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増田と東日本大震災に関するbeth321のブックマーク (7)

  • あれから、今日でちょうど4年経った。

    みなそれぞれ、思うところもあるだろう。「その時」まではまだ半日くらいあるが、まあそれは置いてくれ。今回俺が書いていくのは、とても大事などうでもいいことだ。 確認しておきたい。あの当時、乾電池を大量に買い込んだ奴はいるだろうか。特に単1単2とかの、日常生活で微妙に使用頻度の低い電池を。あるいは、緊急時用の飲料水を。缶詰を。レトルト品を。 自分の専門が家電だからとりあえずそれに絞って話をするが、買ったって奴らは、とりあえずその電池の使用推奨期限を確認しておけ。今日書きたかったことはこれだ。 乾電池には、品で言う賞味期限みたいな指標として、使用推奨期限というのがある。実際、表示内容も目的も賞味期限とほとんど一緒で、該当期間内に使用開始すれば正常動作し、かつJISで決められた性能を満たすことを保証する限界を言う。ちなみに読み方は、一般には「03-2016」とあれば2016年の3月が期限というこ

    あれから、今日でちょうど4年経った。
  • 東日本大震災を振り返って

    先日、クリエーター系の友人と東日大震災が与えた影響について話した。影響と言っても創作界隈に関する話に限ってだ。 一応、立場を明かしておくと僕ら二人はどちらも震災による被害(計画停電を含め)は全く受けない地域にいた日人だ。 友人曰く「311」がクリエーターの精神に与えた影響は凄く大きくて、震災前、震災後で明らかに作風が変わってくるであろうし、時代を分けるべきだ、とまで言っていた。 友人の言うところによると、震災や津波や原発事故はまさしく震災前に想像された世界の終わりであって、SF作品が書いてきたものだった。しかし、現実には世界は終わらなかったし、被災地以外では何一つ変わらない日常が続けられていた。そのことでSF作家というのは衝撃を受け、あの程度で世界は終わらない、と彼らが描く未来というのは決定的に変化してしまった……、まあそのようなことを言っていた。 その友人は震災というのを大きく受け取

    東日本大震災を振り返って
  • 映画「禁じられた遊び」と東日本大震災後のあること

    娘と名作映画と言われるものを一緒に見たことがなかったので、若干無理やりにだけど、まずは共に「禁じられた遊び」からDVD視聴することにした(ちょっと抵抗されたけど・・・)。 見終わって感じたこと。昔何度か見たのだが、そのときからずっと不思議に思ってきたことが、東日大震災後に報じられていたあることと符号し、一気に理解できた。 不思議に思ってきたこと。 ・なぜポーレット(主人公の女の子)は死んだ父母の元から離れ、その後あまり父母のことを思い出そうとしなかったのか。 ・そしてなぜあの動物の埋葬と十字架遊びを繰り返していたのか。 つまり主題である「禁じられた遊び」にどのような意味があったのか。 リンクにあるように、東日大震災後、子供たちの中で地震ごっこや津波ごっこが執拗に繰り返されたと言う。それは大人の目から見ると、不謹慎な遊びであり、ある意味「禁じられた遊び」である。 これは実は東日大震災だ

    映画「禁じられた遊び」と東日本大震災後のあること
  • ボランティアなんぞに顔を出した反省文

    震災ボランティアに顔を出したが、あまりにも仕事の出来ない人だらけで驚いた。 私はその作業内容のプロで、ボランティアリーダーとの共通の知人の紹介で顔を出したのだが、どう考えても異常に効率が悪い。 リーダーに直言するが、まったく話を聞かない。 そして、直言したことが気に入らなかったようで、一人で出来る仕事の方がいいでしょうと、ゴミの整理というありがたい仕事を割り当てられた。(まあ、ゴミの整理も大事な仕事ではありますが) 結果、その団体は我々プロが一時間で出来る作業を一日かけて行い、その成果を大々的にブログに誇っていた。 ボランティアのほとんどは、普段まともな仕事をしたことがないだろう、「使えない」人間で占められている。 そこまでは、まあしょうがないだろうと思う。ボランティアの主力は、バイトのない暇な学生や、普段から仕事が与えられないような公務員だ。 挨拶もまともにできる様子もなく、ホウ・レン・

    ボランティアなんぞに顔を出した反省文
  • 一か月

    3月11日 都内にある会社の、自分の席に座っていた。 自分は就職するまで宮城の沿岸部に住んでいた。 宮城県沖地震は、近いうちに必ず来ると言われ続けていた。 携帯はつながらない。 つけっぱなしになった会社のテレビからは、悲惨な状況が映し出され始めた。 地面にパラパラとゴミが散らばっているのかと思えば、 それらはすべて貨物用のコンテナだった。 燃えながら流されていくものは、段ボールではなく家屋だった。 「映画みたいだな」と、誰かが言った。 見たこともないようなすさまじい映像は、まさに映画のようだったが、 その舞台となっていたのは、自分にとって見覚えのある土地ばかりだった。 台風で午後の授業が中止になった教室のように、 非常事態はどこかワクワクするような、高揚感をもたらすのかもしれない。 集団下校のように外に列をなし歩いて行く大人たち。 家族、あるいは恋人に会うため、帰宅していく人が羨ましかった

    一か月
  • 避難勧告には従いましょう。

    親戚の経験談で申し訳ないんだけど、とても心を動かされたのでご紹介。 親戚は東北のとある場所の消防団員。そう、あの地震と津波に襲われたところ。 地震後、テレビでの津波警報を見て、これは尋常ではないと団員達を集め、どうするか相談していた所、地域を統括する消防署から「マジヤバイから非難しろ」との連絡がある。 各自担当エリアを決め、ハンドマイクで避難を呼びかける。しかし、誰も避難しない。倒れた器棚の片付けが大変だの、犬は連れて行った方がいいのか、エサはどうしようか、お父さんと連絡が取れないから、帰ってきてから逃げるとか、まだ仕事が終わらないだとか、はいはい、後でねとか言ってテレビ見てたり、洗濯干してからとか、まだ配達中だからとか、なんだか消防団に付き合うのも面倒くせえな感がありありで動いてくれない。署の方が当に非難した方がいいって言われてるんだよなど説明して、やっと腰を上げてもらったりしたけど

    避難勧告には従いましょう。
  • 震災から2年の間で身近にあった話をしようと思う

    震災から2年経ったということで ずっと我慢していたがあえて吐き出そうと思う。 いわゆる愚痴である。 自分は東北出身だが、2年前のあの日は関東にいて 奇跡的に自分の身にも周りにも「震災で亡くなった人」はおらず 幸い今も前と変わらない日常が過ごせる身である ※東北 = 青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島 という部分で「お前が言うな」という批判もあるだろうことを承知の上で書く 「あっ…これ…だいじょうぶかな…」 これを見てピンとくる人もいるかもしれない 分からない人はそれでいいとおもう 上記の言葉は何気なく友人たちと買い物する機会や お土産をやりとりする機会で 当に何気なくぽろっと出た相手の言葉だ 断っておくが普段は色々と良くしてくれている、 身近にいる大切な人たちである。 まぁ相手は自分が東北出身だってことは知ってたり知らなかったりするわけだし 今の事態からそういう感想が出てしまうことが ど

    震災から2年の間で身近にあった話をしようと思う
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