは食品会社に就職し、ラストスパートに定評のあるマラソン選手として名を馳せた。

 

2009/11/09 - 2009/11/11

このエントリーをはてなブックマークに追加

この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。

その他のテキスト

父の仕事:コトコト日本代表
コトコトの日本代表だったことを殊更に自慢するつもりはない。ただいくつもの偶然が重なってそうなった。なんであれ日本代表に変わりはないと言う人もいるけれど、例えばサッカーや野球の代表に選ばれるのとはまったく違うと自分でも分かっている。ただ、いまでも時々あの喧噪の日々を思い返すことがある。日本代表としての日々だ。……

毎月がクリスマス
九月。夏休みが終わって、街は一気にクリスマス一色となった。通学路の商店街はいつものイルミネーションを今年も持ち出す。暗い街に明かりが灯る。誰もが有線放送のチャンネルを切り替える。ジングルベルジングルベル真赤なお鼻の主は夜明け過ぎに街へやってくる。なにもいいことはないけれど、僕の気分はすこし高揚する。……

猫の声
母は超能力者の家系で、彼女自身はどのような煮物も完璧に作るという能力を持っていた。姉は傘を持たないときは決して雨に降られないという能力だった。そして僕は猫の声を理解し、話すこともできた。もっとも僕達はペット不可の団地に住んでいたから、僕の能力が発揮されるのはせいぜい登下校で野良猫とすれ違ったときくらいだった。……

二次元を探して
祖父が死んだ。脳梗塞だった。なんの予兆もなかったので家族の誰もが驚いた。先日、五十年以上勤めた市役所を定年になったばかり。家族揃ってお祝いをしたときは元気そのものの姿だった。まだ75歳。健康に気を遣う人ではなかったが、死ぬには早すぎた。……