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雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

飯田木工所の赤木さん--14

トイレ男がどこで何をしているかというのは、別にどうということのない理由だった。材料の下造りをしていたに過ぎない。原木をサイズに切ったりローラーにかけて表面を磨いたり、つまりその手の機械が別棟にあったのだ。適当なところでまとめてこっちの棟に持ってきて組み立てる。それを山ちゃんが概ねひとりでやっていて大変だったから時折はあのしわくちゃ婆さんが手伝うのだが、これからは幸平がそれをするのだった。

といって幸平にカンナが使えるのでもなし、木の角を機械で落として角度を付けたり、そして徐々にはカンナも仕上げ以外の比較的簡単な部分では作業できるようになって、あんた、筋がいいじゃねえかと二人に言われて気を良くしたりもするのだった。

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飯田木工所の赤木さん--13

この木工所は朝九時の始業から十二時までは休憩なし。トイレは適当に行く。ベルトコンベアはないので緊急では抜けるのは自由のようだ。元々そんな規模ではない。五十分程の昼休みの後午後三時には十分程の休憩があり、以後は五時まで作業を続ける。仕事が切れた時はさっさと帰る。なるべく払いを少なくするようになっていた。タイムカードなんかなくて、無造作に吊るされた台紙に自分で作業時間を記入するようになっていた。仕事が切れていたら無理して出なくて良い。かなりラフな面もあって、その方が幸平には気楽だった。

何か手伝いましょうかで始まった作業も、本当のお手伝いの感じでひとつの作業に関してはすぐに慣れてしまって次を教えてもらう。それさえ二三度やれば覚えてしまうようなことばかりだった。難しそうな仕事はあまりない。やれないのはカンナがけだけだったが、それはどうやら山ちゃんにもできないようだ。

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飯田木工所の赤木さん--12

様子を見て決めるも何もあったもんじゃない。話がこうなったら取りあえずは従ってみるしかない。山ちゃんが何事かやっている場所とは反対側の隅っこで先日休憩所で会った禿げた頭の眼鏡のオヤジがテーブルの上で図面らしきものを見ていた。 オヤジはちょこっと頭を下げて挨拶する幸平の姿を認めて、なんだ来たのか、という顔をしていた。後で聞いた話だが、面接に来て、来るのかと思ったらそのまま来ない奴が何人も居るそうだ。仕事を探して歩くと言いつつ、その類の人たちは案外少なくないのだろう。

この工場はどうやら障子張りの建具を専門に作っているらしく、ドアの類はない。従って品物はそんなに大きくもないのに並んでいる機械は大きいものが多く、回転を伴う機械はやたらと音がうるさい。

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飯田木工所の赤木さん--11

これからは弁当が要るな、と母が言うので、まだわからない、断って帰ってくるかも知れぬからと、幸平は一掴みのパンだけをバッグに入れて出かけた。兄の洋平は隔日なので毎日ではないが老齢の母を一人にすることになった。心配だったが、それはもうどこで雇ってもらっても同じことだった。

だがそんな日々を、いったい何年続けられるだろうか。例え雇われてもそのことを考えると気が重い。母を一人にできるのは、甘く見ても精々三年くらいだろうか。その後はどうする。

しかし今は今だ。今のことだけを考えるしかない。自分が外に出ている間は火を使わぬようにして、とにかく誰が来ても玄関を開けるなと、それだけ強く言い聞かせた。母は黙って頷いていた。 その顔は無理やりな笑顔を作ってはいるがやや不安そうだった。ひとりの時に何かあっても頼るところもないが、電話くらいはできるので、もしもの時は消防を呼べといい、後は何もないことを祈るしかなかった。

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飯田木工所の赤木さん--10

「怪我だけはするなよ」

経緯を伝えると兄はそう言った。確かにその面の不安はある。工場には刃物の類が沢山ある。回転する機械が多い。その殆どに歯が付いている。巻き込まれることだってあるかも知れない。

一応はそれも考えないでもないが、そんな時、ふとあのトイレ男の姿が浮かぶのだ。注意の欠片もないようなだらしない感じ。あんな人で、と言っちゃ申し訳ないが、あれで務まっているのだ。

「保険も入らんで危ない仕事ができるのか」

兄は重ねて言った。確かにそうだ。怪我をしても見舞い金ひとつ出る雰囲気じゃない。事業所そのものがバイトのために保険に入るなど、ありそうもなかった。

「俺は気が進まんな」

予感が働くのか、決まって良かったと、兄は一言も言わなかった。

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飯田木工所の赤木さん--9

機械が稼働する音が聞こえて、仕事が始まったようだ。することもなく幸平はぼんやりと座って誰かが来るのを待った。狭いベニヤの小屋の中ですることもなく窓から外を眺めたりを繰り返した。ふと気が付けば、床の隅っこに黒く変色して湿気でたわんでいるところがあった。どこからか水でも洩れてきているのかと思ったが、そうでもないようだった。

なんだろうなと思いつつ、自分の家でもないのに気にしてもしょうがないと時計を見ると、仕事が始まって大方三十分にもなろうかというのに誰も来ない。そろそろ幸平だって小腹が空いてきた。腹が減るのはどうでも良いが、どうしたものかと思った。もしかして忘れているのじゃないだろうな。

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飯田木工所の赤木さん--8

男はすぐに両手をポケットに突っ込んでトイレから出てきた。やや内股で靴を引きずるように歩いて工場の鉄扉のなかに消えたが、手を洗った様子がなかった。そのトイレも、とっくにアンモニアで劣化したようなブロック造りで、汲み取りのようだった。

屋根を見上げると--(有)飯田木工所--と書かれてあった。木工など中学生時代の技術家庭科で習っただけだ。電子部品関係なら多少の経験はあるが、木工などはまったく未経験だった。それに工場の雰囲気から察する限り、どうもあまり気が進まなかった。あっさり断られるかも知れないが、いきなり採用と言われても、あまり働ける雰囲気になかったら逆に困るかも知れない。こういう場面ではいささか気の小さい幸平は、決めかねないまままた周囲を走ったりしつつ逡巡するのだった。グルグル何度も周囲を回ってまた正面に戻ってを繰り返した。

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