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たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、 愛がなければ、私は鳴る銅鑼、響くシンバル。 たとえ、予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、 たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、 愛がなければ、わたしは何ものでもない。 たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、 愛がなければ、わたしにはなんの益にもならない。 ――コリント人への第一の手紙 こんな危険な内容を内に含む聖書という書物を、私は畏敬の念を持って眺める。それは神について書かれた書物であるにもかかわらず、「たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても駄目」なのだと言う。愛がなければ、信仰があっても意味がない。つまるところ、このテクストが述べるところで、一番大事なのは愛なのだ。そして真実、キリスト教の根幹にあるのは、何かそう言ったものではないのかと、部外者
先日シンフォニック・レインを勧めた知り合いのアニメーター氏曰く。 ファン冥利に尽きるというものです。 …彼に言われてはじめて気づいたこと。OPシーン最後のコンサートホールのロングショット、こちらを向いて舞台に立っているのはクリスじゃなくてトルタ(あるいは他の誰か、女性)なんですね。通常版は画質があれでさっぱりよく解らなかったのだけれど、愛蔵版バージョンでは何とかスカートをはいているのが遠目にも見えるのでした。カットが変わって映るのはクリスの背中。それぞれの視点とそれぞれの距離、というところでしょうか。以下全く関係のないぐだぐだ。 職業柄? その後、これをどのようにアニメ化するか、という話になりましたが、実際のところ難しいなあという結論。「下手な脚本家に任せたらトルタ萌えーみたいな話にされるで」という彼の台詞が全てというべきか、あの重なりをアニメにする、一つのシナリオで語り終わるためには極め
昨日は思う部分があって、普段と比べてわりと真面目というか硬めの文章で感想書いたけど、 今日は軽い調子でだらだらと昨日書くなかったこととかいくつか。 まず、男女複数の集団+主人公固定でなくそれぞれのキャラの視点で描かれるマルチサイト って構造の段階で個人的に一番好きな形式をつかれてたわけで。 「僕と、僕らの夏」「フォークソング」「BITTERSWEET FOOLS」あたりがこの形式で、 どの作品も客観評価以上に私的思い入れが極めて強く好きな作品。 あとは、前から時々言ってるように、特に大きな事件が起こるわけでもなく、 基本的にはただ人間関係を描くだけで勝負するシナリオってのもツボ。 「はるのあしおと」とか「ショコラ」、「パルフェ」もこの系譜かな。 まぁ、ショコラとパルフェは日常描写が楽し過ぎてそっちメインって感もあるけど。 『天に高く地に深く』の場合、本当に余分な要素とか殆どなく、純粋にそれ
舞台探訪 工画堂スタジオ(くろねこさんちーむ)『シンフォニック=レイン』*1にて登場する場面に,イタリアの光景を重ねてみる。 http://symphonic.g.hatena.ne.jp/genesis/20140505/p1 来月末,乗り継ぎのためにローマへ立ち寄る予定があるのだけれど,残念ながら取材に出かけるだけの余裕は取れませんでした。『GUNSLINGER GIRL』&『BITTERSWEET FOOLS』の舞台探訪*2は,そのために撮影したわけじゃないので構図が不正確だし。改めて出かけなくては。 DPC “digital picture collection”(ISBN:B0002WTLLA)。 うわぁ,これが本体と別に存在している(いた)というのは,大問題ですよ*3。3編のオリジナルノベル(外伝)が収載されているのですが,『雨の始まり』は“音の妖精”についての物語解釈を左右し
今回はフォーニシナリオについてです。例によって全力でネタバレしているので、未プレイの方は読まないで下さいませ。 3.フォーニシナリオがやっぱり一番 先日クロトンさんやFoolisさんと会話して、シンフォニック=レイン熱が再燃したので、再び取り上げることに。 のっけから攻撃的で恐縮ですが、2005-03-22 - はじめてのC お試し版さんはフォーニエンドが最も虚偽に満ちたエンドであると述べているものの、フォーニエンドはやはり、最も幸せなエンディングであると私は考えています。 まぁ、実は愛蔵版が発売された今、この記事を批判するのは反則的なんですけれどね。何故なら2005-03-22 - はじめてのC お試し版さんの主張する ・それはなぜ、「da capo」内に存在するのか ・それはなぜ、「ゲームクリア」と叫ばれないのか ・そこではなぜ、他のエンドと同様、「星空を飛ぶ光」が描かれたのか ・なぜ
がらくたにっき様 本日付け http://d.hatena.ne.jp/garakuta4000/20051025 こんにちは。トラックバックありがとうございます。 あまりに長文になってしまったのでこちらに直接記載しました。 さて ①それはなぜ、「ゲームクリア」と叫ばれないのか ②そこではなぜ、他のエンドと同様、「星空を飛ぶ光」が描かれたのか ③それはなぜ、「da capo」内に存在するのか ④なぜそこだけで、アルが甦った――すなわち「奇跡」が起こったのか 実際のところ、①は③とまったく同じ問題なのです。それはつまり、「どうしてフォーニエンドこそが"al fine"として語られなかったのか?」という、本質的な問題です。仰る通り、フォーニエンドが”本当に幸せな最後の結末”であるとしたら、それこそが”al fine”として語られるのが普通、というか当然でしょう? でもそうではなかった。どういう
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