当時は素晴らしい高性能を誇った「PCエンジン」持っていた人も多いのではないでしょうか。ファミコンの牙城を崩そうとした意欲的なゲーム機でした。結果としてファミコンには及ばなかったものの、その開発思想などは優れていました。そんなPCエンジンを振り返ってみましょう。
アメリカのテレビゲーム業界には、「アタリショック」という事件がありました。1982年にピークを迎えた市場規模が、2年後に1/30にまで縮小してしまった事件です。そこではいったい何が起きていたのか。振り返ってみたいと思います。 テレビゲーム市場が最初に立ち上がったのは、アメリカでした。アタリ社のAtari 2600(別名VCS)は1981年終了時点で、600万台を突破。(「Video Invaders」104p 1982年 著者Steve Bloom)テレビゲーム市場の80%を独占します。(同106p) 1982年末には1000万台に達していました。(アメリカ全体の販売台数は1500万台)(ニューヨークタイムズ1983年1月20日)ライバルの1つであるコレコの「ColecoVision」でさえ、1982年末でようやく50万台ですから、その独占振りが目立ちます。(ビジネスウイーク1983年6月
こんにちは。財布の中身を一瞬で火ダルマにするSPECホルダー・武宗しんきろうです。 ビジュアルでたどる日本の据え置き型ゲーム機のはじまり。後編は1980年中盤から、みなさんご存じのファミコン登場前後までを追っていきましょう。本ブログでの対象範囲はこの辺りまでなのですが、以降の時代に関してもどなたかやっていただきたいですね?。 '80年代に入ると、半導体産業の大いなる躍進とともに、遊具の世界にも大きな変化が現れるようになります。その代表的なもののひとつが、任天堂が1980年4月に発売を開始した「ゲーム&ウオッチ」でしょう。その人気は絶大なもので、蛍光表示管などを使用した小型エレクトロニクスゲーム機とともに、子どもたちの欲しいおもちゃランキングの上位を数年間独占することになります。ゼンマイ、モーター駆動からIC、LSIへと、がん具素材にもアナログからデジタルへの波がおしよせはじめた頃でした。
ドラゴンクエスト30th そして新たな伝説へ 2016.12.29放送 ドラクエを作り出した3人の天才といえば堀井雄二・すぎやまこういういち・鳥山明氏のことです。 今や誰もが知っているRPGの先駆けとなった国民的大人気ゲームですね。 発売日には大行列ができ、社会現象にもなりました。 そんな大人気のドラクエの歴史と誕生秘話から、製作陣の裏話・情熱をみていきましょう! 参考HP:ドラゴンクエスト30th ~そして新たな伝説へ~ - NHK ドラゴンクエスト30周年の歴史 伝説は1986年に始まりました。 1986年:ドラクエⅠ 1987年:ドラクエⅡ 1988年:ドラクエⅢ 1990年:ドラクエⅣ 1992年:ドラクエⅤ 1995年:ドラクエⅥ 2000年:ドラクエⅦ 2004年:ドラクエⅧ 2009年:ドラクエⅨ 2012年:ドラクエⅩ ドラクエ製作陣3人の天才を紹介 ①堀井雄二 ゲームのシ
こんにちは、高橋名人です。 私が、「名人」として活動を開始したのは、任天堂の家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」が発売されてから2年後の1985年春です。同年9月には任天堂から「スーパーマリオ」が発売されてファミコンブームに火がつき始め、翌86年に大ブームを迎えたのです。最終的に日本だけで累計1900万台以上も売り上げるお化けヒット商品になりました。 そのころ私はゲームソフト会社、ハドソンの宣伝担当社員でしたが、85年末に開催された、とあるイベントの記事が東京新聞に掲載されたことがきっかけとなり、それまで子どもを相手に小学館の漫画雑誌「コロコロコミック」でしていたファミコン普及の活動が、より一般にまで広がっていきました。 マスコミの間でファミコンを記事にしたとき、話のできる人間として矢が当たったのも人気を後押ししてくれました。冷静に振り返れば、とてもラッキーで、タイミング
「ファミリーコンピュータ」が発売されてから30年以上、『スペースインベーダー』から数えると、いわゆるコンピュータゲーム市場なるものが産業として産声を上げてから、実に35年以上の月日が経過している。 一時期は、文字通り世界を席巻した日本のゲーム産業。しかし、スマートフォンの台頭や、あらゆる分野がグローバル化の波に飲み込まれるなかで、「日本のゲーム」も、徐々にその影響力を低下させつつあるのは、今さら指摘するまでもない。 大規模化、高度化するゲーム開発環境に、次々と台頭する新興ゲームメーカー。そんな中にあって、日本のゲーム産業の進むべき道、取るべきポジションはどのようなものになっていくのだろうか。 この連載「ゲームの企画書」は、ゲーム史に名を残した名作ゲームのクリエイターの方々に、製作時のエピソードをお聞きして、まとめていく連載企画である。 名作と呼ばれるゲームがどのように作られ、またそこにはど
80年代のゲーム業界はヤクザ社会と一緒で「破門状」というのが実在した 80年代のゲーム業界はフリーダム 558 名前:名無しさん必死だな[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 13:16:31 ID:PJE7xTvf0 [4/8] Togetter - 「80年代のゲーム業界の裏話」 http://togetter.com/li/5774 そういえば、80年代のゲーム業界はヤクザ社会と一緒で、「破門状」というのが実在した。実在どころか何通も受け取った。会社で不祥事を起こした社員、何某を当社はつき合いを断ったので、貴社でも関係を持つなという内容。筆文字みたいな書体で。 当時の隠語で、「タイイチ」「タイサン」なんていうのもあった。人気ソフトが1本に対して、もう一本余分なソフトウェアを仕入れるのは「1対1」なので「タイイチ」。3本ならば「タイサン」だ。超人気ソフトならば「タイゴ
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