今から80年前の1944年、太平洋戦争で戦況が悪化していた旧日本軍はフィリピンで初めて特攻に踏み切った。爆弾を抱えた航空機や潜水艇でアメリカ軍などの艦艇に体当たりするという無謀な作戦で、特攻戦死者は6千人以上に上ったとされる。 その中に、自身のような特攻隊員を「一器械」と形容し、敗戦を予見していた学徒兵がいた。22歳で戦死した上原良司(うえはら・りょうじ)だ。出撃前夜には「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」との遺書を書き残した。 妹の登志江(としえ)さん(94)は「特攻は死刑みたいなもの」と言う。出撃前に帰省した兄は戦死を予感していたのか、自分だけに「死んでも靖国神社には行かない」と語っていた。家族との別れ際、兄は大声で3回「さようなら」と叫んだ。登志江さんは今も、その姿を忘れることができない。(共同通信=黒木和磨) ▽最初の航空特攻は1944年10月 特攻は太平洋戦争末期に
インスラ(多層型共同住宅)の模型 オスティア市のディアナの家を復元したもの。 ローマの港町オスティアにあった紀元2世紀初期のインスラ インスラあるいはイーンスラ(羅: īnsula, 複数形 īnsulae)はラテン語で借家を意味する[1]。古代ローマではプレブス(下層階級)やエクィテス(中流階級)のローマ人が住んだ大規模なアパート、賃貸集合住宅。5~6階建てのものもある[2]。 建物の1階はタヴェルナや貸店舗で、上層階が住居になっている。 "īnsula" のラテン語本来の意味は「島」であった[1]。当初はまとまりをもった街区のことを言ったとも考えられる[2]。上から見ると周囲を通りに囲まれ、互いに隔てられているため意味の転用が起きたという。 ローマ都市の都市化の進展により、住宅需要が高まって、都心も郊外も土地が高騰した。結果として一戸建ての邸宅であるドムスは上流階級でなければ持てなくな
NBER @nberpubs Japan’s massive public investments in codifying technical knowledge explain why it was unique among non-Western countries in industrializing in the 19th and early 20th centuries, from @juhreka13, Shogo Sakabe, and @deweinstein nber.org/papers/w32667 pic.x.com/xKRuEqdHQK 2024-07-18 00:01:27 日本が19世紀から20世紀初頭にかけて非西洋諸国の中で特異な工業国であった理由は、技術的知識を体系化するための大規模な公共投資によるものである。 西内啓 Hiromu Nishiuchi
佐渡島の金山は「相川鶴子(あいかわつるし)金銀山」と「西三川(にしみかわ)砂金山」で構成される鉱山遺跡だ。金の生産は400年以上前に始まり、17世紀には質、量ともに世界最高水準を誇った。採取から精錬までの手工業の遺構が残るのは珍しいとされる。 日本政府は2022年2月、世界文化遺産への推薦書を国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出した。しかしユネスコは、説明に不備があるとして推薦書を諮問機関イコモスに送らなかった。 政府は2023年に推薦書を再提出。イコモスは今年6月、「登録」に次ぐ2段階目の「情報照会」を勧告。「世界遺産登録を考慮するに値する価値がある」とした上で、江戸時代だけでなく「鉱業採掘が行われていた全ての時期を通じた、全体の歴史を現場レベルで説明・展示する」よう求めた。明示していないが、朝鮮人の強制労働問題を指すとみられる。 ▽露骨な差別意識 冒頭の新潟県史に戻る。県史によると、
