中世の娼婦 はじめに Fabliaux(ファブリオー)の時代である13世紀後半~14世紀前半とは女性に敵対的な都市中産階級繁栄の時代でした。カペー朝(987~1327年)の時代、1180年フィリップ二世即位すると、中世・聖職者階級(教会)は「女性は本質的に劣等である」という観念につながる教説を確立しました。ヨーロッパ文化が発達し、支配者の権力が増大するにつれて、教会の与える懲罰は世俗の法律によって強化されたのです。 I)売春統制の流れ 1198年には 教皇インノケンティウス三世「娼婦を改心させるように努力すべきだ。」と言いました。そして1209 年には、娼婦と結婚するものすべてに罪の許しを与える(最後の審判で罪が軽減される)という勅令を出したのです。1227年には 教皇グレゴリウス九世が聖マリア・マグダレナ修道会(娼婦の収容施設)を承認し、そして1254年にはルイ九世が売春根絶を試みました