私の情報源は、既に書きましたが、「テレビ」と「毎日新聞」、「中国新聞」の三つです。そして、朝、真っ先に見るのが「毎日新聞」でした。

 

 今朝ー10月26日(土)の「毎日新聞」朝刊第4面「ひと」欄の記事を読んで驚きました。

 

  【世界中で演奏する「左手のピアニスト」舘野 泉さん(87)】

  左手を鍵盤の上に走らせると、優しげで、時に重く響く旋律が流れる。(以下略)

 

 署名はありませんでした。

 

 昨日ー10月25日(金)の「中国新聞」第2面「この人」欄で読んだ記事と『まったく同じもの』でした。

 

  【世界中で演奏を続ける87歳の「左手のピアニスト』舘野 泉さん】

  左手を鍵盤の上に走らせると、優しげで、時に重く響く旋律が流れる。(以下略)

 

 そして、「中国新聞」の方は最後に(岩橋拓郎=共同)という署名が入っていました。

 

 「写真はそれぞれ別物」でした。

 

 これはいったいどうしたことでしょうか。こんなことはしばしば起きることでしょうか。

 

 「毎日新聞編集部」への電話質問は「平日」に限るとあるので、明後日まで出来ません。

 

 とりあえず、この「無理題に遊ぶ』ブログに、疑問を書いておきます。

 

 

 この「書評」の冒頭から引用いたします。

 

 ーここより引用ー

 評者の出身校は、群馬の桐生高校という、かつての男子校だった。当時の校歌は唱歌「ふるさと」で知られる岡野貞一が作曲したものだったが、混声合唱の楽譜が存在していた。男子校なのに、なぜかソプラノやアルトという女性のパートがあるのだ。「これはどういうことか」と母校の元教師から問い合わせが舞い込んできた。駆け出しの研究者だった評者は、東京芸術大の古い資料などをあれこれと調べてみたが、結局この「謎」には答えられなかった。

 ーここまで引用ー

 

 まず、二つの点を勝手に推測しました。

 1 戦前の作曲者「岡野貞一」さんは、1941年に亡くなっていますから、この「混声合唱の楽譜」とは無関係でしょう。

 2 「桐生高校」が「男女共学」になったのは、1998年頃だそうです。

 

 とすると、「混声合唱」の楽譜は、戦後できた「桐生高校の校歌」の作曲者が早まって、戦後の改革で男女共学になったものと勘違いして送ってきたのではないだろうかというのが私の推測でした。

 

 というのは、私の母校でもある「広島県立福山誠之館高校」が、戦前の男子校から、戦後の改革により「男女共学」になり、新しい校歌を「平井康三郎」氏に依頼したところ、まず「混声四部合唱」の楽譜が送られてきたという事実を知っていたからです。

 当時の音楽部の男子が、この新校歌の発表前の練習で、「ソプラノ」の部分を歌って、こんな声は出ないよ」と叫んだというエピソードも残っています。

 

 この「新校歌」は、作曲者との連絡がとれ、無事「斉唱」の「校歌」になったのですが、戦後の改革、特に戦前の男女別学校が共学になっての混乱の一つではないかというのが私の勝手な推測です。

 

 以上、二点、『校歌斉唱!』を読み、その「書評」を読んでの私の感想です。

 

 

 

 

 先日、このブログで書いた、『校歌斉唱!』(渡辺裕)の「書評」(周東美材-学習院大教授)が9月29日「中国新聞」に出ました。

 「書評」というのは、その本の面白い点を指摘するのが常で、その点ではこの「書評」もよく書けていると思って読んだのですが、いささか気になる点を二点書いておきます。

 

 ーここより引用ー

 しかも、その個別のエピソードは単なる「お国事情」にとどまらず、明治の近代化・西洋化、戦後の民主化、高度経済成長、平成の大合併といったマクロな問題と結びつく。

 ーここまで引用ー

 

 校歌というのは、その学校の卒業生や在校生には歌われますが、外部の人に歌われることはまったくありません。

 そうそう、先日亡くなった西田敏行さんの追悼番組「人生の楽園ー20年の歩み」で、温泉に浸かりながら西田敏行さんの小学校の同級生が校歌を合唱する場面がありました。その場面を見て、もし同じ温泉に入っていても、他の小学校の卒業生は、同じ輪の中に絶対に入れないだろうなと思うと、「校歌」というものがいかに閉鎖的に作られているかがわかるような気がしました。

 作詞者もそのことをしっかり意図して作詞しているに違いないと考えると、「校歌とは何か」ではなく、「この学校の校歌は何か」でしかないということになるのです。

 

 もう一点、そうはいっても「戦後の男女共学」という学校制度の改革は、「校歌」の歴史にとって、もっとも大きな変化だったと考えます。

 

 そこで、この「書評」のもう一つの話題について書きたいのですが、長くなりますので項を改めます。