ちなみに、この道路標識があるのは奈良県の北西部に位置する生駒市。壱分という交差点です。 答えは次のページに! 関西出身の人でないと、ちょっと難しいかもしれませんね。
枚方のことを「マイカタ」と読んでしまう人が全国にどれだけいるのか? 正しく読める人と「マイカタ」と読んでしまう人の割合を全国調査し、分布図を作成・公開する自治体としては前代未聞の企画。 調査は回答数1000人を目指し、2018年5月から9月末まで実施。1471人から回答をいただきました!詳細は左図をクリック!
縄手通り この通りはこの辺りを東西に走る四条通り(祇園商店街)を境目に名前が変わります。四条通りより南側は、大和大路通りでそれより北側の通りを縄手通りと呼びます。 かつて三条河原は斬首場でした。罪人が首を斬られてさらされる場所です。今は鴨川を一望できる場所にスタバがあり若者や観光客に人気のスポットですがかつてはそのような場所でした。それはかつても今と同じように多くの人々が行き交う場所だったからです。だからこそそのような場所で見せしめとして刑が執行され、その残忍な有様をさらす絶好の場所だったのです。 今、縄手通りはオシャレなバーやレストランなどがひしめき合う通りです。かつては、三条河原で首を斬られる罪人が手に縄をかけて連行される時に通る道だったのです。 以上、いくつか強烈な印象に残る逸話が伝えられる地名をご紹介しました。京都は都として長い歴史を持つだけにそこには多くの人々が暮らした土地でもあ
赤池 平安時代末期、北面武士だった遠藤盛遠(もりとお)は渡辺渡(わたる)の妻、袈裟御前と許されざる恋に落ちてしまいます。盛遠の気持ちを察した袈裟御前は夫の渡辺渡を殺してほしいと話を持ち掛けます。ところが袈裟御前は夫の身代わりになって盛遠に首を討たれてしまいます。 盛遠が袈裟御前の首を近くの池で洗った時、池の水が真っ赤になったので、その池は赤池と呼ばれるようになったと伝えられています。愛した袈裟御前の首を切ってしまった盛遠はその後人生の無常を悟り出家します。文覚(もんかく)上人となって袈裟御前の菩提を弔いました。後に神護寺復興など真言宗の中興に尽力しました。 天使突抜(てんしつきぬけ) 西洞院通松原を下った所に五条天神宮があります。五条天神宮祭神の少彦名命は別名・天使様と称され創建当初は天使の宮(天使社)と呼ばれていました。少彦名命は、医者の神様としても有名です。 戦国時代が終わり、豊臣秀吉
帷子ノ辻(かたびらのつじ) 嵐電の駅にもなっている地名なので京都市内出身の方なら読めるでしょう。嵯峨天皇の皇后・壇林(だんりん)皇后の葬送の際に、棺を覆った帷子(かたびら)の衣が風で落ちた場所と伝わります。 この壇林皇后は京都を歩いているとたまにその足跡に登場する方です。京都で有名な皇后と言う意味ではこの壇林皇后と祇園祭の占出山、大船鉾、船鉾などの御神体になっている神功(じんぐう)皇后がとりわけ有名です。 平安時代初期、檀林皇后はお寺で修行をしている僧侶が心を動かされるほどの美貌の持ち主だったそうです。皇后はとても強い宗教観を持っていたと伝えられています。「この世には永遠不滅なものはなく執着すべきでない」という考えを持っていたそうです。そのような教えを人々に伝えるたに、自らの亡骸で飢えた動物たちを救うことを願ったと言います。「死後、亡骸は埋葬せず放置し、動物に食い荒らされ無残な姿になろうと
千本通り 千本通りは平安京の中央を南北に走っていた朱雀大路というメインストリートです。北は船岡山(ふなおかやま)から、南は正面玄関に当たる羅城門までを貫く道幅85メートルもある平安京で一番大きな通りです。 この朱雀大路、のちの千本通りの真北に位置する船岡山の西側に死者の埋葬地があったと伝えられています。この場所に毎晩おびただしい数の死者が運ばれる道がのちの千本通りだったのです。ひっきりなしに運ばれる死者を弔うために当時道の両側には無数の卒塔婆が立てられていたそうです。千本という数は「数えきれない」「無数の」という意味を示したものと言われています。そこからこの通りは千本通りと呼ばれるようになったのです。 また、船岡山公園の手前に「閻魔前町(えんままえちょう)」という地名があります。これはあの世(紫野)の入口、閻魔様の住む場所としてつけられた地名だったとか。 閻魔様つながりでは、「閻魔大王」を
日本を代表する観光地、京都。その景観の美しさもさることながら、古都らしく珍しい名前の地名が多く残るのも魅力のひとつとなっています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』の著者・英学(はなぶさ がく)さんは、そんな中でも「恐ろしく、そして切なくもある由来」を持つ地名を紹介してくださっています。 京都の地名に隠された由来 今となっては世界中から沢山の観光客が訪れる美しい古都・京都も実は恐ろしい由来を持つ地名がいくつも残されています。1,200年の長きにわたり何人もの権力者たちがこの地を目指し、戦乱によって多くの人の血が流れた場所でもあります。そのため、京都の地名をひも解くと「そうだったのか!」と背筋が凍るような言い伝えの数々が残されている場所が少なくありません。諸説ありますが、今回はそのうちの一部をご紹介します。 衣笠 かつて洛中で亡くなった民衆は、洛外の葬送の地に葬られていました。当時は風
「今日は心斎橋で飲もうか」。同僚に付いていくと、思っていたのと全く違う場所に案内された。「心斎橋」とつく住所は複数あり、エリアは相当広い。おおむね通りの名前が住所になっている船場付近と比較して、この辺りはなぜ町の区分けが大きいのだろうか。会社に戻って改めて心斎橋のある大阪市中央区の地図を広げてみると、長堀通あたりを境に様相が大きく異なることに気がついた。町名が所狭しと並ぶ北側に対し、一つ一つの
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