1986年4月にソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故によりソ連国内が急激に衰退したことが東欧革命の起きた一つの主要理由とされる[1]。1980年代のバルト海領域によるモスクワや自治権の要望の強まり、1988年になるとクレムリンはソ連国内といくつかの地域でコントロールを失った。 東欧革命の予兆は、1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことに始まる。共産主義政権側の人々でさえも尊敬するヨハネ・パウロ2世の存在は、それまで政府と反体制運動との間の力ずくの闘争であったポーランドの民主化運動の大転換を促すものであった。この大転換は1979年6月に祖国ポーランドを訪問した教皇がワルシャワで行った演説の中での「みなさん(共産主義体制を)恐れてはいけません。」との言葉により、まず大衆の確信により始まった。 ポーランドではポーランド統一労働者党による一党独裁支配が続いてい
富士通に忖度してるとか言ってるけど、あれ、普通に取材NGだったんじゃないかな。 当時の経緯を知ってると「私の名前は出さないでください」ってなったとしても不思議じゃないと思う。そうなれば当然NHKも富士通も触れないし、本人が拒否したんですなんて発表するわけもないし(例え親族が声を上げたとしても) 京コンピュータって、富士通半導体の最後の打ち上げ花火だったんだよ。 当時の話京の開発が進み、実際に生産されるころは、経営方針として富士通は半導体撤退をするかどうかで揉めていたころだった。 京コンピュータは、富士通が自社工場で作った最後のスパコンであると同時に、国のトップ開発のHPCにおいて、富士通が単体で作り上げた初めてのHPCでもあった。 これは、富士通が優れている、というよりも、逃げ遅れたと表現してもよいかもしれない。HPCのプロジェクトからは、NECと東芝が次々と撤退していたのだ。 当時半導体
前段 Mrs. GREEN APPLEの『コロンブス』のMVが炎上したのを機に、以下の増田が書かれた。 anond.hatelabo.jp それに私は以下のコメントをした。 【追記2】Mrs.GREEN APPLEの MV炎上はおかしい ラス・カサスの『インディアスの破壊〜』辺りを読んでればコロンブス以降の入植者がどれほどおぞましい虐殺を行ったかが分かるし、人類全員が考えるべき暗部を能天気なPVにして上げている姿勢は私は心底不快だったよ 2024/06/13 23:12 b.hatena.ne.jp それに対し、増田で以下のコメントが書かれているのを発見した。 anond.hatelabo.jp 入植者の連中がおぞましかったら人類全員が「考えるべき」なのはなぜ? 「考えるべき」ってのは具体的に何についてどんな思考をすることなの? 結論としてどんなアウトプットを得るの? 抜粋部分は一部であり
1971年に創刊された雑誌『薔薇族』といえば、日本で初めて男性同性愛を扱った専門誌。その創始者である伊藤文學(いとうぶんがく)さんは、これまでにも一般メディアで何度も紹介され『薔薇族』がゲイ・コミュニティにもたらした功績が語られてきた。 確かに、一般書店の店頭でゲイの存在を可視化した『薔薇族』の功績は決して忘れられるべきものではない。しかし、功の部分だけを記録に残すのはゲイの歴史を誤って伝えることにもなるのではないか――。 2017年、85歳になる伊藤さんに今だからこそ、あえて罪の部分についての質問をぶつけてみた。伊藤さんはあのとき、セクシュアル・マイノリティをどう思っていたのか。 “歴史”の中で語られること、語られないこと 筆者は20年ほど前、伊藤さんにインタビューしたことがある。当時は90年代、女性誌『CREA』がゲイ特集を組んだことに端を発する、いわゆるゲイ・ブームの余韻が残るころ。
特記事項:略歴 1911年10月1日 開業 1920年 改築 1923年 関東大震災で壊滅、松竹傘下に 1931年 改築 1946年 浅草ロキシー映画劇場と改称 1983年 浅草松竹映画劇場と改称 1991年 閉鎖・廃業・解体 1995年 ROX3になる 金龍館(きんりゅうかん、1911年10月1日 開業 - 1991年 閉鎖)は、かつて東京・浅草にあった劇場、映画館である。大正期後半の「浅草オペラ」の時代、「根岸大歌劇団」の根拠地となった。戦後、浅草ロキシー映画劇場(あさくさロキシーえいがげきじょう)として洋画を、のちに浅草松竹映画劇場(あさくさしょうちくえいがげきじょう)として邦画を上映した。 1911年(明治44年)10月1日、東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草1丁目26番)、「常磐座」の隣地に開業した。同敷地は、常盤座を経営する根岸興行部社主の根岸浜吉が、1907年(明治
