これは、きっと、あれのことをいってるにちがいない! 「これ」とは、論文「コウモリであるとはどのようなことか」である。「あれ」とは、「私は空が青いという。彼も空は青いという。しかし、彼の見る青が私の見る青とほんとうに同じである保証はない。同じであることを確かめる方法もない」という疑問のことだ。子供のころ首をひねったおぼえがありませんか。 このところ私は、幸か幸か本を読む暇がたっぷりある。なにものにも代えがたい豊かな日々といっていい。が、困ったことが一つある。それは、その本の面白さをつい他人にも伝えたいと望んでしまうことだ。そう望んだからには、その本の面白さについてなにか書き留めないといけなくなる。しかし、読むことは、まあ簡単である。眠くなくてテレビが面白くなくさえあればよい。手で本を支えることや目で字を追うのを厭わなければよい。完全に横になっていてもできる。これ以上簡単なことといえばそのまま
人はなぜ宝くじを買うのか たとえば、雲行きから天気を予測する場合、いままでの経験に照らし合わせて、「この雲行きだと、雨が降りそうだな。」と予測します。これは、ある意味、「統計的な認識」です。一日を単位として、それが反復されている。その毎日毎日の経験値(母集団)に照らし合わせて、天気を予測する。このようなある単位=「ミクロ」が反復しているという想定で、予測が行われますことを「ミクロ認識」と呼びたいと思います。 それに対して、経験値とは別に、「今日はなにか良いことがありそうな気がする。だから今日は晴れだ。」と予測する場合もあります。これは、反復のない今回1回限り=「マクロ」の認識であり、「マクロ認識」と呼びたいと思います。 人間は世界を、「ミクロ認識」と「マクロ認識」の相補的な関係で認識していると、考えられます。たとえば、宝くじを買うことを考えます。宝くじを確率的に考えると、「購入者」は必ず損
「死」の心身二元性 「死」とは、概念です。この概念は「人間」のみに可能です。動物は「殺す」ことはありません。「死」の概念がないので、「他者を潰そう」ということはあっても、そこに「死」への目的性はありません。 (「人間」の)「死」という概念は、「この私」という個人の尊重によって、生まれています。「この私」というとき、「死」は最高の「強度」をもち、逆に「集団の中の一人」のとき、いわば身体を形成する1細胞という集団の新陳代謝の1個体のように「死」の「強度」は低下します。 だから「殺す」=「他者を死へ至らしめる」ということは、「他者」とは「この私」の反転としての「このあなた」であり、個人の尊重された存在であり、「殺す」という概念には、すでに始めに「禁止」が内在されているのです。 このように「死」、「殺す」という言説を考えるとき、「人間としの人」と「動物としての人」の二面性、「心身二元性」を見る必要
以前のエントリにも書いたことがあるが、93年にタイで出家していたことがある。その理由は、1つには高校時代のホームステイ先のホストマザーを喜ばせたいということだったが、もう1つはこちらのサイトで彼が書いているようなこととそっくりな理由だった。彼が91年、そして僕が93年だから、京都と東京という違いはあれど、あれはちょうどあの時代の共通な空気だったのかも知れない、と思う。僕はたまたまタイで出家ができた。彼はそれを日本でやりたいと考えた。違いはそれだけだったのだろう。 僧侶だった間、僕はずっと自分と世界とのかかわりの法則について考えていた。当時の僕の頭の中は、マルクスとかデカルトとかカントとかヘーゲルとかヴィトゲンシュタインとか、そういうものでいっぱいだった。そして、タイで先輩僧侶に向かって「マルクスはこう言っている」とか「ヴィトゲンシュタインはこういう説を述べている」とか、つたないタイ語で必死
2006年03月13日02:54 カテゴリMath 正しいは難しい。正しい議論は簡単。 正しいを思索するのは難しいが、正しく議論するのは実は簡単だ。 jkondoの日記 - 「正しい」って何だろう 人と議論をしているとよく「何が正しいのか」という事が問題になります。「その意見は正しいね」とか「君の言っていることは間違っている」みたいな話です。議論のはじめに、境界条件を設定しまえばいいのだ。 「x2 - 1 = 0の時、xの値を求めよ」という問題があったとする。 小学校で議論するなら、正の数だけを答えとするという条件が付く。よって答えは1だけ。 中学校で議論するなら、負の数も解として認めるので、答えは1と-1。 今度は[x2 + 1 = 0]の場合を考えてみる。先ほどの中学生なら「解なし」という答えが正しいが、虚数を知っていれば答えは±i。 正しい議論においては、実は正しく議論を進めることよ
Life is beautiful: 一度も会ったことのない恩師: http://satoshi.blogs.com/life/2005/09/post_8.html を読んで、急に書きたくなったので書きます。 それは、数学の難しさについてです。 数学についていけなくなってきたのは、高校のときからでした。 なぜ、高校で数学についていけなくなったのか? それは、数学というものが人工的に組み立てられた世界であるという ことが理解できなかったからです。 数学は、「定義」に基づき世界を構築します。定義から何の前提もなく 正しいとわかる事柄が「公理」と呼ばれます。この定義と公理から、 第三者が理解できないようなジャンプをせずに説明できる事柄が 「定理」です。 これは、数学のどの分野においても成り立ちます。 高校のとき(実は中学校のときも)、私はこの理屈を理解できなかった のです。
テロリストは、 人々を巻添えに自爆して「何か」を主張しようとするけど、何を言いたかったのかは忘れちゃう。 ゲリラは、 山に籠もって人々から略奪するけど、何にも生産しはしない。 仙人は、 インドの山奥で独り修行して「悟り」に至るけど、未だかつて誰もそれを確認できてない。 軍人は、 「人々を守るため」に戦争を始めるけど、いざ戦争が無くなれば「自己保身の危機」に陥る。 警察官は、 上命下服に従い「違法(な犯罪)」から人々を守るけど、私服の姿は「その筋の人々」と区別つかぬ。 行政官僚は、 国民の面倒をみてみてあげるけど、その実際は些末な規則で以て人々の「権利を制限」する。 政治家は、 ルールを改変するけど、それによって人々の行動がどう変化するのか予測できない。 法律学者は、 解釈するけど、解決しない。 法律家は、 紛争を解決するけど、タネをも蒔いて実りをば待たん。 会計士は、 会社の粉飾を人々に暴
