7月末に朝日新聞社を退職された尾形聡彦さんが設立した新しいオンラインメディア「Arc Times」を眺めています。11月2日付のゲスト・金平茂紀さんの回はなかなかおもしろかったです。
金平さんは、亡くなった筑紫哲也さんとNEWS23で一緒に仕事をしていたとき、番組が終わると深夜から毎回(朝まで?)「反省会」をしていたという話ですが、議論を交わしながら耳学問をする一昔前の酒場のありふれた光景を知る者としては、動画を見ながら、その「反省会」の一員に加えてもらったような感じがしました(話の中身はそんな軽いものではありませんが)。
文字に起こして、金平さんの話の一部概要を引用させてください。
○ The News ● メディアの不全【金平茂紀・望月衣塑子・尾形聡彦】 - YouTube
ひろゆきさんのようなインフルエンサーとかユーチューバーと呼ばれる人たちが若い人たちにどう受け入れられているか。彼が沖縄の基地の抗議行動をしているところへ行って、時間帯が時間帯だったから人がいなかったんだけど、座り込み何日という掲示を見て、これウソじゃん、みたいなことを呟いて、それをTwitterに上げたというのがありましたけど、見ていて何かとても嫌な気持ちになって。彼はある意味「確信犯」でやってると思うんだけど、彼の価値観って、要は見られればいい、ということなんでしょう。炎上商法っていうのがありますけどね。僕、彼とは何の接点もないし、興味もないけど、彼が言っていることに対して、若い人たちがどう受け止めているのかについてはすごく関心があります。こういう影響力は、マーケティングの理論で言うと、彼を利用しない手はないみたいな、そういう力が働いて彼のインフルエンサーとしての力が維持されているようなんですけど、こういう社会問題について彼に語らせたり、資産形成について語らせたりする(金融庁のYouTube公式チャンネルの動画「金融リテラシーと資産形成」で金融庁幹部と対談し、民事訴訟で賠償金支払いの判決を受けて履行していないひろゆき氏を出演させたことが物議を呼んだ)、その社会的文脈は大きいと思うんですね。そういうのに全く配慮せず、ウケてるんだから、と。僕も沖縄でのあのやりとりを見ましたけど、対立することも含めて商売にしている。アクセスが多いとか、「イイネ!」が多いとか、そういうので物事の価値が決まっていくというのは、こういう言い方すると顰蹙を買うかもしれないけど、ジャーナリズムの自殺行為だと思いますね。それでも、いいじゃないかと。ジャーナリズムなんて、勝手に自殺でも何でもすればいいじゃないかと。僕らは僕らの信じたいものが真実なんだからという傾向、こういうのは「ポスト・トゥルース」とか、「フェイク」とか、トランプ政権が成立したときにものすごい勢いで広まってしまったもので、ひどい時代になったなと思いましたけど、その流れは今でも続いていると思いますね。……一番大事な議論というのは、公共的な空間、公共的な利益に資するようなメディアが、マーケティングの理論によって追放されてしまう、そういう流れを是とするのかということですね。もうかりゃいいのか、見られりゃいいのか、売れればいいのかという話なんですね、要するに。ジャーナリズムとか、公共的な価値というものを考えたときには、見られなくても出さなくてはいけない、イイネがつかなくとも、これは共有されていないと困る情報なんだというものは、あるんですよ。
自由なことが言える、自由な空間を保つというのが、ある種メディアの役割だと思うんですけどね。それは筑紫さんが常に言っていた話で、強い権力をチェックする役割、多様性、多様な見方を提示することで自由な空気を保つということ、少数派であることを怖れないという、この3つ。これが筑紫哲也のNEWS23のDNAと言っていたことですね。でも、今こそ、この3つが大事になっていて、ジャーナリズムが力の強い者、大きな権力に対する監視の役割を果たそうとしたら、会見場で記者が大臣らに「教えてください(お考えを、受け止めを)」なんていう(卑屈な)質問はしませんよね。とかく一つの方向に流れやすいこの国の中で、少数派であることを怖れないことというのもね、何とか多数派になろうとしてるわけで、いかにアクセス数が多いかとか、いっぱいイイネ!がつくかとか、みんな多数派をとりに行ってますよね。それから、多様な意見や立場をなるべく登場させることで、社会に自由の気風を保つことというのもね一色に染まろうとしてるんですから、国葬みたいに。これは筑紫さんが最後の「多事争論」で言ったことで、彼のある種の遺言なんだけど、それはメディアに対する遺言であるとともに、僕ら、国民とか市民に向けて、こういうメディアであってほしいという意味の遺言だったと思うんですよ。それを今こうやって読んでみると、今起こっていることの全部逆の方向に行ってるんじゃないかってことですよ。
(政府の記者会見などで記者の「更問い」が少ないことについて)普通は日常的な感覚で言ったら、訊いたことに相手が答えなければね、何で答えないんですかって。答えてくれないから、私、訊いてるんですけど、ってことになりますよね。一社一問(一答)みたいな勝手なルールを向こうがつくってね、バカみたいな話ですよ。さすがにそれはひどいなと思ったら、その場にいた人間が、二の矢、三の矢をみんなで放ってね、望月(衣塑子 東京新聞記者)さんのときありましたよね、あのときはいましたよね、朝日の南さんとか、ジャパンタイムズの吉田さんとか、僕もあれリアルタイムで見ていて、ひどいなと、何で他の記者は黙ってるんだろうと思いましたよ。あれ見てると、何か時代劇を見ているみたいな(笑)。誰が見たってね、国民、市民が見ているわけでしょ、何で答えないんですかとも言わないで、下見て黙って速記してる人たち、こういう人たちは何をしてるんだろうなと思うんですけど、彼らの頭の中にあるのは、一言一句(大臣らの)正確な文言を打ち出して、一刻も早く社のキャップに送ろうってことでしょう。僕、ホワイトハウスの記者会見で取材してたことありますけど、速記録って当局が作ってすぐ出してましたよ。それから、国務省って、手を挙げる人(記者)がいなくなるまでずっと会見を続けていて、国務省でも速記録は出ます。すごく正確で、(聞き取れなかった話に)「聴取不能」みたいなのも入ってるんですね。(日本の場合)何で同じソースから出てくるものを、みんな速記者みたいになって(速記録を)作らなければならないんですか。あれ、記者の仕事じゃないですよね。記者の仕事は、自分が質問したときに、相手の目の色が変わったりとか、表情が変わったりとか、そういうのをちゃんと見て、それに対して、二の矢、三の矢、あの人が訊いてることに答えてないじゃないですかと別の人が訊くという形になるのが普通の会話なのに、これがないということがずっと放置されてきたというのはね、これって一体どういう国なんだって。これ、日本人が好感度の低い国だと思っている国の記者会見なんかとすごくよく似ているなと(笑)。
まだまだ他にも引用したいところがありますが、「こんなところで……」。
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