ロシアを特徴づける「膨張主義」 ──ロシアの歴史が始まったのは1000年以上前です。かつては、現在のウクライナ周辺の公国の緩やかな連合でしたが、いまは1700万平方キロメートルもの広大な領土を持つ大国となっています。20世紀には領土が2200万平方キロメートルもありました。 ロシアの膨張主義を理解したいなら、まずは地図を見るべきです。ロシアの子供たちは地図を見ると、世界一大きな国であることを誇りに思う一方、不安にも駆られます。こんなに広大な領土はとても守りきれないのではないかと考えるのです。 ロシアでは、16世紀に領土を広げたイヴァン雷帝の時代から、「防衛的膨張主義」がよく見られます。同国には自分たちを守る山や海や大河がありません。だから領土を広げると、そこを守るために、さらにその先の土地も征服しなければならないと感じてしまうのです。 プーチンが2016年のロシア地理学協会のイベントで口に
京都大学で13日におこなわれた公開セミナー「人文学の死――ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」【既報】より、藤原辰史・京都大学人文科学研究所准教授の基調講演「ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景」の要旨を紹介する。 □ □ 今日の問題提起は、ドイツ現代史研究者の一員である自分にも矛先を向けたものでもある。 ドイツ現代史研究者は、パレスチナ難民やイスラエルの暴力をまったく無視しているかといえばそうではない。批判も多々してきているが、当事者意識が欠落している。たとえば、パレスチナ問題を「生成」した問題として扱い、きわめて「他人事」として起きている「かわいそうなこと」という倫理的問題として捉えがちである。その「上から目線」がパレスチナ問題を見る目を曇らせているように思う。 そして、パレスチナとともに中東欧や南欧へも関心が低すぎる。ド
スターリンの娘、スヴェトラーナ・スターリナあるいはスヴェトラーナ・アリルーエワの生涯を知ったとき、その激しさと寂しさに、複雑な思いがこみ上げてくる。 スターリンの娘(上):「クレムリンの皇女」スヴェトラーナの生涯 作者:ローズマリー・サリヴァン 白水社 Amazon 前半生は、ソ連体制下で母親をはじめ、親しい人々が自殺や迫害など次々と横死する。後半生は、ソ連の抑圧体制から逃れて亡命し、アメリカに移住するが、結婚・離婚を繰り返し、著作によって手に入れた財産を失ってしまう。 後半生は必ずしも抑圧政治のもとでの不幸ではない。しかし、ソ連崩壊まではソ連当局やKGBの魔の手が絶えず彼女の行く手に現れ、そのことに怯える。 やがて、彼女は西側に幻滅し、ソ連に戻ってしまう。アメリカで生まれた娘・オルガとともに。しかし、そこでもまた彼女の望んだ幸福は得られない。彼女は再びソ連を出国し、アメリカの老人ホームで
トルコイスラム美術館には大セルジューク朝(11-12世紀)の陶器や八点星のタイルなどが展示されていたが、後のアナドル・セルジューク朝(1177-1318)のタイルは、見落としたか、あるいは展示されていなかったので、『TURKISH TILES』に記載されているタイルは私にとって貴重なものとなった。 現イランを統治した大セルジューク朝からアナトリアまで拡大したアナドル・セルジューク朝(日本ではルームセルジューク朝)について同書は、大セルジューク朝は11世紀半ばに現在のイラン北東部のホラーサーン地方にテュルク系民族によって建国された。イランからアナトリア地方まで領土を広げたセルジューク朝は、大帝国へと成長し、1071年にビザンチン帝国との戦いでアナトリア地方を領土に加えた。モンゴルの侵攻と1243年のキョセダー Köse Dağ の戦いで大きく衰退した大セルジューク朝は1308年にイルハン朝の
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