①「社会的」欲望と「脱社会的」享楽 強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。 それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。 SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかしドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な
■僕たちは限りなく同じである。 「「クオリア」はなぜ語りえないのか。」(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051222)で示しましたが、クオリア(意味)が語り得ないのは、対象があり、意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が主観であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、対象のクオリア(意味)は主観であり、語り得ないのです。 しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。そのために解釈項は「限りなく同じ」なのです。すなわち、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。 クオリア(意味)=①遺伝子による進化上の経験+②言語による文明的経験+③生まれてからの記憶された経験 ボクがこのようにいうときに、「①遺伝子による進化上の経験」は人間では限りなく共通です(時間的に
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎 http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーらの現象学者たちであった。 私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。 主観性の起源の解明のためには、クオ
「子供における「所有すること」と「存在すること」について。子供は同一化、つまり「私は対象である」によって対象関係を表現することを好む。「所有している」はそのふたつの中ではより後であって、対象の喪失の後で、対象は「存在すること」に後戻りする。その例−乳房。<乳房は私の部分で、私は乳房です>、その後でのみ<私は乳房を持っています>、つまり<私は乳房ではありません>」(SE23, p.299) 引用はフロイトの遺稿集FINDINGS, IDEAS, PROBLEMS (1941 [1938])から。1938年7月12日の記載です。 さて、ラカンの書いたものの中でも、すっかり人口に膾炙した部分というのはございまして、一昔前でしたら鏡像段階とか、最近だと対象aとか、それなりの頻度でお目にかかることの出来る術語も増えてきました。でも、臨床系の人で案外好評なのは、「母の想像的ファルスであること(=存在)
内田樹という方が書かれていた『不快という貨幣』を読んだ。 これは、思春期のしくみではないかと思う。 内田さんの意見を要約すると、こうだ。 なぜニートになるのか。最近の子供は、具体的な作業を目にせず、帰宅した親の疲れた姿だけを見る。そして「辛い思いをすること=労働」だというふうに感じる。子供だって労働したい。だけど、近頃は家庭内で子供のできる簡単な労働がない。仕方なく、子供は、働かずに、わざと辛い思いをする。辛い思いをすること=労働だからだ。 まったく、何て簡単な話だろう、対象が子供であるならば。 ニートというのは、いい年をした若者であるはずだ。ならば彼らに「印象としての労働」と「じっさいの労働」の区別がつかないわけがない。いくらなんでも、いい年をした大人が、労働=苦痛=賃金とは思わないはずである。 なぜなら労働と賃金は=で結ばれないからだ。労働によって生まれた何かが金銭と交換され、それから
様相命題論理 「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、地球の全表面は変わっていただろう」( Le nez de Cle'opa^tre : S'il eu^t e'te' plus court, toute la face de la terre aurait change'.) というパスカルの言葉がある。こうした考え方が示しているのは、我々は自分たちの生きる世界を「ありうる世界」や「あるべき世界」との連関において捉えているという事実である。この「可能性」と「必然性」という観点を論理に導入したものが様相論理である。ただし、様相論理で扱う「可能性」「必然性」は、それぞれ論理的可能性と論理的必然性である。(その意味で、観測に基づく科学的法則は全て蓋然的なものである。)例えば、「丸い四角は存在しない。」「海王星には衛星があるか、ないか、どちらかである。」という命題は論理的な意味で必然的に真であ
第一段階は、人と同じことを思い、同じことを言う段階だった。みんなが言っていること、に従順だった。まだ何も知らなかったからだろうな、と思う。友達が多いこと、家族の仲が良いこと。お金があること。優しくすること。規則を守ること。どこかには本当の幸せが待っていること。誰かに『良い』と聞かされたものを盲目的に『良い』と判断してしまっていたように思う。小学生くらいの時期だろうか。ここから中学生&高校生までの間に変化が訪れる。第二段階が訪れるのだ。第二段階は、あえて常識とは違ったことを選び、常識とは逆から語られた意見を称賛する段階だった。みんなが言っていること、に妙な抵抗を覚えてしまっていたのである。常識を覆す意見が好きだったのだ。常識を虚仮にした意見が好きだったのだ。おそらく新鮮さを感じられたからだろう、と思う。今まで信じていたものが相対化され、本当の答えは別のところにあったのだ、なんて思えたのが楽し
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