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俳優、着ぐるみ、VTuber

May 22, 2018|美学・芸術の哲学

以下の論考について。読んだ人向けなので要約は省略します。

Twitterでナンバさんとも少しやりとりしたが、この論考からはVTuberと他の文化形式の関係がいまひとつわからなかったので、ちょっと考えていた。具体的には、この論考で言われている「三層」がどこまで他の文化形式に言えるのか/言えないのかがいまいちはっきりしない。

以下、俳優、コスプレイヤー、着ぐるみ、アバター、VTuberがそれぞれどういう「層」を形作っているのかを試しに整理する。その過程で、何かを「演じる」という言い方に複数の意味があるかもしれないことを示す。

なお基本的に具体例は出さないので適当に補完してください。

前提

ナンバ(2018)および松永(2016)にしたがって以下の概念を使う。

  • パーソン:実際の人。
  • メディアペルソナ:メディアを介したパーソン。
  • Dキャラクター:虚構世界内の存在者としてのキャラクター。
  • Pキャラクター:画像に描かれたものとしてのキャラクター、あるいはDキャラクターを「演じる」ものとしてのキャラクター。ナンバ(2018)における「フィクショナルキャラクタ」に相当。

キャラクター

「キャラクター」と言う場合に、実際にはその語が示すものには複数のレベルがありえる。ジャンル別に話がちがうので分けて書く。

  • 非物語フィクション:マスコットキャラクターなど、虚構世界を背負わないキャラクターのケース。「キャラクター」は画像や着ぐるみによって表象されるキャラクターを指す。つまりPキャラクターのこと。
  • 実写物語フィクション:典型的には実写映画。「キャラクター」は、虚構世界内の存在者としての登場人物(人間に限らないが)を指す。つまりDキャラクターのこと。
  • 非実写物語フィクション:アニメやマンガが典型。「キャラクター」は、Dキャラクターを指す場合とPキャラクターを指す場合がある。

非実写物語フィクションにおけるPキャラクターとDキャラクターの関係は、実写物語フィクションにおける俳優とDキャラクターの関係とおおよそ同等だと考えてよい(松永 2016)。つまり、「虚構世界上の存在者を演じる」という関係、より正確にいえば「虚構世界上の存在者の代わりとしてふるまう」という関係だ。

俳優

現代では、多くの俳優はスターでもある。つまり、実写物語フィクションにおいてDキャラクターを演じるものとして鑑賞されるだけでなく、その人自身としても鑑賞される。

この場合に鑑賞されるのは、ふつうメディアペルソナだ。つまり、実際のその人というより、メディアを通して多かれ少なかれ歪曲されたその人の像がスターとして鑑賞される。

コスプレイヤー

コスプレイヤーもまた、キャラクターを演じるとともに、その人自身(メディアペルソナ)も鑑賞の対象になりえるという意味で、俳優に近い。

ひとつのちがいは、俳優が演じるのがDキャラクターであるのに対して、コスプレイヤーが演じるのはふつうPキャラクターだろうという点にある(けっこう微妙な話かもしれないが)。

別のちがいは、コスプレはキャラクターの非公式の表象であるという点にある。それゆえ、俳優とちがってコスプレイヤーには、当のキャラクターについての虚構的真理を生成する権限がない。コスプレイヤーがどんな格好や行動をしようが、それが演じるキャラクターの公式のあり方には影響しない。この点ではコスプレはキャラクターの二次創作画像と同じだ。

着ぐるみ

ここではマスコットキャラクターの公式の着ぐるみを想定している。公式の着ぐるみは、虚構的真理を生成するという点では俳優と同じだが、それを着ている人が鑑賞の対象になることはふつうない(非公式の着ぐるまーの場合はしばしばあるだろうが)。また、演じられるキャラクターはふつうPキャラクターだ。

おそらくキャラクターと人の関係の点でもちがいがある。たしかに「着ぐるみの中の人はキャラクターを演じる」という言い方はできるが、その関係は、俳優の演技やコスプレにおけるような「キャラクターの代わりとしてふるまう」という関係ではない。それは「キャラクターの中の人である」という関係だ。

「の中の人である」の分析は避けておく。ここでは俳優-キャラクターの関係と、着ぐるみの中の人-キャラクターの関係が区別できることが示せればいいからだ。それを示すには、「俳優はキャラクターの中の人である」とか「着ぐるみに入っている人はキャラクターの代わりとしてふるまう」とは言えないという事実を指摘すれば十分だろう*

アバター

MMORPGや仮想空間系のSNSのアバターを想定している。アバターにおける人とキャラクターの関係は、人と着ぐるみと同じく「中の人である」関係として理解できる。「人がアバターを演じる」と言えなくはないが、それは「俳優がキャラクターを演じる」という場合の「演じる」とは別の意味だ。

アバターはVTuberにいくらか近いものの、ふつう鑑賞の対象にならないという点でちがう。結果として、アバターのユーザーにはメディアペルソナと呼ぶべきものがない(少なくともはっきりとしたかたちではない)。もちろんアバターのユーザは、アバターを設定することでパーソンではない外的人格を作り出しているが、それはメディアペルソナというよりは自分自身のPキャラクターを作っていると言ったほうがいいだろう。

VTuber

ナンバ論考にしたがうと、VTuberには人(パーソン、メディアペルソナ)のレベルとPキャラクターのレベルがある*。VTuberにおける人とキャラクターの関係は、人-着ぐるみや、人-アバターと同じく「中の人である」関係だろう。

「中の人である」関係と「代わりにふるまう」関係の区別を踏まえると、VTuberが何か他のキャラクター、たとえばなんらかのDキャラクターを演じる可能性もあることになる。つまり、VTuberがVTuberとして俳優をやるという可能性だ(同じ可能性は他の文化形式にも言える)。そういうケースは四層として説明されるだろう。

図示

VTuberと他の文化形式

まとめ

今回の整理のポイントは以下の通り。

  • これらの文化形式における人-キャラクター関係のあり方は、少なくとも二種類ある。「代わりとしてふるまう」と「中の人である」だ。
  • またその関係における「キャラクター」に当たるものは、Dキャラクターの場合もあればPキャラクターの場合もある。
  • 結果として、層の数が同じでもけっこういろいろバリエーションがあるのではないか。
  • こういうふうに整理すると似ている文化形式の似ているポイントもよりはっきりするだろう。

おわり。

Footnotes

  • このちがいは、俳優やコスプレイヤーが鑑賞者にとって直接目に見えるのに対して、着ぐるみ中の人は見えないというちがいに還元できるかもしれないが、それほど単純な話でもないかもしれない。たとえば、着ぐるみから中の人の手や足の一部が見えていても、中の人であることには変わりがないだろう。しかし、中の人の顔が出てしまうとこの直観は揺らぐかもしれない。いずれにせよ、ここではこの問題についてニュートラルな立場をとっておく。

  • 鳩羽つぐはちがうといった見解はあると思うが(同意するが)、これについてはシノハラさんの指摘が的確だと思う。こういう話題で個別の具体例を語ろうとするとどうしても特殊な側面に引きずられるので(それ自体は悪いことではないが議論の焦点がぼやける)、カテゴリー全体のざっくりとした特徴とか典型的なケースとかを想定したほうがよい。

References